7-5 頼んだ
「うむうむ」
大聖堂の、尖塔の頂点。
そこに立ち上って、紫色の髪の、男とも女ともつかない銀河色の瞳の彼は頷いていた。
「死にそうなくらいに疲れ果てたが……無理矢理なんとか、夜のうちに間に合った。――皆既日食は、夜明けすぐにだからね」
彼の視界、見渡す限りには魔鳥の姿がある。
外典魔獣〈インスト〉――最高難度迷宮の階層主だとしてもおかしくないそれが、数百羽と群れ成して。
「そのうえこの新月の星降夜――まさに、絶好機だ」
しかし彼の瞳に、恐れは一欠片も見当たらない。
国を滅ぼしかねないほどの魔獣の群れを前にして……何らの怯えも、見当たらない。
「〈オーケストラ〉が生きていたらあれがどれほどの脅威になったのか興味があるが……まあ、このくらいにしておこう。調子に乗ってると痛い目に遭う、っていうのは散々教わってきたからね」
彼は、宵闇の空に両の手を広げて。
「見せてやろうじゃないか。試練を超えてきた〈星の大魔導師〉の、本当の力を」
彼は、呪文を。
「〈すべては流れる〉」
降り注ぐは、千の流星。
三度の〈体験〉を経た大魔導師が、星の魔力の全てを賭して。
†〇☆†〇☆†〇☆
「ただいま~」
堂々と正門から入ってきた姿に、アーリネイトは目を疑った。
「……聖女、様?」
「ごめんね、遅くなっちゃって~」
しかし、間違いようもないとすぐに思う。
傍付きになってからの期間で耳慣れたその穏やかな声音も、あるいは迷宮を彷徨ってきてなお清潔に輝くその白金の髪も、そうと識別するに足るけれど。
それ以上に。
彼女が入ってきただけで、この大聖堂の空気が、全く変わってしまった。
「聖女様、一体、何が……」
「お土産話とお説教は後にしてね。今は、それどころじゃないみたいだから」
奥の部屋使うよ、と彼女はアーリネイトの隣をすり抜けていく。
茫然としていた彼女は、その髪先から香った匂いにハッと我に返って、彼女を追いかける。
「現在の街の状況ですが――」
怪我人多数。被害甚大。大聖堂へと続く道のうち三方確保済み。残りの一方も間もなく解放されるだろう見込みであること。しかし魔鳥の大発生により状況逼迫。動ける者だけでも脱出すべきか判断を迫られていたところ――そう、アーリネイトは彼女に伝えて。
けれど。
「そういうのは、アーちゃんにお任せします」
「な――」
「私、そういうのは苦手だから、現場の指揮権とかもらっても仕方ないし。信じるよ」
でも、と彼女は言った。
「その情報は、修正しておいた方がいいかな」
あれ、と彼女が指差すので。
アーリネイトもまた、大聖堂の大窓から、外を見た。
「――馬鹿な」
アーリネイト以外の、大聖堂に集っていた人間たちも、次々に声を上げる。
魔鳥が落ちていく。
夜空から落ちる星々にその身体を貫かれて、次々に討ち滅ぼされている。
まさか、と心当たる人物があった。
「〈星の大魔導師〉ですか? まさか、これほどとは……」
「苦労したからね~。階層主にはもう当たらなかったけど、手当たり次第に魔獣は全部狩って、不眠不休で通路を総当たりして進まないと間に合わなかったから。三日で半年分くらいの無茶してきたもん。そりゃあみんな、ちょっとくらい強くなってないと困るよ~」
あ、それともう一つ、と。
言いながら聖女は、その部屋に踏み入った。
そこは、大きなドーム。
祈りの間。今は、逃げてきた市民たちの避難場所として使われている場所。
その真ん中に、ぺたりと腰を下ろして。
アーリネイトに、言った。
「怪我人は今から、ゼロになります」
やっぱりわが家が一番だね、と。
気抜けた声で、彼女は言って。
「〈あなたが生きていることを、私はほんとうに嬉しく思います〉」
大聖堂に蓄積されていた、祈りの力が。
神聖魔法の光と変わって、この街を包みこんだ。
†〇☆†〇☆
「――嘘だろ」
「傷が……」
クラハは、己の身体を見下ろしていた。
つい先ほどまで、命の行方すらも不確かだった自分の身体――それが、みるみるうちにその元の姿を取り戻している。肌に癒着していた防具を巻き込むこともない。完全で、精密で、信じがたいほど卓越した治癒魔法。
それが、この場の全てに。
「ありえねえ……。神話の時代じゃねえんだぞ」
さらに空から撃ち落されていく数多の魔鳥の姿を前に、茫然とホランドが、あるいは他のメンバーたちが呟く中で。
たった今、〈インスト〉を一刀の下に斬り捨てた青年剣士は、大きく声を上げた。
「クラハはいるか!」
「――は、はい!!」
自分の名を唐突に呼ばれて、慌ててクラハは立ち上がる。
身体が治りつつあるとはいえ、まだ万全ではない。駆け寄ろうとして体勢を崩して、抱き留められて。
「す、すみませ……」
顔を上げて、ぎょっとした。
睫毛と睫毛が触れ合うような距離に、ジルの顔がある。
驚きと動揺に、ひゅっと息を呑んで。
「あの、何――」
「……確かに、こんな顔だった気がする。たぶん」
「へ」
何でもなかったことのように、ジルは顔を離した。
「状況はどうなってる? ……ここにいるのは〈次の頂点〉の奴らだろ? あらかじめユニス――〈星の大魔導師〉から聞いてる。あなただけは少なくとも協力者だって」
思考のために必要だったのは、ほんの数秒。
そういうことか、と合点がいって。
「魔獣の襲撃につき、街中の人間が大聖堂に避難しています。あの外典魔獣――巨鳥が出てきたことでそれが壊滅しかけていたんですが、」
「外典魔獣だってことまでは掴んでるのか。それで、向こうのリーダー格は? もう接敵したか?」
「え――」
リーダー格、という言葉。
疲れ果てた脳を回しに回して、クラハはその意味を掴み取る。
「いえ。てっきり、あの外典魔獣が頭なのだと思って――」
言いながら、しかしクラハはわかっていた。
この状況が、作為によらないはずがない。
大聖堂への避難経路を集中的に塞ぐような魔獣の配置。あれほどの力を持った魔獣たちが、一斉に同じ方向へと押し寄せていく姿。その統率の頭がいないはずがない。
しかしそれは、たった今撃ち落されているあの群れの中の一羽では、おそらくないのだ。
「そうか」
ジルは頷いて。
「奴らの狙いは大聖堂だ。待ち伏せしていれば向こうから出てくる。……どうせ一対一だ。俺が仕留めよう。案内してくれないか」
「は、はい!」
「大英雄!」
その背に、かかる声。
それを発したのはホランドだったけれど……しかしそれは、この場にいる全員の、代表としての声でもあった。
「援護はいるか」
「…………」
怪訝な顔で、ジルはその声に目をやって。
それから、クラハを見た。
だから、彼女は。
「もう誰も、逃げません」
「――そうか」
納得してくれたかどうかは、彼女にはわからない。
一度は彼を捨て置いて……今更味方だなんて言って、信じて貰えたのか。自分自身も含めて、その真偽のほどは、わからない。
けれど彼は、頷いて応えた。
「援護はいい。それよりあなたたちは市民の救助を。怪我が治ったとはいえ、治癒魔法に慣れていないやつらは、まだ動けないはずだ」
「――わかった」
「頼んだ」
それは、たとえ仮初でも信頼の言葉だったから。
〈次の頂点〉のメンバーたちは、また動き出す。
自分たちにできることを、するために。
「行くぞ」
そう言って、ジルは駆け出していく。
途轍もない移動速度――それに何とか、クラハは走ってついていく。よく走れる冒険者は、というホランドの言葉を思い出しながら。
「どっちだ?」
「あっちの――あの、大きな建物がそうです」
「わからん。悪いが方向で言ってくれ」
「……?」
一度、首を傾げかけて。
あ、と気が付いた。
ジルは眼鏡を、していない。
「あ――」
クラハはそれを、肌身離さず、持っていた。
彼の、予備の眼鏡。
今すぐ渡そうと考えて。
しかし、それが〈インスト〉のブレスを自分とともにまともに受けていることを思い出して。
それでも、もしかしたら、万が一と、そう考えて。
黒く焦げ付いたポーチの中から、取り出した。
そしてそれは一体どんな素材を使ったケースだったのか――ひとつの罅割れもなく、現れた。
「ジルさん!」
「何――」
これを、と言って手に握らせる。
一瞬だけ、ジルは戸惑って。
それから、それがそうであることに気付いたらしく。
立ち止まって。
恐る恐る、というようにそれをかけて。
「…………」
「ど、どうですか。あの、ずっと持っていたので歪んでいたりしたら――」
その先を、クラハは言えなかった。
がばり、と抱き締められたから。
「――――???」
困惑とか、動揺とか。
そういうものよりも、思考の空白と呼ぶのがふさわしい。
それが埋まるよりも先に、ジルが叫んだ。
「――――ぃよしっ!!! よっしゃあ!!!」
それは巨鳥を落としたときよりも、遥かな喜びようで。
「よし――よしよしよし! あなたは最高だ!」
そう言って身体を離して、クラハの肩をバンバンと大袈裟なくらいに叩いて。
「ようやく――これでようやく、半年ぶりに全力が出せる! 頑張ってきてよかった……!」
高笑いでも始めかねないような興奮ぶりで。
彼は、眼鏡をかけた。
「あの、歪んだりは」
「全く問題ない! 大聖堂の場所だってくっきり見える……あっちだな!?」
「は、はい」
頷けば。
ふと、ジルはクラハにまじまじ目を留めて。
「な、何か……?」
「いや、」
ばさり、と上着を脱いで、被せてきた。
「防具がボロついてるから。コートがなきゃ寒いだろ」
感謝の印だ、とだけ言って。
今度こそ、クラハを置いていくような速度で、走り出した。
「ま――」
待ってください、とはとても言えない。
今の状況で、自分の速度に合わせてくださいなんて言えるような図々しさと視野の狭さは、クラハにはない。
だからこれまで以上に必死で、ほとんど全力疾走のようにして、その長い長い距離を、彼について走っていく。
「ジルさんは、さむ、くない、んですか!」
せっかく被せてもらった上着も、たった数分でほとんど意味をなくす。身体中の力を振り絞って走っているから、熱は溢れてとめどない。
「北の生まれだからな。寒さに強い」
彼がほんの数瞬前に置いたのだろう声にも、流れていく前に追いついて。
気にするな、と言うのを聞いた。
「長いこと人に貸してたから、ない方が落ち着くくらいなんだ」
夜を二人は駆け抜けていく。
そこは右です、とクラハは肺の底から息を振り絞るようにして、叫んだ。