エピローグ-1 運命だから
「ジルくーん! いつまで寝てるのー!」
カンカン、とフライパンを叩く異常な音で、ジルは目を覚ました。
んん、と呻きながら枕元を探る。指に当たったケースを開いて、取り出した眼鏡をかちゃりとつける。
ものすごく至近距離に、リリリアの顔があった。
エプロン姿の彼女は、にっこりと笑って。
「おはよ~」
「……おはようございます」
低い声で、ジルは呟く。この十日ほどは久しぶりのベッドで寝ていたせいで、眠りがひどく深くなっていた。
眠い。
ちらりと、窓の方を見る。
まだ朝日の気配はごく僅か――ほのかに青い明かりが差し込んできているだけだった。
「……早くないか」
「こういうの好きかと思って」
「……どういうのが?」
「こういうの」
うんともすんとも、ジルは答えられなかった。
身体を起こしてもぼーっとしたままで、リリリアに顔の前で手を振られたり、頬をつねられたり、あるいは両手で挟み込まれたりしても起きない。
「真面目な話すると、朝ごはんなくなっちゃうよ。みんな早いから」
「……!」
その言葉で、ようやく目が覚めた。
迷宮内での生活リズムがおかしくなっていたらしく、ジルはここ数日昼前までぐーすか惰眠を貪っていたが……今日だけは、そうはいかないのだ。
「午前中に用事済ませて、そのまま出発なんでしょ? 一応、何か食べて行った方がいいと思って起こしたんだけど……迷惑だった?」
「い、いや! 全然、そんなことは……!」
「だと思った。それじゃ、私は先に行ってるから。顔は洗って、着替え……は別にそのままでもいいけど。早めに来てね」
今日の朝ごはんもおいしそうだよ、私は作ってないけど、と。
じゃあそのフライパンはなんなんだ、というようなことを言い残して、リリリアは部屋から出ていった。
残されたのは、眼鏡の青年ただ一人。
いまだ少しばかり眠りの靄に包まれた頭の中で、こんなことを考えている。
朝からすごくいい思いをした。
誰だよ、八十歳の既婚の老婆とか言ってた馬鹿は。
俺が叩きのめしてやる。
†〇☆†〇☆
「やあジル! 朝に会うのは久しぶりだね!」
「あなたは朝から元気だな……」
「ははは……これから寝るんだよ。泥のようにね……」
食堂の手前の廊下で、まずもってその芝居がかったユニスの声が彼を迎え入れてくれた。
「ここの朝ごはんはね……美味しいよ」
そしてなぜか、内緒の打ち明け話をするかのように顔を寄せて、声を潜めた。
「……そうか」
「そうだよ」
「……俺は今、どんな反応を求められてる?」
「むやみやたらに朝食に対する期待を膨らませて、かつその想像を逐一大声で口に出してほしい。『ウニか!?』とか『カニか!?』とか……」
「何のために?」
「わからない……なんでだろう……」
こいつ疲れてるんだな、とジルは思うことにした。
剣を振ったらそれで終わりの自分とは違って、大魔導師にはまだまだ、この街の修復やら何やらやることがたくさん残っている。星空の下でその力が高まるという都合上、ユニスは夜通しの作業をすることが多いし、その疲れが今ここで出ているのだろう、と。
「肩でも揉んでやろうか」
「えっちだね……」
「今の申し出は綺麗さっぱり忘れてくれ」
少し歩けば、食堂につく。
教会の朝が早いというのは本当らしく、その配膳の受け取り場所から入口まで、すでに行列ができていた。
ジルはユニスと、その最後尾に並んだ。
前に並んでいた信徒たちがふたりに気が付いて、「何で普通に並んでるんだ」とばかりにギョッとして前を譲ろうとしてくれたが――しかし彼らはそのまま並び続けた。「シャケか!?」「その海産物に対するこだわりはなんなんだよ」とか、そんな話をしながら。
待っていれば、やがて順番は周ってくる。並んでいる食べ物の中から、自分が欲しいと思うものだけを取っていく方式だった。ユニスが言うには、余ったものはそのまま昼食に再利用されるほか、ドカ食い聖騎士たちの訓練の供になるという。
パンにスープにベーコンにスクランブルエッグ、マッシュポテトにサラダに……食べられるときにたらふく食べるタイプであるところのジルも、しかし教会からの厚意で無料で提供してもらっているこの朝食を、根こそぎかっさらえるような人間ではない。最後に牛乳を注いで、ユニスがオレンジジュースを注ぎ切るのを待って、それから席を探した。
テラスの方に、リリリアの姿があった。
うっすら発光しているようにすら見える。
探しやすくていいな、と思いつつ、ジルはユニスとその席へ近づいていった。
「もふぁおー」
ちなみに彼女は二人を待つことなく、もう食っていた。
そして、なぜかまだエプロンをつけていた。
「おはよう。いやあ、いい朝だね。僕はもうさっさと寝たいよ」
「おはよう。……言いそびれてたけど、さっきは起こしてくれて助かった。ありがとう」
いえいえ、とリリリアは笑った。
それから三人揃っての朝食が始まる。
「こうして三人揃うのも、とりあえずはこれで最後だねえ」
リリリアが言う。
「え……、あ。そうか。ジルはもう旅立ちか」
「今日の昼前には」
「そういえば、アーちゃんが『馬車の用意は?』って言ってたけど、どうする? あった方がいい?」
「いや、気持ちだけで。この状況で人手を割いてもらうのも悪いしな。大丈夫だよ、これでもそれなりに一人旅はしてるんだから」
すごいよねえ、とリリリアはスープを飲んで、
「私絶対、一人旅とか無理だよ。生活能力ないし、迷うし」
「でも僕はいまだに信じられないんだけど、君たちあの魔獣を僕が来るまでは生で食べてたんだろ? それだけでも凄まじいサバイバル能力だと思うけどな」
「そうかなあ。私も意外と、放り込まれたらなんとかなっちゃったりする?」
魔獣と比べてここの朝食は天国で出されるような出来だな、とジルは思いながら、ベーコンを口に運んだ。
「じゃあ、朝食を食べたらそれではいサヨナラって感じかい?」
「そうだな。病院に寄って一応、あいつらの顔だけは見に行くけど……意識、戻ったんだろ?」
「戻しました」
ちょっと自慢気に、リリリアが胸を張った。
かわいい、と非常に素朴にジルは思った。迷宮の中で眼鏡があったら、耐え切れずに思わず自害していたのではないかとすら考えられる。
しかしそれをおくびにも出さず、話を続けた。
「最後だからな。挨拶して……あとは一つだけ、長引かせてる約束もあるから」
「できれば僕も見送りに行きたいが……」
「いいよ。疲れてるんだろ」
「すまないね」
「いいさ。別に、今生の別れってわけでもない。……例の件もある。生きていれば、いくらでも会う機会があるさ」
あ、とリリリアが声を上げた。
「文通」
「あ、」「あ、」
「はいみんな忘れてた。よくないな~、そういうの」
ちゃんとやろう、と彼女は言う。
「私は再封印の練り込みのために、しばらくはここにいるから。ユニスくんは……」
「もう少ししたら魔法連盟から代わりの人員が来るから、それと入れ替わりかな。もう〈二度と空には出会えない〉も迷宮としては沈静化したようだし、わざわざ僕がうろちょろ迷っている意味はないからね。以降はしばらくまた大図書館に戻って、色々とその資料を研究してみるつもりだ」
「じゃあとりあえず、二人はこうなるので」
ジルくん、とリリリアは言った。
はい、とジルは答えた。
「どこかで落ち着いたら、手紙ちょうだいね」
「わかった。そういうことなら」
「私の字、超かわいいからね」
「僕も頑張って暗号を作るよ」
「……一応言っておくと、俺の手紙は別に面白くはないぞ」
「面白くしてね」「楽しみだなあ」
「おい」
そんな調子で、食事も終わり。
食器も片付けて、食堂の手前。
「それじゃあ」
「うん」
「元気でね」
それだけを短く言って、三人は別々の方向へ――、
「あ」
しかし、またもリリリアが言った。
「ん?」「どうかしたかい?」
「お別れのちゅーをしてあげよう」
ジルは一瞬、ものすごいことになった。
何がどうものすごいことになったのかを説明するのは難しいが……しかしとにかく、ものすごいことになった。
しかし鋼の精神力で、それを抑え込んだ。
ということで、総合的かつ正確に言うなら、ものすごいことになりかけた。
ものすごいことになり切らなくてよかったはずである。
リリリアが次にしたのは、エプロンの前ポケットに手を入れて、人形を取り出すことだったから。
布製で不格好な、子ども向けの人形劇に使うような、へたれた鹿の人形。
それを手に嵌めて、当然のようにジルの頬に、ぐりぐりと押し付けてきた。
「ちゅー」
「……なんだそれ」
「子ども向けの人形劇で使うやつ」
なんでそんなものを持ってるんだ、というかなんでずっとエプロンをつけてるんだ、とジルが訊く前に。
「それいいな。僕もやりたい」
「何がいい?」
「鳥かな」
「竜ならあるよ」
じゃあ竜で、とユニスは言って。
「ちゅぅうううううう」
「…………なんだこれ」
「竜」
そういうことじゃなくて。
はあ、とジルは溜息を吐いた。
期待して損した、と思いながら。
まあしかし、こうして別れを惜しまれるのも悪くないか、と思い直して。
「ジルくんもやる?」
「……じゃあ、まあ」
「はい。じゃあ狼の」
狼と鹿と竜が出てくる人形劇。
そのストーリーに少しだけ思いを馳せながら、ジルはそれを手に嵌める。
ユニスには、特に遠慮なく。ぢゅうううう、と。
そしてまた、リリリアにも。実際のところは、そこまで躊躇なく。
「ねえ、ジルくん。ユニスくん」
その終わり際、リリリアが囁いた。
「うん?」「なんだい?」
訊き返せば、彼女は答える。
「また会うよ。私たち三人は、運命だから」
そんな風にして、三人の迷宮の攻略者――滅王の再封印者たちは、互いのこれからを、祈り合った。




