4-2 一掃です
物見台の下は、乱れに乱れていた。
「いっ――!」
「おい、二人一組で動け! 背中から襲われたらひとたまりも――」
「上だ! 屋根伝いに上ってきてる!」
「指を守れ、こいつら狙ってきて――」
多数の門下生たち、それから治安機構の人間たちがその場に集って、剣を振るっている。
しかしながら、それでも多勢に無勢――徐々にその数を増やす鼠に翻弄されるがまま、至るところに血の飛沫が跳ねている。
クラハもまた、その戦いに参加して。
近くに立つ門下生の前腕に食いついた鼠を、剣で貫いていた。
「すまん! 助かった!」
いえ、と言葉にする余裕すらもない。
四方八方どころの話ではない。鼠の体高は低く、仕留めるには腰を屈める必要がある。にもかかわらず身の軽い鼠たちは近くの建造物を足掛かりにしては、頭上から攻めてくることすらある。
あまりにも戦いにくい。
しかし、救いがあるとするなら――、
「くっそー! こいつら、一匹一匹は大したことないのに!」
イッカの叫び。
しかしクラハは、むしろそこに勝機を見出していた。
鼠たちがさらに数を増し、この場を抑えられなくなってしまえば――あの中央の街で〈インスト〉がもたらしたのと同程度の人的被害が発生することには疑いがない。
けれど、強度だけは。
Sランクパーティが束になってようやく一羽を打倒できたあの怪鳥――〈インスト〉よりは、遥かに低いのだ。
だとするなら。
質ではなく、量だけの問題なのであれば――、
「――――一網打尽にさえ、できれば」
そしてその手札を。
すでにこの町に来てから、クラハは見つけていた。
「すみません、上に行きます!」
「えっ、」
イッカの驚きに対するリアクションを、クラハは行わず。
見上げていたのは、すぐ傍の物見台。
彼女は、呪文を唱えて。
「――〈吹け、激しく〉!」
ぶわ、と。
降り落ちるはずの雨粒が一瞬その場に停滞するような、上向きの風。
大した魔法ではない、とクラハは思っている。
移動の補助に使う魔法――大風を起こして、空中での機動を可能にするための魔法。
もし身体能力が高ければ、ジルのように、あるいはイッカのように、単なる跳躍で至れたはずだと思うけれど。
「ふっ――!」
今はこれが、精一杯。
濡れた梯子を一段一段上るのではない。大風を上手く使いながら、クラハは物見台の骨組みに足をかけて、できるだけ短い時間でとそれを登っていく。
真っ向向かいから激突する雨滴に目を細めながら――しかしそれでも何とか、最上段へと手をかけて。
「お、おいなんだあんた――」
「すみません!」
不格好な形で、物見台に上り切る。
防衛のために抜けていったチカノの代わりに、そこで弓を構えていた門下生。
彼に一言だけ断って、双眼鏡を借りて、
「――嘘。止めてる分だけでもあんなに……」
指先が震える。
ジルとチカノ。ふたりが向かっていった先にいる鼠の数は、今この物見台の下にいるのとは比べ物にならない。
あれが雪崩れ込んできたら、町には肉片一つも残らない――先ほど鼠との格闘を経験しただけに、クラハにはそれが、理屈ではなく感覚でわかる。
しかし今は、信じるしかない。
その分はジルとチカノのふたりが止めてくれるはずだと。この場所からでは、いくらなんでも射程が遠すぎて、自分の手助けでは決して届かないから。
行動の目的は、こちら側。
情報拠点となる物見台と道場。ここに襲い来る鼠の一掃による、ふたつの防衛圏の再確立。
物見台の状況は、たったいま目の前にあるからわかり切っている。
もうひとつ、問題になるのは――、
「――あれ、道場が……」
「そっちは平気だよ! サミナト先生があんたらと入れ替わりで向こうに戻ったんだ!」
鼠の侵攻が、向こうではまるで見当たらない。
一体どのようにして武術家であるはずのサミナトがあの多数の鼠たちを退けているのか……それはわからないが、しかしとにかく、僥倖であることには間違いない。
至って行動はシンプルなものになる。
この拠点にいる鼠の一掃。
それさえ済ませてしまえば、状況は最悪にはならないはずだと。
決めたなら、やることはもう、見えていた。
隣に立つ男――道場の人間だろう。彼に、クラハは自分の考えを説明する。
男は、一度面食らったような顔をしてから、
「確かに原理上は可能だと思うが、タイミングが――」
「伝達の魔法が使えます」
言って、クラハはそれを実践してみせる。
中央の街の防衛戦でも使ったことがある――遠く離れた人間へ、自分の声を伝える魔法。
比較的高度な魔法だから、そこまで範囲を大きく取ることはできない。
けれど、この物見台の周辺にいる人々に飛ばすこと自体はできるから。
目の前の門下生に簡単な言葉を伝えてみせれば、彼は渋い顔をしてから、しかし、
「――こうなりゃ、イッカに頼るしかないか」
その一言で、クラハは即座に伝達の魔法を、眼下で戦う人々へと向けた。
必要なことは、三つだけ。
それらを伝え終えたあと、「可能であれば、返事を」と添えて言えば。
人々は。
「教会側、問題ありません! やれます!」
「道場も問題ない! 合図を頼む!」
すかさず、この雨に負けじと声は張り上げられて。
最後のひとり。
イッカだけが、やや遅れて。
襲い来る鼠を斬り落としながら――ぎっ、とその双剣を強く握りしめて。
のち、クラハを見上げた。
「――わかった、やるよ! 危ないからみんな、気を付けてよね!」
これで、手札は揃った。
あとはクラハがやることはただひとつ。
この戦術を成功させるために、と。
彼女は目を皿にして、地上の動きを見つめ続ける。十数人と数百匹が乱れ混じる戦場を、観察し続ける。剣を使ったのは誰か。傷を負った人間はどう動くか。教会信徒の障壁発動後のラグの間隔はどうなっているか。死角に隠れ込んだ鼠はいないか。雨は、風向きは、泥と水は、放たれるべきその瞬間は――
今、
と、見極めたから。
「跳んで!!」
伝達の魔法で、彼女は叫んだ。
剣を振るっていた門下生たちが、一斉に跳躍する――この一瞬、鼠と戦闘していた誰もにその余裕があったから。
「障壁!!」
次の叫びは、ほとんど不要のもので。
聖職者たち――そして多少なり神聖魔法を使えるクラハもまた、最初の言葉の時点で予備動作に入っていて。
伝達の言葉が終わるよりも先に、展開を終えている。
雷の魔法への対策に特化した、絶縁障壁。
それらが跳躍した門下生――そして教会信徒たちの足元に出現し、空中に固定された、地面と接さない足場と化した。
いま集っている聖職者たちの力は、それほど強いものではない。それは彼らの体重を支えられこそすれ、きっと強力な魔法を食らえばひとたまりもなく破壊されてしまう――その程度の、脆弱なもの。
けれど、重要なのは。
直撃ではなく、飛び火を避けることで。
「〈摩訶――」
最後の伝達の魔法は、もう。
必要がないと理解しながら、叫ぶことになる。
「イッカさん!!」
「――雷天双〉!!」
稲妻が、地面を奔った。
「く、ぅおお――!」
イッカの苦悶の声は、出力が足りないからと漏れたものではないように見えた。
土、あるいはその上に溜まる水に手をつけながら、魔紋を励起させて雷を解き放っている――けれどそれが空気中に散ってしまわないよう、周囲の門下生たちにまで害を及ぼさないよう、必死に抑え込んでいる。
神聖魔法による絶縁障壁の足場と、その下の空気の壁。それらのおかげで門下生らは感電を逃れ。
一方で、それを食らった鼠たちは――痺れて動けないまま、稲妻によってその身を苛まれる。
一、十、二十――黒霧が次々に噴き出すのは、討伐の証で。
「終わりました! 一掃です!」
「っしゃあ!」
クラハがそう叫べば。
疲弊の色濃い表情のまま――イッカは身体の濡れることも気にせず、その場に倒れ込んだ。
焦げついた臭いが、雨の中でも物見台の高さにまで立ち上ってくる……クラハはその場所から、確かに眼下の鼠の全てが駆逐されたことを確かめたのち、「すみません」と一言断って再び地上へと降りていく。
向かったのは当然、イッカの傍。
「大丈夫ですか、イッカさん!」
「もち。……って言いたいんだけど、かなり頑張ったから、しばらく使い物にならないかも……」
「手を――」
「あ、ううん。気にしないで」
掴むと痺れちゃうかもだから、とイッカはひとりで起き上がって、
「……もしかして、これで終わった感じ?」
若干の期待を込めた声音で、そう言った。
できればクラハもそれに頷いてやりたいと思う――けれど、実際にそうでないことを口にすることはできない。
だから、首を横に振って、
「ジルさんとチカノさんの方には、これとは比べ物にならない数の鼠がいました」
「え゛」
「いくらおふたりでも、全てを抑え込むのは無理だと思います」
マジか、とがっくりイッカは首を落として、
「せっかく大活躍だと思ったのに……。んじゃ、ここからまた頑張る感じ?」
「はい、大変ですが……」
クラハは言って、周囲に目を配る。
すでにイッカの魔紋による雷は、この場に残っていない。そして教会信徒たちの使った絶縁障壁も解かれ、門下生たちも次の行動に移り始めている。
ひとりの女性と目が合った。
刀を手にした彼女が、こちらにニッと笑顔で拳を向けてきたのに、ぺこりとクラハは頭を下げる。
少しでも力になれただろうか、と思いながら。
「ねえ、クラハさん」
「あっ、はい! どうしましたか?」
人と話している途中でよそ見をしてしまった、と。
申し訳なさで声の大きくなってしまったクラハに、イッカは面食らったような顔を、一瞬してから。
「いや、あのさ。どうでもいいことかもしんないんだけど、さっき――」
しかし。
そこで不意に、言葉は途切れた。
クラハがそれを不思議に思ったのは、ほんの束の間のこと。
今度は、自分ではなく、イッカの目線が外れていることに気が付いたから。
振り向いて、後ろを見る。
「え――」
「なに、あれ」
茫然と。
イッカの呟いた言葉は、その場にいた全員の心情の、代弁でもあったはずである。
だって、気付かなかった。
クラハに至っては、さっきまで物見台に上っていたのに。周辺の状況の警戒をしていたはずなのに。
音もなく、姿もなく。
それは、唐突に現れたようにしか思えなかった。
「鬼――?」
そこに立っていたのは。
角を生やした、一匹の魔獣。
何に似ているか、と問われれば。
きっとほとんどの者が、こう答える。
人間。