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2-1 舐めるなよ



「ガウウウゥウウウウウッ!!」

「ウホッ! ウホウホッ、ウホッ!!」


 ガウガウ言っている方が魔獣で、ウホウホ言っている方がジルである。



 奈落の底の方に叩き落とされてから、三ヶ月。

 彼は、野生に帰っていた。


「ぐ、グウゥウ……!」

「ウホホッ!」


 動きはどこまでも最適化されている。

 どうやら狼型の魔獣らしい――そのことをぼんやりシルエットから理解したジルは、もはや剣を抜くことすらしなかった。素早く相手の背後に回り込み、首を絞め、決して離さない。魔獣がどれほど首に力を込めて暴れ回っても、びくともしない。魔獣の歯茎がやがて割れだす。黒い泡を噴き始める。ごきり、と音が鳴る。


 ばしゅ、と音がして霧が噴き出す。


 勝利だった。


「ウォオオオオオ!!!」


 迷いなく、ジルは雄たけびを上げた。そして食糧事情のために薄くなりつつある胸板を二度三度とドカドカ叩き、ウホウホとまた叫んで。


 ハッ、と。

 我に、返った。


「……ふ、ふふ」

 眼鏡を押し上げるつもりだったのだろう動作。

 しかし裸眼ゆえに、その指は間抜けに眉間を叩くだけ。


「舐めるなよ……こっちは人間。大枠で見ればゴリラの親戚なんだ。狼ならともかく、犬ごときに縄張り争いで負けるものか!」


 とりあえずあるだけの理性をかき集めて、できるだけ知的に、ジルはそう勝ち誇った。


 このままではマズイ、と思いながら。



 経過した月日は三ヶ月……ほとんどもう百日も近付いている。

 そんなに長い期間を、ろくにサバイバル用品も持たないまま生き延びた。卓越した彼の戦闘力を差し引いたとしても、驚嘆に値すべき生存能力である。


 が、いくらなんでも文明人には文明人の限界がある。

 つらくなってきているのだ。


「畜生……。あの犬、せっかく捕まえた魚を食い荒らしやがって……」

 地面の上を手探りながら、ジルはついさっき犬型の魔獣に横取りされた魚型の魔獣の死骸をかき集める。どこかに完全な状態で残っているものはないか……指で触って、目の前に近づけて、匂いを嗅いで確かめながら。


 ジルは水辺をメインの生息地とすることに決めていた。

 その理由は二つある。


 一つは、巨蟹を屠ったときの再現をしやすくするため。つまり、戦闘において自分が優位に立てるフィールドである、と考えているから。ここなら魔獣の接近にも気付きやすく、ちょっとやそっとでは自分の命を獲られることはあるまい、という自信があった。


 もう一つ――これがもっとも重要なことだが――食料や飲料の確保のために。


 まず、意外なことだったが、迷宮の中にある水は、渇きを埋めるための飲み水として扱うことができた。

 これを確かめたときには、ジルは心底ほっとした。それがダメなら魔獣の体液でも啜るしかなかった。以前に砂漠でラクダ型の魔獣から水を啜ったことがあったが、限りなく最悪の気分だった。できれば二度とやりたくない。


 そしてまた、水の中には魚型の魔獣も多くいた。 

 一般的に、魔獣は『食えなくはない』と評されることが多い。普通の動物を食した方がコストの面でも味の面でも数百倍はいいが、しかしとりあえず全身が金属でできているわけでもないから、切羽詰まったときの食い繋ぎにすることくらいはできる。


 だからジルは、この水辺に生息することを決めた。

 水を飲む。魚を捕まえて食らう。


 非常に原始的ながら、とりあえずそうした生活を立てることにした。


 これがつらいのである。


「なんなんだこの魚……ありえんほど臭いぞ……」

 魚は不味いし。


「水も臭い……。泥水そのものだ……」

 水も汚れているし。


「あと俺も臭い……」

 自分も不潔だし。


「なんでこんな一人でぶつぶつ喋ってるんだ、俺は……」

 精神もかなりキテいるし。


 とにかく、かなりしんどくなっているのである。

 だから、彼は思う。


 このままではマズい、と。


「……そろそろ行くかな」

 剣を手にして、立ち上がった。不味い魚を生食して、何が混ざっているのだかもわからない生水に冷や汗を流して、ぶつぶつ独り言を言いながら果たして自分が人間だったかゴリラだったかも思い出せなくなってきたころに。


「今日こそは、押し通らせてもらうぞ……!」


 動き出せば、その気配を察知して魔獣がどんどん襲い掛かってくる。抜刀してそれらをズバズバ切り伏せながら、顔色ひとつ変えずにジルは進む。眼鏡のない生活にももう慣れてきた。周辺の環境はあいかわらず何ひとつとして読み取れないが、動いているものにとりあえず剣を合わせる技術は、水辺の魚獲りを繰り返すうちに、おおむね習熟できたと言っていい。


 相手にならない。

 このくらいの魔獣たちは。


 けれどこの先、扉の向こうにいるのは――、


「ゴアアアアッ!!」

 雄たけびが響く。

 それはすでに、ジルにとっては聞き慣れた声。


 何度も何度も、彼の行く手を阻んできた大いなる魔獣の声。


 ジルは一息、大きく吸い込むや、裂帛の気合とともにその扉を開け放った。


「オォオオオオオッ!!!」

 彼には見えていない。


 目の前にいる魔獣が何者なのか――足音から判別するなら四つ足、シルエットから想像するなら竜にすら匹敵するだろうという超大型。そのくらいのことしか、わかっていない。


 が、厳然として、目の前には真実が横たわっている。


「い――っ!?」

「ゴゴォオオオオアアアッ!!」


 斬りかかった剣が、かきん、と弾かれた。


 合わせられたわけではない。

 こちらの攻撃のタイミングを読み切られて、カウンターとして払われたわけではない。


 ただ、純粋に。

 この魔獣は、刃物を肌に、通さない。


 金属よりも硬いのだ。


「今日もダメかっ――!」

 ひらり、とジルは魔獣から繰り出される攻撃を躱した。速度自体はさほどではない。視覚に頼らずとも、その巨体が生み出す風圧を感じるだけで、十分に回避可能だ。


 ジルは、二度を試さない。

 すぐさま背を向けて、魔獣の下から走り去った。


「ゴアアアアアアッ!!」

 ばたん、と扉を閉じれば、それ以上は魔獣も追ってこない。この性質から、わかることがある。


 あの魔獣は、階層主だ。

 主部屋に陣取る、この階層の主。最も強い、異常値の魔獣。


「未熟だな、俺は……!」


 はあ、と溜息を吐いて、ジルは壁へと背中を預ける。これを好機と襲い掛かってくる雑魚魔獣を、恐れるでもなく片手で斬り伏せる。


 彼ほどの技量があっても、届かぬ相手。

 斬れぬ相手。


 しかしこの数十日の探索の中で、ジルは確信していた。

 この階層からさらに地上へと進むためには、あの階層主を下して通らなければならないのだ、と。


 これが眼鏡のあるときだったら……という気持ちはもちろんある。が、現実的ではない。ないものねだりは、状況を変えてはくれない。


 だから、とりあえず己を責めることにして。


「……素振りからまたやり直しだ!」


 言って、ジルは水辺の棲み処へ戻っていく。


 このままでは本当にゴリラの仲間入りをしてしまうのではないか……そんな不安を抱えながら。


 当初目覚めた場所より五十階層を下った地点で、足止めを食らっていた。


 参考程度までに言い留めておくと、現在確認されている限りで最も巨大な迷宮は全百階層程度で構成されていたそうである。


 あと、彼はこれでもずっと、真っ直ぐ出口まで上っているつもりだ。





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