4-1 りょーかーい
「避難誘導路の標識を出しに行ってきます!」
「ま、待って、僕も行く! ひとりじゃ危ないよ!」
およそ十五分の経過。
ジルが文字通り矢の勢いで北へと迎撃に出て、クラハとイッカのふたりが残されてから。
激しい雨の中――今は、巡回に出てきていた門下生たちも戻ってきていて。
周辺住民たちの避難も出だしの成功は約束されたと確信できる程度には、円滑に運んでいたから。
クラハはその言葉を残して門から飛び出し、それに慌てた様子で、イッカが追い付いてきた。
道を急ぐ町人たちに声をかけ、すれ違いながら……イッカが、クラハの後方すぐにぴったりと張り付いて訊ねる。
「クラハさん、これ、どこに――」
「塞がれている避難経路を避けて道場まで進めるよう、標識を出しに行きます! ――〈光れ、長く〉!」
ぱ、とクラハが曲がり角の壁に手を突いて、呪文を唱える。
すると鮮やかな黄色の模様が現れる……矢印のマーク。どちらに進めばいいか、どの方向に道場があるのか、それを逃げてきた人間に知らせるために。
イッカがその光に走る足を緩めかけたのはわかっていた――けれど、クラハは止まらずに、さらにその先へと駆けていく。
状況は、ついさっき戻ってきた門下生たちから聞いていた。
外縁部の警戒に当たっていたグループが、多数の魔獣に遭遇。
その場にいた人員だけでは抑え込み切れず、数人の伝令役が周辺警戒中だった別グループ及び治安機構に応援要請。それでも手が足りなくなる可能性、町への侵入と被害の発生を許してしまう可能性を考慮し、避難警報の発令に至った、と。
そして、彼らが道場に至るまでに歩んできた道のり――そのうちのどこにまで、魔獣の姿があったかということも、もちろん。
だから、クラハは頭の中で地図を組み立て、思考をしながら進んでいる。
彼らが移動に費やした時間。彼らの到着から自分が行動に移るまでの時間。そして今現在も経過し続けているこの作業時間。それらに合わせて、現時点での魔獣の襲撃領域を推測しながら、最終的には自分自身がその空間を目視することでその安全を確かめて、被害に遭う可能性が最も低い迂回路の提示を――、
「頭下げて!」
イッカの声が響いた。
考えるよりも先に、クラハは膝からかくんと力を抜いた。
するとその頭の上、ほとんどすれすれを舐めるようにして、剣が滑っていく。
じゃ、と一音。
それは、刃が獣を裂く音で。
勢い、雨に濡れた土の上を転がって、それから顔を上げれば。
クラハは、一匹の魔獣が斬り伏せられている場面を――イッカがそれを成した跡を、目にすることになる。
「す、すみません!」
気付けなかった。
見ればそれは、クラハが両腕を開いたのと同じくらいの大きさの、アナグマに似た魔獣である。
一体どこから……そう思って周囲を見回せば、イッカが先に答えてくれる。
右の剣で、ふたりの隣をずっと続く家々の屋根を指して。
「そこの上の方から……んげ、」
そして言葉の途中で、ぴょい、と一足跳び上がって。
向かいからやってきた――今度は小さな蝙蝠の魔獣。
それが道場の方向へ飛んでいこうとするのを、真っ向から斬り捨てた。
と、とイッカは重さを感じさせない動きで着地して、不安そうな顔で。
「かなり奥まで来ちゃってる……どうしよう」
彼が口にした心配を、クラハも同時に抱えていた。
想定していたよりも魔獣の侵攻の進みが早い。
おそらくこれは、道場に戻ってきた門下生たちから聞いた以上の何かがある――何か重要なファクターを、知らないままで状況が進んでしまっている。
ちらり、とクラハは仰ぎ見た。
視線の先は、物見台。
つい先ほどまで、チカノが陣取って弓を引いていたはずの場所。
「――このルートの避難標識の設置が終わったら、一旦向こうに行きます」
「え?」
「チカノさんが言っていた『南』と『北』――二方向からの襲撃の場合、危険箇所と門下生の方々でのカバーが難しい範囲はこのあたりに集中することになります。ここを塞いで迂回路を示すことができれば応急処置としては十分――」
だから、とクラハは、
「そのあとは状況に応じて対策に出た方が効率的です。情報のハブ地点は道場かあの物見台……最速は物見台の方です。私はそっちに」
「……な、なんかよくわかんないけど」
戸惑ったような表情ながら、しかしイッカは、双剣を抜いて、
「ついてくよ! 僕も、何をしたらいいかわかんないし……」
情けなく思う気持ちが、クラハにはあった。
自分より年の三つほどは下だろう少年。彼の手を借りなければ、ついさっきだって重傷を負う可能性があったのだから。
ジルの。
竜殺しの英雄の手を煩わせて、指導を受けてまで。
なお自分はこの程度なのかと――落胆し、歯噛みするような気持ちも、間違いなく存在していた。
けれど、今は。
「こっちです! カバーをお願いします!」
「りょーかーい!」
堪えきれないような悔しさを。
それでも押し込めて、自分にできることを。
そう思うから、クラハは走った。
頭の中で何度も繰り返すシミュレーション。敵影を認めるたびにそれを修正しながら進む。進んで、進み続けて、自分の思う通りの範囲の全てに避難標識を設置して、またその戻り道で確かに住人たちがそれを理解し、活用できていることを確かめて。
辿り着いた先。
そこで。
「――ちょ、ちょっと。何、これ……」
震える声の、イッカの隣で。
クラハも全く、同じものを見ていた。
「鼠の魔獣――」
百や二百では効かない。
それらが、町の中心部の見張り台の下に――周囲の家々すら食い散らかすような勢いで、わらわらと集い始めているのを。
†
「ジル先生!」「来てくださったんですか!」
「状況は!?」
門下生たちの出迎えの声に、ジルはそう訊ねかける。
しかし、心の中ではすでにこう確信していもいる――状況も何も、そんなものは見てしまえばわかる。
大ピンチだ。
「わかりません、突然山の方から鼠の大群が――」
「鼠だけではなく、中型以上の魔獣も町に侵入しています!」
ぞっとするような光景だった。
ひとつひとつはそれほど巨大なものではない――精々が、ジルの指先から肘にまで伸びるかという程度。
けれど、あまりにも大量の、鼠が。
この町に、押し寄せてきていた。
「教会の方が障壁を張ってくれています! しかしどういうわけか――」
ジルはさらに見る。
この雨の中、傘を放り捨ててずぶ濡れになった門下生たちの中に、教会服を着た人間たちの姿がちらほら見える。
おそらくこの魔獣騒ぎが滅王関係のものなのではないかと考えて警戒していたのだろう――迅速な出動。そのおかげで、この町の入口の地点で何とか持ちこたえることができている。
けれど。
その障壁を。
「抜けてるやつらはなんなんだ――!」
ず、と潜り抜けてきた一匹を斬り捨てながら、ジルは叫ぶ。
見たところ、障壁の強度はそれほど低くはない。大抵の魔獣の侵入はカットできているし、最低限の機能は確保できていると見てもいいはずだ。
だというのに。
どういうわけか、その障壁を潜り抜けてくる魔獣が、ちらほらと現れているのだ。
「どうすれば――!」
近くに立って、刀を振るう門下生。
彼の言葉が、自分に訊ねかけられたものであるということは、ジルにもわかった。
滅王の再封印者――その名がこの町にどれだけ響いているかはわからない。
けれど、道場の関係者、あるいはこの町の関係者であれば、おそらく自分はほとんどの人間から知られている。
竜殺し。
この道場の主と師範代。突出したふたりの武術家と同格の存在であると、かつての滞在の際に認知されている。
だから、彼らが自分の到着を目にして声を上げたこと――そして今、自分が指示を仰がれていること。その道理が、ジルにはわかる。
だから、大声で。
「障壁の魔法はどれだけ保つ!? 展開数は!」
「……四人で重ねた今の状態なら、あと五分は!」
答えた聖職者の言ったとおり、この場で障壁の魔法を展開できるのは四人。
それも、今こうして押し寄せてきている無数の魔獣たちとの拮抗は一時的で、かつ全員が力を合わせて生み出されたもの。
だとするなら、と。
ジルは、やるべきことを決めた。
「俺が障壁の向こうに出て、一気に鼠の数を減らす! その後は二層に分けて障壁を展開し直してくれ!」
どういうわけか、障壁を抜ける魔獣がいる。
その原理は不明ではあるが、しかしとにかく、重要なことがひとつわかっている。
それは、全ての魔獣がこの障壁を越えてきているわけではないということだ。
何らかの制限があるのかはわからないが――少なくとも、この魔獣たちにとってこれは、容易に突破できるものではないらしい。
であるなら、数を減らして。
単層から多層展開に切り替えることで、その突破のラグの発生回数を増やすことができる。
町に雪崩れ込んでしまうまでに、この場にいる人間で狩り込むチャンスを複数回用意することができる。
そう考えたから、ジルは決めた。
そして一言、聖職者が呟く。
「頼みます、再封印者殿!」
重たい異名だ、と心の中でだけ呟きながら。
一瞬。
彼らが障壁を解除した瞬間に。
「未剣――――」
ジルは一足、大きく跳ぶや、間合いを詰めて。
叫ぶ。
「――――〈爆ぜる雷〉!」
エクスプロージョン。
数十、数百度も明滅する光。雷と名を付けられながらも、しかしそれはイッカのそれと違い、雷の属性を持つ魔法ではない。
それは武技。極限まで高められた内功の爆発。剣から放たれたその熱は、放った剣すらも溶かし切って、降り注ぐ雨を蒸気と変える。土を焦がす。あるいは、今なおジル自身の肌すらも焦がすほどの圧倒的な熱量を一帯に。
しかして、その効果は。
「――効かないのがいるっていうのは、どういうわけだ」
決して、ないわけではなかった。
確かにそこには、黒霧をその身から吐く魔獣の骸が累々と積み重なっていた。
しかし依然。
障壁をすり抜ける魔獣がいるのと、同じように。
ジルの未剣を食らってすら、町への侵攻を続けようとする鼠たちの姿が、そこにはあった。
「ジル先生、剣を!」
「――ああ、助かる!」
刃の融け切ってしまった剣を捨て、代わりに門下生の投げてくれた剣を受け取りながら。
ジルは、その奇妙な鼠たちの一匹を、その手に掴み取った。
無傷。
身体にも体毛にも、一切の焦げ跡すらも見当たらず。
ジルは、その腹を見る。
魔法陣。
それはついこの間、聖女リリリアと大魔導師ユニスのふたりから教わったものに酷似していて――。
「外典魔獣だ!!」
ジルは叫んだ。
聖職者四人に強い緊張が走る、その気配を感じながら。
「何か特殊な性質を持ってるのかもしれない! 武術だけじゃなく、魔法でも何でもいい! とにかくどうにか残りの奴らを撃破する方法を探ってくれ!」
もしも、と。
考えたくすらないことであるが、それでも。
「絶対に障壁を決壊させるな!
――この量じゃ中位種どころか、下位種だって町を滅ぼすぞ!」