2-3 意味がわからん
「あ、そだ。お酒飲みます?」
「俺は別に……え、普段飲んでんの」
「いや私もひとりじゃ全然。だから友達が持ってきてくれたやつが減らなくて」
ほらこれ、と棚の裏からとてつもない存在感の大瓶を取り出したチカノに、うおすご、とジルは仰け反った。
春の夜。
少し開けた障子戸の向こうから、星と虫の声、少し冷たい風が流れ込んでくる。
チカノの部屋で、ジルはどっかりと座り込んでいた。
「どうすか。飲むなら一緒に開けちゃおうと思ったんですけど」
「いやいいかな……。てかそれすごいな。いいやつだろ」
「ですよ。その友達っていうのが酒屋の……ああいや、あなたも会ったことありますよ。ほら、外でご飯食べてたときに号泣しながら乱入してきた」
「……ああ」
「そしてあなたが隣に座られてタジタジになっていた……」
「わざわざその傷抉る必要あったか?」
純粋な嫌がらせです、と言いながらチカノはその瓶を元の場所に戻して。
さて、とジルの対面、背の低い机の向こうにぺたりと座った。
「んで、何です?」
「……まずは、さっきの蛇のやつはありがとう」
「え、ほんとに土下座しにきた?」
んなわけあるか、とジルが言えば、はは、とチカノは笑った。
「別にいいですよ。不意打ちでも処理できる動きだったでしょう」
「まあな」
「むしろ私的には一発で仕留められなかったのが不満……なんかなあ。距離が開くと威力が落ちちゃって」
びゅん、と片目を瞑って弓を引くような動作をするチカノに、誰でもそうだろ、とジルは呆れた顔をして、
「物見台だっけ。そこで町の見張りをしてるのか」
「ですね。雨の日とかは視界悪くなるから、竹林の方までは無理ですけど。あ、なんか食べます?」
「食べる」
羊羹と煎餅でどっちがいいですか、と背中を向けて棚を漁り始めたチカノに、どっちもと答えて、食いしん坊かと返されて。
実際に出てきた羊羹と煎餅を食べつつ、話は。
「きつけりゃ手伝うけど。町の警備」
「ん。ども。でも今のところは別にいいです。あなたが入っても過剰戦力ですし」
「そんなに大したことはないか」
ばりばり、とチカノは煎餅を頬張って、
「油断してると、とは思いますけどね。でも全体的に小粒かな。なんだか今、そういうのが流行ってるみたいで」
「さっきサミナトもそんなこと言ってたな」
「うわ出た人の父親を呼び捨てにする人」
「言うな、葛藤してるんだから」
葛藤してりゃ何でもいいってわけでもないでしょ、とチカノからの鋭い指摘がありつつ。
「まあでも、ほんとそうなんです。だからお母さんとか師範代級の人たちは派遣されて留守にしてたりして……。ただ正直、あなたの剣の腕を上げられるほどの相手ではないですよ。そんなら私がたまに相手するくらいの方がいいと思います」
というかそのつもりで来たのでは、と言われれば。
確かにそれもまた目論見のひとつではあったので、ジルは頷いて、
「このあいだ〈体験〉の三回目があって……」
「マジで言ってます?」
「マジ。で、これから先どうやって強くなったもんかなと思ってたんだ。調整も含めて、チカノに相手してもらえるなら純粋に助かる」
えー、と彼女は眉根を寄せて、
「ちょっと一回、構えてもらっていいですか」
傍らに置いた刀をすらりと抜くと、ジルの前に立ち上がった。
ん、と答えてジルも同じように、剣を抜いて、立ち上がる。
やりたいことは、わかっていたから。
ほんの少しだけ、剣と刀の先を合わせて――。
物言わぬ三秒。
「……はー、意味がわからん」
はたり、と刀を下ろしたのは、チカノが先だった。
彼女は鞘にそれを収めると、どっかりと座布団の上に座り直して、
「うわー、ムカつくな……。この間まで互角だったのに。なんですかそれ」
「そっちこそ相変わらずなんなんだよ、それ」
言いながら、ジルも剣を納めて座り直す。
「〈体験〉ゼロ回でそんなに強い方が意味がわからん。実際打ち合ったらそっちが獲る目もまだあるだろ。今の感じだと」
「毎日コツコツ頑張ってるから……と言えればいいんですけど、私はあなたの剣癖知ってるんで。それでも獲れて十本に一本でしょ。お父さんでも三本くらいじゃないですか」
持ち上げられて悪い気はしないな、とジルが憎まれ口を叩けば。
今のうちに調子に乗っとけや、とチカノはもう一枚煎餅に指を伸ばし、しかし途中、ふと止めて、
「――ああ。だから弟子を取ったんですか」
「ん?」
「自分の力量に合った相手との対戦組めなくなったから、別の方向から攻めることにしたんですね」
いいじゃないですか、と今度は手で煎餅を割りながら、
「結構いますよね。弟子を取って強くなる人。技術の洗い直しとか色々できますし、弟子の手札で戦術考えてると、対格上の経験も間接的に積めますもんね。格下狩りで変な癖つけちゃうよりは、そうやってた方がいいのかも。流石、考えてるじゃないですか」
「………………ああ!」
「なんだその間」
まあまあまあ、とジルは言った。
まあ落ち着け、とチカノに言いながら、羊羹を二切れ口に運んで。
「ところで話は変わるんだが」
「逃げたなー、急に」
「じゃあ話は変わらないんだが。俺の連れてきた……弟子、うん。弟子。どう思う」
「……え、いいんじゃないですか」
あっけらかんと、チカノは言う。
「話が通じて性格良さそうですし。それだけで必要な行程の八割くらいは進んでるでしょう。かなり適性低いとかだとあとの二割で苦労するかもしれませんけど……そもそもどういう人なんですか、あの子」
訊ねられて。
かくかくしかじかじかじかじかじかじかじかじかじか、とジルは語り、「話なが」と呆れ混じりに笑われて、
「基礎の断片は持ってて、体系化待ちみたいな感じですか」
「ああ、そんな感じだな。早めに未剣を渡して実戦をガンガン……っていうのもありかなと思ってるんだが」
「じゃあもう言うことなしでしょう。サポーターでも何でも、Sランクのパーティに入って通用してたわけですし。技術面なら一年もあれば教えることは教え切れるんじゃないですか。あなたが四年でひととおり修得終わってるんですし」
そうだよな、とジルは頷いた。
腕を組んで、瞼を閉じて、うんうん、と深く、何度も頷いた。
うんうんうんうん、と深く深く深く、頷いた。
「……いや何ですか。本題は」
「……わかるか」
「わからいでか」
そうか、とジルはもう一度言った。
それから目を開けて、腕をテーブルの上に置いて、ぐい、と身を乗り出すようにして、
「師弟関係って、そもそもどういうものだと思う?」
「………………」
うわめんどくせ、という感情を。
誰が見てもそう思っているのがわかる、という顔で、チカノは表現していた。
「うわめんどくせ……」
口でも言った。
「いや待て、聞いてくれ」
しかしその反応にめげることなく、ジルはそう言い重ねた。
彼は知っている。目の前の東国武術家、これはとんでもない人間だと。
初対面でチンピラのごとくというかそのものの態度で盛大に喧嘩を売ってくるし、引き際を知らないのか白目を剥くまで根比べを挑んでくるし、あまつさえお互いの気絶すら勝負の終了の合図と捉えず、意識を取り戻してからも普通にこちらの寝込みを襲ってくる。
それからしばらく顔を合わせればボコボコに殴り合ったりベキベキに圧し折り合ったりを繰り返し――最終的に「よくもまあこんな神経の持ち主が人間社会で『私は人間です』みたいな顔をして生きていられるものだ」としみじみ感慨に浸らされるに至ったものの、しかし。
しかし彼女はどういうわけか――そうしたエピソードがあるにもかかわらず、(本当に理解しがたいが)まっとうな部類に属する人間なのだとも、知っている。常識があり、面倒見がよく、友達も結構いる……そういうタイプの人間なのだと、知っている。
だから今は、こう思っている。
人間関係の相談をするには、うってつけの相手だと。
「いいか、この質問に至るまでには複雑な思考過程があって――」
「いいですよ。じゃあ、ちょっと私はお茶を取りに台所に行くので、その間に喋ってもらっていいですか」
「それじゃ俺がひとりごと言ってるだけだろ」
「うん」
うんじゃないだろ、とジルは訴えた。
そして圧倒的理屈開陳が始まる――かと思いきや、「ごめん私ちょっと今マジでどっと疲れが出てきました」というチカノの一言に気を遣い、できるだけ短く、彼は話を纏めた。
「――年が近くてお互いに助け合ってるはずの相手と上下関係を抱えたままふたり旅って、かなり微妙な気がするんだけど、どう思う?」
「旅出る前に気付けや」
それはもっとも、ということをチカノは言って、はぁああああ、と深く深く、溜息を吐いて、
「もしかして、それでうちまで来たわけですか」
「……うん」
「いや、まあ……そりゃそういうこと考えないより考えた方がいいと思いますけど。え、何。なんかもう問題出てんですか」
「いや全然。……だから怖いんだよ」
見えないところで我慢させてないか不安で、と言えば、あーね、とチカノは頷いて、
「まあ……うーん。難しい話ですからねえ。そういう経緯があった上で向こうに『おう、ポンコツ人間! ネジ回してやろうか?』みたいな対応をさせるのも、それはそれで押し付けでしょう」
「……色々と言いたいことはあるが、まあそうだな」
えー、と。
チカノは両手を後ろに、畳の上に突いて。視線は天井の梁のあたりに向けて。
「……むずかし。うちのおじさんに訊いたらって感じですけど、あの人もちょっと今忙しいですからね。稽古はうちの道場使ってやる感じですか?」
「できれば。借りてもいいか?」
「全然。いま派遣で人抜けて場所余ってますから」
助かる、とジルが小さく頭を下げれば、チカノは「いいってことよ」と返しながら、
「そんならまあ、見ててヤバそうだと思ったら間に入りますよ。とりあえずそれでいいでしょ」
「いや、悪いな。なんか世話になりっぱなしで」
「はいはい。……でも正直、大丈夫だと思いますけどね。あなたも別に自分がどうこうっていうより、向こうの方がどうかってことを気にしてる感じですし」
それなら、と。
「クラハさんだって、そんなに私たちと年変わんないですし。気合いの入った人でしょうから、なるようになると思いますよ」
「うん? そうだな。結構気持ちが強い感じがあって……」
「いや、そっちじゃなくて。それ以前に」
「……負い目があるから逆にとか、そういう?」
ちゃうちゃう、とチカノは手を振った。
そっちじゃなくて、ともう一度言って。
「ほら、あなたの呪いの事情とか。そのあたり込みで弟子入りするって、相当覚悟決まってるでしょう。そうなるとあなたがそういう感じじゃないなら、色々大丈夫なんじゃないですか」
「…………」
「そこまで覚悟決められる人なら、あんまり意志薄弱で気付けば奈落……とはならないでしょう」
ジルは、その言葉を聞いて。
口元に手を当てて、じっと机の上の辺りに、視線を置いた。
本当に、じっと。
驚くほどの静寂――月の海に落ちた砂粒の、その音が地上まで耳に届くような、ほんの数秒。
そののち、ジルが口を開く。
「あのさ、」
言った。
「呪いの話って、最初に詳しくしといた方がよかったかな」
さらなる静寂だった。
ふたりは見つめ合っている。これ以上ないくらいに。お互いの瞳に映ったお互いの姿がはっきりとわかるだろうというくらいに、深く。
再びの三秒。
先に動いたのは、やはりチカノの方で。
彼女はひくっ、と頬を引きつらせると、その目線をゆるやかに外して。
こう言う。
「私、知ーらね……」
「いや待て待て待て待て」
ジルがさらに話をしようと、身を乗り出す。
一方でチカノは、それを避けるように美しい所作でスッと立ち上がり、
「今日はもう寝ましょうか。お部屋だけ案内しますね……」
「いやそれはありがたいんだけど、ちょっと待ってくれ」
「待ちません。馬鹿が。一生遭難してろ」
すすす、とチカノが部屋から出て行った。
このままだとこの部屋に置き去りにされてしまう……それを察したジルは、彼女の背中を追うようにして立ち上がり、部屋を出る。
「そんなにマズいかな。気を遣わせると思って話してなかっただけなんだけど」
「いやもうその話やめましょう。怖いから。明日の晩ごはんの話とかにしましょう。あ、滅王の再封印でしたっけ。おめでとう! 苦労したって聞きましたし、明日の晩はなんでも好きなもの奢ってあげますよ。何が食べたいですか?」
「飯もありがたいんだけど、それはそれとして話を聞いてほしい」
「やだよ……」
マジでやだ、と言いながら逃げるチカノを。
マジで頼む、と言いながらジルが追いかける。
そんな風にして、この町での初日は過ぎていく。
それはまだ、彼らが笑っていられた頃の、春の夜。