1-2 蕾はあるみたいだけど
「ここから先、馬車がないみたいです」
「えっ」
それから、ちょうど五日が経った朝のこと。
ジルが宿屋の寝床からだらだら起き出すと、すでに部屋の前にはきちっとした恰好のクラハが立っていて、彼が寝坊の罪悪感に襲われるより先に、彼女はそう切り出した。
「ないって……」
記憶違いだったかな、とジルは首を捻った。
これから向かう町は、ジル自身しばらく滞在したことのある場所だ。そして、町中では普通に馬車が走っていたこともあった……ような気がするのだけど。
しかし自分の地理関係に関する記憶なんてハナから信用するほうが間違っているか、と勝手にひとりで納得していると、「いえ」とクラハが首を横に振る。
「正確には『あった』みたいなんですが、今は『休止中』だそうです」
「……東の国では休みが流行ってるのかな」
「どうにも道中に魔獣が出るとかで……」
魔獣か、とジルは眼鏡のブリッジに指を当てて呟いた。
「確かに、このへんはちらほら出るんだよな。周りが山ばっかだし。……にしても、運行休止までいくのは珍しいような気もするな」
「どうされますか? 運行再開の予定は未定とのことなんですが……」
「ここからなら、徒歩で行けたりしないか?」
「ええと……そうですね。今の時間からなら、」
ほんの少し、クラハは口元に手を当てて、視線を逃しながら計算をして、
「日が暮れる頃には……ちょっと夜に入ってしまうかもしれませんが、アクシデントさえなければ、徒歩でも十分今日中に辿り着けると思います」
「そっか。じゃあ、歩きで案内してもらってもいいか?」
「はい! もちろんです!」
準備してきます、とクラハが隣の部屋のドアを開いて入っていく。
ありがとう、とその背を見届けてから、さてこっちも、とジルは部屋の中へ戻ってゆく。
ぐう、とそのとき腹が鳴ったので。
できればここを出る前に、何かを食べておきたいな、と思いながら。
†
こんなに道を歩いていて安心できる日が来るとは、夢にも思わなかった。
「基本的にはこの北北西に向かう街道を、一本道で歩いていけばいいだけみたいです。起伏は多少ありますが、獣道というわけでもないので、それほど苦でもないかと。それで、山を抜けると緩衝地帯としての竹林があって、そこから徐々に町が見えてくる……ようです。地図を見た限りでは」
うんうん、とジルは頷いていた。
つまり、クラハについていけばいいんだな、と思いながら。
とりあえず彼女を見失わなければ何でもいい。
というわけで、とてもリラックスした状態で、ジルは歩くことができた。
すると自然、いつものように必死になることもないので、視界に余裕ができてくる。
ちらりちらり、と山のそこかしこに目をやりながら、ときに「ジルさん、そっちは道じゃないです」と裾を引かれつつ、ジルはふと、気が付いたことがあった。
「今年は、まだ山の花が咲いてないんだな」
え、と言ってクラハも、地図に前のめりになっていた首を起こした。
「あ、そうですね。言われてみれば」
枯れ山、というわけではない。
木々は茂っているし、少し街道から外れてしまえば『鬱蒼』という言葉が似合って余りある。
けれど。
「この品種なんかは、ちょうどこの時期に咲くと思うんですが……」
「蕾はあるみたいだけど、なんだろう。冬の寒さが厳しかったからかな」
不思議なことに、ひとつも。
山の花は、咲き誇ってはいなかった。
「クラハって、植物にも詳しいのか?」
「いえ、それほどでは……。図鑑で見たことがあるくらいです」
ジルも、ここしばらく彼女と一緒にいたことで、言葉の裏を読めるようになっていた。
つまり彼女の言っているのは『市販の図鑑で見られる限りのものは何となく頭に入っています』ということだ、と理解して。
「そっか。じゃあもしかして、あそこにあるキノコなんかも知ってるか?」
「は、はい! 見たことは……」
ジルは彼女の隣に立って、頭のあたりにぽつぽつと突起のあるキノコを指差した。
「図鑑にも書いてあるかな。あれって――」
「毒キノコですよね。一口でも食べれば最悪の場合死に至る。山リスなんかはこの毒に耐性があって常食していたりするので、山で遭難した人がその光景を参考に、てっきり食べられるものだと勘違いしてしまうとか」
「……ふ、ふーん……」
「……あ。すみません、途中で遮ってしまって!」
「いや、いい。全然いい。気にしないでくれ」
「いえ、あの、全然。何か言いかけてらっしゃいましたよね」
いや、とか。
すみません、とか。
三往復くらいの言葉の交換があったのち、ジルは観念して、一言だけ。
「――――あれ、口内炎になるし熱もちょっと出るけど、味はかなり美味いんだ」
「…………え?」
いやごめんもう行こう今わかってよかった絶対悲惨な事故に発展するから俺はもう食べ物豆知識の披露はやめる――いえ待ってください食べ物豆知識に興味がありますもしかしてあれって図鑑に載ってるのとは別の種類なんですかやっぱり大事なのは現地の知恵なんですか――やめるんだ違うただ俺がおかしいんだよく考えたら最後に本格的に腹を壊した記憶が七年前に土をたらふく食ったときまで遡らないと存在してないし――そんなどたばたしたやり取りがありながら。
大きな昼休憩を含めて、水分補給のために立ち止まること三回。
少しずつ夕暮れの気配が漂い始めて、それでも魔獣の姿はとりあえずのところ、どこにも見当たらなかった。
「あ!」
すると今度は、クラハが声を上げた。
どうかしたか、とジルが声をかければ、彼女は申し訳なさそうに。
「す、すみません。町までの道のりを考えるのに夢中で、宿の手配について考えていませんでした」
向こうに着いてからもしばらくお待たせしてしまうかもしれません、と頭を下げる。
頭を下げるほどのことじゃない、とジルは思うし、完全にそういう顔になってもいる。屋根とか壁とか、そういうのはあったら嬉しいものであって、常になくては生きていけないという類のものでもない、と思う。
しかしクラハの頭を下げる角度と言ったらそれはもう七日間砂漠の真ん中で踊り狂った後の水飲み鳥のそれで、表情から何かを伝えることはまず不可能と思われたので、
「全然! というか多分、宿とか手配してもらわなくても、泊まるところは確保できるから」
俺も三年くらい前はずっとそうしてたし、と。
ジルが言えば、え、と言ってクラハは頭を上げる。
「……あ。それって、もしかしてジルさんのお知り合いの方の……」
「そうそう」
これから向かう先について、もちろんジルは、あらかじめクラハに説明して了解を取ってはいる。
が、その説明をしたのも十日以上前のこと。もうすぐ到着してクラハも対面することになるわけだから、もう一度くらいと思って、改めて彼は、その知り合いについて説明を始める。
「もう七代とか八代くらい前の話になるのかな。一人の剣士が二人の弟子を取って、それぞれが流派を興した。片方がもちろんうちで――」
「もう片方が、これから向かう『道場』の創始者の方ですね」
そうそう、とジルは頷いた。
「片方が旅の剣。もう片方が――いい言い方が思いつかないけど、まあ拠点を構えた剣術。向こうは派生もあって武術一般になってはいるけど、まあ親戚みたいな感覚だな。俺も三年くらい前にこのへんでうろうろ迷ってたときにたまたま遭遇して、色々あって半年くらい居候してたんだ」
ちょうどいい、とジルは思っていた。
クラハとの関係の安定。その補助。最初に頭に浮かんだのは己の師匠の顔ではあったけれど、今どこにいるのだかわからない人間には頼りようがない。
その点、東の国の『道場』なら違う。そこにいることは間違いないし、それに武術指導それ自体を生業にもしている場所だ。参考にするところは多くあるだろうし、それに――、
「ええと、道場主の先生がサミナトさんですよね。それから、その娘の師範代の方が、チカノさん」
「そう。チカノが俺と同い年で、サミナトさ……サミナトがその親世代。五十くらいだったかな。どっちも強いよ」
旅の目的にも合う、とジルは言う。
もちろん、彼は中央の国で新たに加わった旅の目的のことを忘れてはいなかった。
滅王の残滓。
それが世界に残っていないかの調査。そしていざというときのための、戦力の確保。
少なくとも現時点で自分の知る『戦力』といえば、まずはこのふたりだろうと……そうした考えもあって、この道を歩いていた。
「強い、ですか」
やや困惑の感情を乗せた声音で、クラハが繰り返す。
「実はその、前に伺ったときも驚いたんですが、ジルさんがそう仰るということは、その、たとえば冒険者でいえばSランク相当とか……」
「ああ。少なくともサミナトは、迷宮に潜る前の俺より全然強かった。師匠のライバルだしな。で、チカノの方も……」
一瞬、言い淀んでから。
あんまり言いたくないけど、とジルは苦い顔で、
「あのときパーティに誘われたのが俺じゃなく、あいつだったとしても――――滅王の復活は、阻止できたんじゃないかな」
え、とクラハが口にしようとしたのはわかっていたけれど。
それよりも先に、ジルは彼女の肩を掴んで、押し留めた。
「――待て。何かいる」
視線の先。
森の茂みの中で――何か。
何かが動く、気配がしていたから。