2-2 頑張らなきゃ
「へー。じゃあ今はふたりで旅してるんだあ。よかったじゃん、ジル先輩。遭難しなくて済むようになって」
「マジでな」
三人は、屋敷の中を歩いていた。
道場屋敷の縁側。すっかり暗くなった空が覗ける廊下、春虫の声を聴きながら、ゆっくりと。
庭の木々も石も、物を言うことはない。屋敷の障子越しに洩れ出る灯りと、生垣の向こうから聞こえてくる町の声もまた、少しずつ夜の静けさに沈んでいくようだった。
「クラハさん?だっけ。なんでもわかんないことがあったら訊いてよね。僕、これでもここ長いからさ」
「はい、よろしくお願いします」
イッカの言うのに、クラハがすぐに頭を下げれば。
イッカはしかし、それに驚いたように目を丸くして、ゆっくりと隣のジルを見上げる。
「……え。ジル先輩の弟子なのにちゃんとした人なの?」
「俺をなんだと思ってる?」
「変な人」
このやろ、と言ってジルが頭を掴めば、掴まれたイッカは暴力暴力、とはしゃいで笑った。
「まあでも、多分そんなに覚えることないよ。こっちの変な人は全然覚えらんなかったけど」
イッカは、クラハに向き直って説明する。
「こっちの方が、だいたい応接間とか? で、いま向かってる方が客間側。反対側が稽古場だから。細かいとこは先生とか僕らの部屋だったりするから、基本は入んなくていいと思うよ。あ、ジル先輩も稽古来てくれるの?」
「うーん……考え中かな。稽古場は貸してもらうつもりだけど」
「やり。相手してもらおーっと」
「時間が空いたらな。あ、忘れないうちに。そんな感じで進めていくつもりだけど、クラハはそれで大丈夫か?」
「はい。ジルさんに差し支えがなければ」
曲がり角に差し掛かる。
そこで、イッカはクラハに「覚えてね」と言いたげに、
「えーっと結んでるのが左だから……ここで右ね。左に入ると倉の方に出ちゃうから」
「はい。ここで、右ですね」
「そうそう。で、いま向こうから歩いて来てるのがチカノ先輩だから、困ったことがあったらあの人に投げてね」
「うぃーすお疲れです~」
「お疲れ様です。……今のがチカノさんで……えぇっ?」
あまりにもぬるっとした登場に。
すれ違い切った後のクラハも、思わず振り返って二度見したし。
ジルもまた、呆れたような顔で振り返って「チカノ、」と声をかけた。
すると、「ちょっと待っててー」と言って彼女はそのまま去ってゆき、しばらくしてからまた戻ってくる。
「ごめんごめん。ちょい交代でバタついてまして。で、えーっと、そちらが……」
「あ、はい。初めまして。クラハと申します」
「おお、これはご丁寧に。チカノです。さっき挨拶したみたいですけど、あのサミナトとかいうおじさんの娘をやってます。何か困ったことがあったら訊いてくださいね」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。……で、そっちにいるのは……」
黒い髪。ジルと同じ、二十歳。
大柄というほどではなく、また柔和な言葉遣いながら、どこかしなやかな芯を感じさせる彼女は、クラハからジルに目を移して、
そして。
「おや……雑魚……?」
満面の笑みで、そう言った。
え、という顔でクラハがジルを見る。
ジルは、怒りを抑えるかのようにやや俯いて、くい、と眼鏡を押し上げて、
こう言う。
「潰すぞ」
「えっ? ごめんなさい、よく聞こえなかったんですけど……『ありがとう』? いやいや。いいんですよ。物見台に乗ってたらたまたま襲われているのが見えて、なんかやたらおっせえ動きだったからちょっと助太刀してあげただけですから。気にしないで! いやいや、本当に! 気にしなくていいんですよ、本当に!」
「イッカ、こいつが継いだらこいつの代で道場は終わるぞ」
「だいじょぶだよ。こんなすごい勢いで性格終わっちゃうのジル先輩相手のときだけだから」
隣で目を丸くするクラハを、ジルは気遣うようにして、
「なんというか、その。あんまり気にしないでくれ。こういうやつなんだ」
「は、はあ……」
どういうやつなんだ、と訊いてもよかったはずではあるが。
当面のところ、クラハの口からは、そんな言葉しか出てこない。
「当然でしょう。安心してくださいね、クラハさん。私、大抵の人には優しいと評判ですから」
「は、はあ……」
「絡むな絡むな。……あ、そうだ。チカノ、これから時間あるか?」
「ありますけど。どうしました。土下座で感謝を述べたいとか?」
「そうだって言ったらどうするんだよ」
「頭おかしくなったんかなって思います」
「よかったな。俺の頭がおかしくなくて。ちょっと相談したいことがあるんだよ」
「……あーはい。了解です。部屋だけ片すんでちょっと待っててもらっていいですか。呼びに来るんで」
んじゃまた、と言ってチカノは去っていく。
残されたのは、再び三人で。
「んじゃ、僕はクラハさんだけ案内すればいい?」
「ああ、頼む。俺は後でチカノに送ってもらうから。クラハ、」
「は、はい」
「おやすみ。また明日な」
言われて、クラハも「おやすみなさい」と頭を下げて。
んじゃこっちだよ、と言うイッカの後をついて、屋敷の奥へと進んでいった。
†
「クラハさんさ、あのふたりの昔の話って知ってる?」
「え?」
「チカノ先輩と、ジル先輩の」
三年前なんだけど、と。
廊下の途中で、不意にイッカが言った。
「いえ。そこまで詳しくは」
クラハはその質問に、素直に首を横に振った。
確かに、ジルからこの屋敷についてある程度のことは聞いていた。
自分たちの剣派と親戚になる武術の一門。かつて彼もまた、しばらくここに身を置いたことがある、と。
そして道場主のサミナトはジルの師匠程度に。
その娘のチカノが、かつてのジルと同程度に強かったらしいと、そのくらい。
「あのふたりねー、頭おかしいんだよ」
そして、最初に素直に首を横に振ってしまったがために。
今度は「はい」とも何とも返答しかねる剛速球が、イッカの口から放たれた。
「ジル先輩が来たのって三年前……竜殺しの後なんだけど、それは知ってるよね?」
「はい。直接というわけではありませんが、お話として聞いています」
「実はさ、その竜殺しって、最初はサミナト先生とチカノ先輩がやるはずだったんだよ」
え、と思わず。
驚きの声は、飛び出して。
「そうなんですか?」
「うん。なんかね、最初に誤報食らっちゃったんだって。竜が出たって伝達がサミナト先生のところに来たんだけど、それが全然沿岸の方の反対方向でさ。で、途中で逆方向にって聞いてふたりともトンボ返りしようとしたんだけど、」
そのときにはもう、と。
イッカは、やれやれ、というように肩を竦めた。
「たまたまフラフラしてたヴァルドフリード先生とジル先輩が片付けてくれたから、結果的にはよかったんだけどさ。でも、チカノ先輩もそのへん気にしてたのか、ジル先輩がここに初めて来たとき……あ、ここに来ようと思ったわけじゃなくて、普通に遭難して辿り着いたらしいんだけど」
「はい」
クラハはその『遭難』の部分を「はい」の一言で済ませた。
そういうこともあるだろうな、むしろそれが自然だな、ということは、この数週間で事実としてよくわかっていたから。
「チカノ先輩、『こんなガキが竜殺しィ~?』『本当かどうか確かめてやろうじゃねえか!』みたいなノリでジル先輩と決闘したんだよね」
「え――えぇ!?」
あんまりにもな話の流れに、「どうなったんですか、それ」とクラハが食いつけば、それに気を良くしたようにイッカは笑って、
「で、三日三晩」
「み、三日三晩!?」
「最終的にはチカノ先輩が白目剥いて気絶して、それを見たジル先輩がトドメに走ろうとして泡噴いてぶっ倒れて、んでチカノ先輩の方がジル先輩より一秒早く戻ってきたんだ」
「え、えぇ……」
「で、そのあともなんかボコスカずっとやってると思ったら、いつの間にか仲良くなってるし。頭おかしーでしょ、あのふたり」
はい、とも、いいえ、ともクラハは言えない。
自分の剣の師を指して「はい。頭がおかしいと思います」とは言えないし、かといって「いいえ、頭がおかしいとは思いません」というのも自分の心情を正確に反映した受け答えとは言えなかったから。
だから、彼女の返答はこう。
「す、すごいですね……」
「ねー! 僕も強くはなりたいけど、ああはなりたくないな!」
無邪気に。
確かにこのエピソードを聞いた人間であれば大抵そう言うだろう、ということをイッカは言って、
「あ、ここここ。クラハさんの部屋」
「あ、すみません」
「いーよー。隣がジル先輩の部屋ね。場所覚えられた?」
「はい。大丈夫だと思います」
ありがとうございました、と頭を下げれば、「いーよ、いーよ」とやはり、機嫌良さそうにイッカは笑う。
それから不意に、顔を近づけて。
「ね。クラハさんって、ジル先輩の弟子だし強いんでしょ?」
「……いえ。そんな。私なんて全然、」
弟子入りから日も浅いですし、という言葉。
それを、クラハは呑み込んでしまって。
ただ、純粋に。
「弱い、です」
「とか言っちゃってー。ジル先輩もよく『未熟だ』って言うけど、そういうやつでしょ?」
「いえ! 本当に、私は――」
「いつでもいいからさ、暇なとき僕と手合わせしてよ!」
お願い、とイッカは左目を瞑って、両手を鳴らした。
「ね。ここまで案内したんだしさ、ちょっとだけ。三日三晩とか、そんなこと言わないからさ」
案内の見返り、とまで言われてしまえば。
もうクラハは、強く断ることはできない。
「……では……」
「やたっ! んじゃえーっと、しばらく昼当番入っちゃうから……」
「あの、でも私、本当に――」
「よろしくね、クラハさん!」
それ以上は、聞いていない。
イッカは言いたいことを言うだけ言ってしまうと、クラハに手を振って、来た道を早足で戻っていってしまう。
残されたのは、クラハひとり。
中途半端に伸ばされた手は、途中でぱたりと下ろされて。
「本当に、全然……」
一秒、二秒。
落ち込んでいられたのは、それまでで。
「……いや!」
パン、とクラハは、両手で自分の頬を叩いた。
「頑張らなきゃ……!」
一声、自分にぶつけるようにそう呟いて、彼女は部屋の中に入っていく。
まずやることは部屋に何があるかの把握。そして荷物を置く場所を決めたら、その中からすでにくたびれ始めたメモやノートを取り出す。
何枚も何枚も。
それは、ジルから教わったことを書き留めたものでもあり。
また、それ以外にも。
彼女が今、手に取ったものには、こんなタイトルがつけられている。
『ダメだったことリスト』
薄い障子から差し込む青白い月明かり――それに紙面を光らせながら、彼女は書き込んでいく。細かな字で、ひとつも記憶から漏れなくとばかりに、目を見開いて書き留めていく。
カリカリと、ペンの音が響くばかりの夜。
眠りに就くのは、それからずっと先のこと。
ところで彼女は、近ごろ同じ夢ばかりを見ている。
自分が見捨てた人間が、無残に死ぬ夢だ。