3-4 北ってことは、上の方だな
雨は勢いを増し、稽古場の先の渡り廊下は、庇の下まで水にまみれていた。
「待てイッカ! 避難警報って――」
「わかんないよ! でも、一旦門を開けて、近くの人たちの受け入れを始めないと――」
イッカが走る。
左右の屋根からぼだぼだと滝のように雨水が流れ落ちる道を、一直線に。
一体何がなんだか、と。
しかしただイッカの背中をじっと見送っているわけにもいかない、と追って走るジルに、後ろから声がかかる。
「ひ、避難場所に!」
それは、クラハの声。
振り向けば、彼女もまた、こちらの背中を追っていて。
「指定されているそうです! 魔獣災害が発生したとき、この道場も、避難民の受け入れをするように!」
いつの間に、とジルは思う。
ここに来てから九日――大して土地勘もないはずの彼女が、どうしてそこまで知っているのかと。
けれど、今気にするべきは、そのことではなく。
「ってことは、向こうで何かがあったってことか!」
イッカが慌てて、その受け入れを始めようとしていること。
そして、それを始めるべきと知らせるための警報が、今もまだ、鳴り続けていること。
この町に――サミナトとチカノが守っているはずの町に、しかしそれでも緊急事態と呼ぶべき何かが起こっているということ。
気にすべきは、そのことなのだと。
「げっ、誰もいない――」
門前に辿り着いて、イッカがそう口にした気持ちを、ジルは理解できた。
道場側の門前。ずらりと背の高い石塀の並ぶ、その内側。
しかしそこには、自分たち三人しかいなかった。
つまり、これからの避難誘導を始めるに当たっての人員が、ここにいる人間だけしかいないということになる。
こんなのは自分だって焦る。
状況が理解できない。自分に至っては、この町の地理だってさっぱり理解できていない。その状態でこれだけの人手で避難行動を行うとなっても、いったい何から手を付けていいのかさっぱり――、
「イッカさん、外に魔獣がいるか確認はできますか!?」
雨の中、そう叫んだのはクラハだった。
「え――」
「ちょっと待ってろ!」
一瞬、ジルも呆気に取られた。
しかしすぐに彼女の質問に答えるため、外の状況を確認するために、一跳びして塀に上り立って、
「――いない! この正面の道には、今のところ魔獣は何も見当たらないぞ!」
「ありがとうございます! イッカさん、門の開閉は何秒かかりますかっ」
「え、僕なら手でいけるから二秒も――」
「わかりました! それならこちら側の門は開けてしまいましょう、奥の門さえ破れなければ避難場所は確保できますから――」
目を白黒させるイッカに変わって、ジルは正門を開け放つ。
ちょっとやそっとでは押し開けられないだろう鉄の門――本来なら三、四人がかりで取り組むだろうそれを、一息にこじ開けて。
ジルは思う。
こういう場面では、と。
「クラハ、もしかして――」
「一応、この町と道場の構造は頭に入れています。それに、避難行動も――」
一度はやりましたから、と。
彼女が言うのを聞いて。
「それなら指示を――」
「ジぃーーールーーーっ!!」
言いかけて。
途中で止まったのは、この三人以外の声が、響いたから。
聞こえてきたのは、空からだった。
この町を覆う黒雲――それに程近いところから、空気を貫くような、澄んだ声で。
この道場のすぐ傍にある、物見台。
そこからチカノが、こちらに向かって叫んでいる。
「南とーっ! 北、両方ーっ!」
南と北ってどれがどうだっけ――とジルはそれを聞きながら。
「私、南行くからーっ! 北、抑えてーっ!」
頷きかけて、しかし、とジルは思った。
北の方角に、ひとりで行けるものか。
案内としてクラハかイッカについてもらうとしても、避難誘導の一時指揮としてクラハを、そして少なくとも道場の人間として門下生をひとり、つまりイッカを置かなければ、この拠点の有用性が損なわれる。
ええい、しかしたかだかこんなことで足踏みなどできるものか。
そう、むやみやたらな思い切りばかりで、ジルは。
「クラハ、イッカ! ここを頼めるか!」
「――はい!」「う、うん!」
それならもう後のことはどうとでもしてやるとばかりに、ジルは駆け出そうとして。
その手前に、一言、チカノに向かって、
「北ってことは、上の方だなーっ!!?」
ちげーわ!と大声が返ってきて。
「これで走って!」
チカノが、弓に矢を番えて。
ひょうと放つのが、眼鏡を通して、ジルの目に映った。
なるほど、と立ち止まって納得する時間はない。
一本道の案内役は、あの一矢だけだと瞬時に理解して。
「頼んだ!」
クラハとイッカにそう言って。
ジルはその矢を追って、一足跳び上がると、塀の上を走り出した。
雨はなお、激しさを増している。
雨滴のひとつひとつが土を抉る。泥を跳ねる。遠景に映る山の葉々がそれらに打たれてばらばらと地に落とされていく。
その雨の中を、雨よりもずっと速い速度で放たれた矢と、それを追う一人の剣士が、疾風のように駆け抜けていく。
町並みの瓦屋根の上――並大抵の人間であれば一歩も動くことのできないその場所を、ジルは、一直線の通路として滑り抜けていく。
町の底は、飛沫が霧となって真っ白に煙っていた。
幾人かの門下生の頭が見える――そしてまた、避難を始めようとする町人たちの姿も。
それらを追い越して、飛び越して――ずぶ濡れになった前髪を、左の手で後ろにかき流して、一秒後。
トン、と矢が。
チカノの放った矢が、地に落ちる。
それは、決してそこまでが射程だったからでは……彼女の膂力ではそこまでしか飛ばせなかったということを意味しない。チカノの一射がこの町の全域どころか、それを取り囲む竹林地帯すらもその的として狙えることを、ジルはすでに知っている。
だから、つまり。
ここまで来れば、もう案内の必要はないということで。
「――鼠?」
ジルは。
無数の鼠が、氾濫する河川のようにこの町に流れ込んでくる光景を、眼下に見た。