7-1 連れて行きます
「――――外典魔獣、〈インスト〉」
「え?」
アーリネイトの呟きに、思わずクラハは訊き返した。
遠い昔――かつて家の中に閉じ込められていた頃、何度も聞かされてきたその名前。
外典魔獣。聖典に記された古の大敵たち。
滅王のしもべ。
「なんだ、ありゃ……」
茫然と、ホランドも溢した。
「〈それは遥かなる深海に似た〉の階層主以上だ。下手すると、〈二度と空には出会えない〉の三層より……。あんなもん、この街じゃ対処し切れねえぞ!」
おい、とアーリネイトに呼び掛けて。
「どうすんだ、聖騎士。あんたらの増援とやらで、あれを食い止めきれんのか?」
「馬鹿を言うな……。下位とはいえ、外典魔獣だぞ。なぜこんなところに……」
「待てよ。外典魔獣ってのはどういうこった。まさか滅王が復活したってんじゃないだろうな。そんな馬鹿な話が……」
「私にだってわかるか!!」
大声で、アーリネイトは叫んだ。
それから、不意に我に返ったようにハッと二人を見つめて、
「……すまない、取り乱した。悪いがもう私は行かねばならない」
「あの、どこへ、」
「聖騎士団と合流する」
悪いな、ともう一度アーリネイトは言って、
「大聖堂を拠点として防衛線を敷く。……ないよりは、まだマシのはずだ。君たちもついてくるか?」
そんなことを急に、と。
クラハは思う。あまりにも与えられた情報量が多すぎる。今夜聞いたこと……自分以外のパーティメンバーもまた、あのゴダッハに脅されていたということ。それから、聖騎士団がこの一連の事件を滅王案件と睨んでいる、ということ。
そしてその証として、目の前にはかつて滅王が使役していたはずの外典魔獣が、空に浮かんでいる。
どぉん、と衝撃音がした。
それは、あの巨鳥が街を攻撃し始めた音。
「俺は家族と合流してから行く。あんたはクラハだけ連れていってくれ」
「え――」
「わかった。あなたも貴重な証言者の一人だ。死ぬなよ」
努力するよ、とホランドは震え混じりの声で言って。
戸惑うクラハの手を、アーリネイトが握った。
「行くぞ。気持ちはわかるが、立ち止まっている暇はない」
「――は、はい!」
流されるばかりながら、クラハは頷いて、ともに駆け出していく。
追いながら見つめる聖騎士の背中は――夜の暗闇の中、ぼうっと浮き上がるように白く。
しかしそれはやけに……追い詰められているように見えた。
†〇☆†〇☆
「道が――!」
「しまった、ここはダメか……」
その二人の行く先を、すでに瓦礫は塞いでいた。
驚いてクラハは夜空を見上げる――しかし、真上に〈インスト〉の姿があるというわけでもない。ただ聖騎士のうちの誰かが飛ばしたのだろうと思われる魔法の光が、幾筋か儚い流星のように流れるだけ。
〈インスト〉はその巨体を素早く動かして、空を縦横している。
それが聖騎士たちの魔法を嫌ってか、それとも単なる気まぐれなのか……わからないが、とにかくその姿を捉えることを難しくしている。
恐ろしく厄介だ、とクラハは気付いていた。
迷宮の外で会う飛行系の魔獣――天井もなければ壁もない。そんな空間で遭遇した時点で、人類は大きくその機動力にハンデを背負うことになる。まして、この巨大さであるということを鑑みれば、ひょっとするとホランドの言った『〈二度と空には出会えない〉の第三層以上』という評価は、まったく正しいものなのかもしれない。
「回り込むぞ、クラハくん――」
「誰か!!」
アーリネイトの言葉の途中で、声が響いた。
ぎ、と彼女の動きも止まる。
二人の目線が、その声の元に吸い込まれる。
そこにいたのは、小さな子どもだった。
舞い上がる土埃に顔を汚し――血を流し、叫ぶ子ども。
その横には血まみれの母親が、その足を瓦礫に挟み込まれ、意識を失って倒れている。
「助けて……! 誰か……!」
クラハはそれを見て。
自分がやるべきことが何なのか、理解した。
「――アーリネイトさんは、先に行ってください」
「……いいのか」
わかっていた。
問答をすれば、おそらくアーリネイトはこの場を後にするよう、提案するだろうと。
いや、提案なんて生易しいものじゃない――引きずってでも、自分ごとこの場から遠ざかろうとするだろうことを。
見ればわかる。
母親の傷は深い。おそらく頭も打っている。助け出したところで、生存する確率はそうは高くないはずだ。
その上、子どももいる。意識のない大人を背負って、歩幅の狭い子どもを連れて――そうすれば、当然にアーリネイトが大聖堂に到着するのは遅れることになる。
この状況で。
指揮官となるはずの聖騎士団分隊長の到着の遅れが意味するのは、被害の拡大に他ならない。
だから、クラハは言ったのだ。
「私が、連れて行きます」
「……感謝する。君に、神の御加護があらんことを」
アーリネイトが踵を返すと同時、クラハは走り出した。
「大丈夫ですか!?」
「あ――」
助けを求めていた少女が、クラハの顔を見て泣き声を止めた。
「ママが、ぐしゃって……」
「わかりました。少し離れて……」
その母親の上に積み重なった瓦礫を見つめながら、クラハは考える。一つをどかしただけで、雪崩れてくる可能性がある。慎重に運び出す必要がありそうだ、と。
「これを被って、そこにいてください」
「ママ、し、死なないよね。へいきだよね?」
「大丈夫です。私が、なんとかしますから」
家を出る際に羽織ってきた外套――それを少女に手渡してから、クラハは瓦礫の撤去に取り掛かる。
じれったい作業だった。
一つ一つの重さはそれほどでもないが、神経を著しく使う。それでも自分の力で持ち上げられるだけマシだったはずだ、と言い聞かせて、何度も何度も腰を折り、何度も何度も背中の力で持ち上げていく。
その七割ほどを終えたところで。
どぉん、と再び振動が街を襲った。
「きゃあ!」
「まず……!」
ガララ、とそれに瓦礫が崩れ出す。
身体能力を強化する魔法――本業の聖職者の使うものに比べればずっと軽微なそれを用いて、クラハは全身で、それを押し留めた。
なんとか、それは母親の頭上に降り注ぐことなく済んだ。
が。
「ご、ごめんなさい! 手伝ってください!」
手足が塞がってしまった。
このまま自分が動き出せば、間違いなくこれらのバランスは崩れ落ちる。
だから――こんな年端も行かない少女に危険なことをと思いながらも、クラハは、頼むしかなった。
「お母さんを瓦礫の中から……引きずってでもいいですから、出してあげてください!」
「う、うん!」
少女は近寄ってくる。
幸い、今の振動のおかげで、積まれた瓦礫同士の間に隙間ができていた。クラハのこれまでの作業によって瓦礫の数自体が少なくなってもいたから、おそらく今、母親の移動を妨げるだけの状態にはない。
それでも、この小さな子どもにとって母親の身体を引っ張るというのはどれほどの労苦だろう――瓦礫の重さに痺れ始める腕を、肘を固定して萎えないようにして、この冬夜に背中に汗を流しながら、クラハは想像した。
「ぬ、抜けた! 抜け、ました!」
「ありがとうございます! それじゃあ、お母さんをもう少し遠くへ……できますか!」
「で、できる!」
さらに少女が、母親を引っ張っていく。
十分な距離が取れたことを確認してから、クラハはその腕を離し、さっとその場を飛びのいた。
がらがらがら、と。
鼓膜を痛めつけるような激しい音とともに、ついさっきまでクラハがいた場所に、重たい石瓦礫が降り落ちる。
ほっとしている暇はなかった。
「お母さんの怪我は――」
そして、う、と思わず彼女は呻いた。
出血がひどい。
脛のあたりが骨ごと潰れている。瓦礫に圧迫されていたためか出血こそ少ないように見えるが、しかしこれでは、意識を取り戻したとしても到底自分の足で移動することなどできないだろうし、痛覚がない分、こうして気絶していた方がマシだろうとすら思える。
クラハは腰元のポーチから必要な道具を取り出して応急処置を行うと、その母親を背負い込んで、自分の身体に紐で縛り付けた。
「大聖堂が避難場所になってます。行きましょう」
そう、涙の跡の著しく残る少女に、語り掛ける。
夜だからか、これだけの被害の中でもいまだ火災の気配は見当たらない。
が、時間の問題だろう、ともクラハは思う。この街は広く、たったの一人も暖炉を使っていないという偶然に対する期待は、この大規模破壊を前にしてあまりにも脆すぎる。
アーリネイトがどの道を辿ったのかはわからない。
が、とにかく自分が知っている道を行こうと、慣れ親しんできた場所を経由するつもりで、クラハは歩き出す。
隣で少女も、小さな足で懸命に走って、ついてくる。
彼女が瓦礫に足を躓かせれば、クラハは屈みこんで、その手を差し出した。
「……お姉ちゃん、」
小さく、その少女は言う。
「あ、ありがとう……」
「いいんです」
当たり前のことですから、とクラハは言った。
その当たり前のことができなかった、半年前の記憶を思い起こしながら。