7-4 ブレス
「西の街路に動いている魔獣はもう見当たりません! 完全に掃討できました!」
「現場の奴らを半分残して市民を誘導させろ。擬死を使う魔獣がいないか注意するように伝えてな」
「はい!」
小さくクラハが唱えたのは、伝達の呪文。
サポーターの中では使える者の珍しい、少しだけ高度な魔法。
それが終わったら、ポイントを移動してまた別の場所へ、弓を引いて狙撃に入る。ただし、クラハが番えるのは実物の矢ではない。矢の数には限りがある。ホランドのように一射確殺というわけでもない以上、ただ手数を増やすためだけに無駄撃ちはできない。
だから。
「〈吹き貫け〉――!」
彼女が使うのは、風の魔法が形を成した矢。
決してそれは、最高難度迷宮内のそれと見紛う程の強さを誇る魔獣を殺すだけの力を持たないけれど……しかし、その風圧のために一瞬動きを止めることくらいはできる。
その隙を見逃さず、魔獣の近くにいた剣士が、それを斬り倒した。
魔法がなければ、この距離で声は届かない。
けれどその剣士がこちらに向けて拳を向けるのを、確かにクラハは見た。
「北ももうすぐ制圧完了します! これなら――」
喜びのまま、そうホランドに状況を報告すると、しかし。
「――伏せろ!!」
現場の指揮官であるホランドの声に。
もしたった一瞬でも迷いを見せるような練度の冒険者がこの場に混じっていたとしたら。
間違いなく、そこには惨劇が起こったはずである。
「なっ――――!?」
しかし、最もこの中で実戦経験の浅いクラハですら、何とか反応することができた。
それは、衝突だった。
宿舎を揺るがすほどの、激しい衝突。その揺れの発生源に近かった側に立っていた冒険者たちが、そのまま反対の壁に叩きつけられてしまうほどの衝撃。
窓は全て割れた。
壁もまた、大きく崩れ落ちた。
だから、クラハたちには見えていた。
目の前にいる、あまりにも巨大な鳥の魔獣の姿が。
その名を、クラハは。
「外典魔獣〈インスト〉――」
「引き付けたと言やあ、聞こえはいいが……!」
誰よりも早くに体勢を立て直したのはホランド。
素早く撃ち込んだ矢が、しかしその到達する直前に、嘴によって払いのけられる。
この場において最も技量で卓越しているはずのホランドの攻撃が、まるで通らない――それは絶望に値する光景だったが、しかし彼は、間髪入れずに次の指示を飛ばした。
「ありったけ撃ち込め! 叩き落とさねえと話にならねえぞ!」
ようやく立ち上がることのできたクラハも、ホランドの号令に従う。
「〈吹き貫け〉――!」
翼狙いの、風弓の一射。
他のメンバーたちが撃ち込む先も、またその翼だった。
飛行種と戦うときのセオリーだ。まずはその機動力を削ぐ。地に落とすことで前衛が働けるようにするのが、後衛の仕事だ。
なのに。
「効いてな――」
〈インスト〉はそれをものともせず。
そして、大きく口を開いた。
まさか、とクラハは思う。
鳥型の魔獣が、まさかそんなことをするわけがないと。そんなことをするのは、竜種だけのはずだと、そう思いながら。
しかしその口腔の奥に魔力光がチラつくのを見て――確信した。
必殺の一撃だ、と。
「ブレスが来ます!」
そのときクラハは、思い出していた。
このパーティにほんの一時だけ所属していた、あの剣士の言葉。
――大事なのは、自分が何の手札を持っているのかをよく把握すること。
――それから、手札を上手く使うこと。
――どんなに使えないと思ってる手札だって、どこかでは使う場面がある。
あのときは、個人の力の話として、聞いていた。
けれど、今思い起こしたこれは、違う。
集団戦として。
この場で一番弱い手札は何か――それはもちろん、自分だ。
ただの見習い。実力でSランクまで上がってきたような歴戦の冒険者たちとは、まるで格が違う。
けれど、たった一つ――どうやら、彼らに勝るものがあったらしい。
使う場面が、あったらしい。
クラハは走った。
たとえSランクといえど、竜種と戦った経験がある者などそういないに決まっている。だから、たとえ目の前の牙の奥に魔力光が見えても、それが今から全てを薙ぎ払うブレスとして吐き出されることを、想像しない。
でも、自分にはできる。
何度も何度も――憧れた冒険譚の中で、読んできたから。
こんな場面がいつか来ることを――想像していたから。
これが最大のピンチでありながら、最大のチャンスであることを知っているし――、
「お前、何を――!」
「弱点は、撃ち終わり――!」
そのチャンスを生かすために、自分がどうすればいいのかも、知っている。
このメンバーの中で最も精確な矢を放つホランドの前に、クラハは拙い防御魔法とともに立ち塞がって、
その背を、豪炎が焼いた。
「――――!」
声にもならない。
抗魔力防具の上から、肌が溶けていく。脳が考えるよりも先に、神経が勝手に反応してこの場から逃げ出そうとしている。少しでも温度の低い場所を求めて、動き出そうとしている。
けれどクラハは、それをしない。
最も弱い手札の使いどころはここだと、わかっていたから。
頭蓋骨の内側で火打石を何度も叩きつけられて、火花を散らされているような気分――もう二度と、元の思考には、身体には、魂には戻れないのではないかと思わされるような取り返しのつかない苦痛――それでも、決して。
何度も何度も、今までの彼女の力では考えられないほどに連続して、精一杯の防御魔法を重ねがけながら――決して。
最後まで彼女は、動かなかった。
「――――馬鹿野郎どもが」
ホランドが矢を番えるのが、見えた。
決して彼も無傷とはいかなかったけれど――それでも、確かな手の動きで、強弓にその最後の一矢を番えるのが、見えた。
それを見るための眼球がいまだ溶けていなかったことにクラハは少しだけ驚きながら――同時に、ひどく安心した。
二年間、見てきたから。
この人が外さないことを、知っている。
ブレスが終わったあと――魔力を放ち切ったその喉なら容易く射貫けるということを、彼が見逃すはずもないと、知っている。
「魔弓――〈風の王〉」
豪風が、残り火全てを吹き飛ばし。
それとほとんど同時に、魔鳥の撃ち落とされた音が聞こえてきた。
†〇☆†〇☆
「おい! しっかりしろ!!」
「う、う――」
頬を叩かれて、クラハは起き上がる。
どのくらい気を失っていただろう……目を開けると、ホランドが自分を覗きこんでいた。
「魔獣は――」
「落とした。俺たちの勝ちだ。これから大聖堂に行って掃討戦に入る。動けるか?」
「は、はい……」
そう言って、クラハはなんとか立ち上がろうとする。
けれど、
「あ……」
「無理はすんな。動けねえならそのままでいい」
「すみ、ませ……」
「今、地上に降りてたやつらが大聖堂から治癒魔導師を引っ張って来てくれる。それまでの辛抱だ。堪えろ」
僅かに動く眼球だけで確めれば、他のメンバーも満身創痍だった。
クラハと同じ――耐熱の魔法が施された防具はかろうじて形をとどめているものの、剥き出しだった部分の肉は焦げて奇妙な臭いを発し、また、防具の一部は溶けて皮膚と癒着している。
これほど壮絶な戦いを、クラハは見たことがなかった。
「よくやった」
そう、ホランドは言った。
「お前の呼びかけのおかげで――この場にいる全員が防御態勢に入れた。それに、お節介なやつらはお前みたいに俺のカバーにまでな」
「あ……だから……」
だからホランドはその程度の傷で済んだのか、と。
自分の拙い防御魔法だけでどうしてブレスを遮断できたのか、そのことは不思議に思っていたから……クラハは納得して。
「胸を張れ。お前がいなきゃ、あの魔獣は落とせなかった。……だから生きて、勲章でも貰っておけ」
言葉を返そうとして。
けれどそれほどの気力も、奮い起こせなくて。
「……はい」
ただ静かに、クラハは頷いて応えた。
ホランドがその場から離れていく。
おそらく他の怪我人たちに声をかけにいったのだろう、と思いながら。
壊れ果てた宿舎から――クラハは夜空を見上げた。
星々が輝いている。月が見えないのは、きっと朔の日だからだろうと思う。
冷たい風が、肌を撫でていく。痛みに震えるには、すでに感覚も鈍くなりすぎている。
助かるだろうか。
そう、考えた。
何か奇妙な力が、身体の内から湧き上がってきているのがわかる。これが危機に晒されたことで見える本当の生命力の形だとしたら、これが途絶えない限り自分が命を落とすことはないだろうと感じられる。
だったら、これが途絶える前に、と。
耳を澄ませた。
街路で、人が走っていく音。剣士たちが戦っている音。こっちだ、と誰かが誰かを導こうとする音。
この音が、途絶えない限り――と。
クラハは、思って。
「――――うそ」
絶望の音を、聞いた。
「な――」
ホランドもまた、絶句するのが聞こえる。
「嘘、だろ――」
「おい、なんだよあれ!」
「ふざけんな! なんだよ、なんでこんな……!」
「撤退しろ! 俺たちはもういい!」
彼らの目に、映ったのは。
「群れ――」
たった今、クラハたちが。
Sランクのパーティが一丸となってようやく倒した外典魔獣〈インスト〉が。
空を覆わんばかりの群れとなって、現れた様だった。
「ホランドぉ! 大聖堂の奴らを避難させろ!」
「あっちには俺の家族が……!」
「皆殺しにされるぞ!」
「街だけじゃない、これじゃ国まで……」
口々に、〈次の頂点〉のメンバーたちが叫ぶ。
その群れは一様に、ある方向を目指している。
大聖堂。
「ホランド! 行けぇ!!」
誰かの叫んだそれは。
見捨てていけ、という言葉に他ならない。
頼むから、と。
懇願する言葉に、他ならない。
「クソッタレが……!」
そしておそらく、ホランドがその覚悟を決めたのだろう、瞬間に。
群れの中の一羽が、急降下してくるのを、クラハは見た。
動こうとした。
誰かが叫んだ。呪文を唱えた。矢を手に取った。それらすべてが、無駄に終わるとわかっていた。
クラハもまた。
それが実らぬことを知りながら、呪文を唱えようとして。
その半分も唱え終らないうちに、魔鳥が間近に迫り、その喉の奥にブレスの光が輝いているのを見て、
「畜生ォおおおおおっ!!」
ホランドが、叫んだ瞬間に。
一筋の剣閃が、走るのを見た。
それは、途方もない静寂だった。
誰も、自分の見たものを信じられない。
自分たちが自らその脅威を体感していたから。あの魔鳥がどれほどの強さを持った恐ろしい魔獣であるかを、わかっていたから。
たった剣の一振りで、それを落とした人間が今、目の前に立っていることが。
まるで、誰も信じられないでいる。
ボロボロの恰好だった。
長い間を彷徨っていた旅人のような恰好。身体は痩せて、剣の柄も擦り切れてほとんど骨董のように見える。
けれど、その姿を。
誰もが、覚えていた。
「――――大英雄」
「ジル、さん……」
呼ばれて男は、振り返る。
精悍ながら、しかしその強さに似合わない、どこか幼さすら残したような、青年の顔で。
「――――悪いな。道に迷ってた」
そう。
何でもないことのように、言った。