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6-4 星よ、東へ堕ちろ



 ユニスはそれを、はっきりと見ていた。


 この現代で最も優れているだろう剣士の一人――ジルがその身を、主部屋の中から飛んできた光線に焼かれる瞬間を。


 腰を中心に、その鍛え上げられた左の上半身と、下半身――それが抉り取られ、血飛沫を噴き出すべき血管の断面すら焼き尽くされる瞬間を。


 そして彼が、顔の半分を失ってなお、自分とリリリアに手を伸ばし、その光線の射程圏外へと押しやったその姿を。


「〈星よ――、」


 呪文を唱え始めながら。

 さらに、ユニスの視界には新たな景色が映り込んでいた。


 目を焼くような激しい光。それはおそらく、光線の第二射の予兆。


「――東へ――」


 それから自分を庇い立てるようにして、リリリアが覆い被さってくる姿。


 最も卓越した神聖魔法の使い手である彼女が、その防御魔法を成す術もなく溶かされていく光景。


 その光線が、リリリアの身体を焼き尽くし、己へと届く。


 その、一瞬にも満たない僅かな時間に、ユニスは呪文を。


「――――堕ちろ〉!」


 もはやそれが肉体の声なのか、魂の声なのかもわからぬまま。



 けれど確かに、唱え終えた。


 ゆえに時は、たった一秒、巻き戻る。




†○☆†○☆†○☆




 身体と意識が存在していた。

 けれど魂は、その場所になかった。


 だから魂に追いつくために、奔った。

 それ以外にジルが動き出した理由は、どこにもなかった。


 目も眩むような光が、今にも爆発しそうに輝いている。

 ぼんやりとした視界の中で、それだけは見て取れる。けれど思考が動き出すのはもう少し後のことで、だからジルは、それが何を意味するのかわからない。


 ひょっとするとその光を見て、懐かしいと思う気持ちも浮かび得たのかもしれないが――――しかしこのとき、彼の中にあったのは、たった一つだけ。


 何度も何度も思い描き。

 何度も何度もその手で試してきた、必殺の動き。


 この刹那の中で、彼は永遠だった。

 あらゆる周辺から切り離された孤独な時間平面の中を自在に行き来する、たった一つの存在。時間の概念の消えた世界の中で、唯一運動しうる現象だった。


 秘剣〈月の夢〉。

 それは太陽の光を待たずして自ら輝き出す、月のように。


 かつての彼を葬り去った光速の一撃に、さらに先んじて。




「――――ァ、」

 断末魔は、あまりにも短く。

 ばしゅう、と霧は噴き出して。




 抜き放たれた剣を、キン、とその鞘に納めた瞬間に。


「え――――」

 ようやく、その身体と意識は魂を取り戻す。 

 

 敵手を斬り殺さんと先んじていた魂に、ようやく追いついたから。


 大きく、魔獣の地に沈む音が響いた。




†○☆†○☆†○☆




「なんだ、今の――」

 茫然として、彼は呟いた。


 記憶がある。

 自分は先ほど主部屋に入り込んだ瞬間に階層主に不意を打たれ――いや、言い訳だ。自分の反応不可能な速度で初撃を叩きこまれ、その身を焼いたはずではなかったか。


 神経が痛覚を遮断するのが間に合わなかったのだろう。

 たった数瞬ながら――決してその先の生を望むべくもないほどの痛みが走ったはずである。


 なのに、どうして。

 いま自分はこうして生きながらえ――そしてこの手に、その階層主を斬り滅ぼした感触が残っているのか。


 それに、この身に宿るこの感覚は――。


「動かないで~、ユニスくん」

 リリリアの声が聞こえ。


 そしてそれとほとんど同時に、ごぽ、と水気を伴った咳の音が聞こえた。


「……ユニス?」

 そうだ、二人は。


 慌ててジルはその声のした方に駆け寄っていく。かなりの距離が開いていた。ついさっきの自分が、この間合いを一瞬で詰めて秘剣を放ったことがとても信じられない。やはりこの感覚はそうなのだろう、と思いながら。


「どうした。何があった?」

 問いかければ、リリリアは答えず、しかし血咳を吐く音がしてからユニスがそれに返す。


「ふ、ふ……かなり、無茶を、」

「喋っていいなんて言ってないでしょ」


 がこん、と鈍い音がした。


「…………おい」

 若干引き気味で、ジルは訊ねる。


 ここまで近くに寄れば、眼鏡がなくとも何となくの状況はわかる。赤い色が激しい。おそらく、ユニスは怪我をするか何かして膨大な量の血を吐き流し、そしてリリリアがそれの治療をしているのだろう。神聖魔法に特有の清潔な光の像が、その想像を裏付けていく。


 そして同時に、リリリアのであろう手が動いて、ユニスのものであろう頭を殴るのが見えた。


「リリリア、あなた今、怪我人を殴打して……」

「どうせ後から治すんだからいいの」


 有無を言わせぬその口調。

 穏やかながらしかし、反論をするにもなんだか奇妙な怖さがあり、とりあえずユニスが無事かどうかだけでも確認しようかと、「おーい」と呼びかけようとして、


「怒るよ?」

「…………」

「座って待ってて。ちょっと時間かかるから」


 はい……とすごすごジルは距離を取り、地べたに三角座りをした。




†○☆†○☆†○☆

 



「いやあ、死ぬかと思った」

 三十分後。


 ユニスはその身体を起こし、確かな声でそう言った。


「いや、というか死んでたね。完全に。確かにジルの師匠の言う通りだ。調子に乗ってると痛い目にあう。これからはできるだけ謙遜しながら生きていくよ」


 すっかり元の調子の饒舌に、ほっとジルは胸を撫で下ろした。


 主部屋の中で話をしている。

 この部屋は階層主の他の魔獣は立ち入らず、それさえ討ち滅ぼしてしまえば便利な場所に変わると、彼らは知っていたから。


 念のため、リリリアが周囲を重ねて聖域化すらしてくれているから、ひとまずのところ、無闇に戦闘に巻き込まれる可能性はないと言っていい。


 だから、ジルもようやく訊けた。


「さっきのは一体……」

「時を戻した。一秒だけね」


 不敵な声で、ユニスは言った。


「僕の大魔導師認定の要因の一つになっているのがこれさ」

「あ、それが例の新しい魔法だったの?」

「そうそう。これが星の果てで見つけた新たな秘法。本当は、もっと星並びを気にして、ありえないほど面倒な準備をしてようやく発動するものなんだけど……」


 無理矢理やっちゃった、とユニスは言う。


「元々大して長い時間は戻せないから、やってることはすごいけどできることはそんなにないって感じの魔法でね……。いやあ、そのたった一秒の間にジルが階層主をやっつけてくれてよかったよ。悪足搔きが悪足搔きで終わらずに済んだ」


 ありがとう、とユニスは言って。


「それに、リリリアも。君が庇ってくれなかったら呪文は唱えきれなかったし、それに秘法の代償にぶっ飛ばした内臓も全部返ってこなかっただろう」


 ありがとう、とユニスが頭を下げるような声の裏で。

 ジルは、ぎょっとしていた。


「内臓?」

「ああ。まあ、星の魔力もないところでこんな大魔法を使おうとしたら生命力くらいしか賭せるものがないからね。巻き戻した後……わはは。すごいよ。身体の中という中が風船みたいに大炸裂した」


 パーン、ってね。

 と、ユニスは言う。


 パーン、ってね。じゃないだろ。

 と、ジルは言った。


「ヤバすぎるだろ。寝てろ寝てろ」

「いや、それがリリリアのおかげで気分はスッキリ爽快さ。聖女どころか大聖女と名乗るべきだと僕は思うね」


 さっきその大聖女はあなたの頭を殴ってたけど、と言おうとして。


「そうしようかな~。大英雄、大魔導師って来たのになんで私だけ『大きい』がついてないんだろうって思ってたし」

「あ、やっぱり気になってたのかい」

「気になってたよ。すごく……ひそかにね……」


 怖いからやめた。


 まあでも、とリリリアは言った。


「あんな風に負けておいて、今更そんなこと言えないけどね」

「……僕、大魔導師って名乗るのやめようかな」

「ジルくんは?」

「……いや、俺、一度も自分から大英雄とか言ったことないし」


 それから三人。

 はあ、と深く溜息を吐いた。


「死んだかと思った……いや、死んだ。ユニスがいなかったら……」

 とジル。


「げっそりしちゃった……。もう動きたくない~。……あ、二人とも、治してたときちょっと冷たく当たっちゃってごめんね?」

 とリリリア。


「いや、もう全然。……でも、これはちょっと厳しいな……」

 とユニス。


 とにかく互いが互いに、たった一人でも欠けていたら今この場に三人が揃ってはいられなかっただろうということはわかっていたので、ひとしきり「ありがとう」「ありがとう」と感謝を交換し合って。


 これからのことを、話し始めた。


「……ジル。ここから先、さっきみたいな調子で階層主をボコボコにできそうかい?」


 ユニスの問いに、ジルは渋い顔で拳を握る。

「……正直、わからん。さっきのは〈覚醒〉の効果もあっただろ」

「あ、やっぱりかい」

「二人もそうだろ?」


 うん、とリリリアが頷いた。

「〈位階〉が上がった感じはすごいしたね。そうじゃなかったら、流石にユニスくんもまだ動けなかっただろうし」

「僕も多分……あの時戻しの秘法を使えたのは〈体験〉直後の〈覚醒〉の効果があっただろうな。普通はあんな風には使えない」



〈体験〉と呼ばれる現象がある。


 どこかの誰かが厳密に定義しているわけではない……そして、一般的な市民は生活する上で一度も意識しないことがほとんどだ。

 が、間違いなく、彼らのような人間であれば一度は聞いたことがあるはずの現象。


〈体験〉が起こるのはまさにその名のとおり、強烈な体験に見舞われた瞬間のことである。


 わかりやすく言ってしまえば、生死の境を彷徨うような場面。

 あるいは、自分より遥かに強大な存在と遭遇したり、またそれを討ち倒したりした瞬間。過酷な試練に打ち勝った瞬間。魔導師であれば、大いなる真理の一端に触れるような、強烈な認知を得た瞬間。


 そうした瞬間――〈体験〉と呼ばれる現象が発生し、その人物の能力を大きく引き上げることがある。


 短期的には〈覚醒〉と呼ばれる状態になり、これまでからは考えられないような出力を発揮する……ジルが目の前の階層主を一刀の下に斬り伏せたのは、まさにその影響だと思われた。


 また、長期的には〈位階〉の上昇……これまでとはそれこそステージが違うと思わせるほど極端で大足な成長を彼らに実感させる。もちろんこの〈位階〉の上昇がなくとも成長を続ければやがて同じだけの力を得ることも可能ではあるものの……しかし、その時間を大幅に短縮できることから、〈体験〉の有無は戦士や魔導師の実力に大きく反映されることが多い。


 彼らはと言えば、


「これで三回目……かな。俺は」

「お、同じだ。僕も三回目だよ」

「私も~。三回目仲間だ」


 冒険者ですら一度の〈体験〉もなく生涯を終えることも珍しくない中。

 この場における三人の若者たちは、すでに三度を終えていた。


「〈覚醒〉の効果はまだ残ってるか? 俺はたぶん、消えた」

「僕もだね。使い切っちゃったみたいだ」

「私はちょっと残ってそうだけど……たぶん、本当にちょっとだけ」

「となると、実力勝負か……」


 脇へ置いた剣に指先で触れて、


「引き返そう」


 妥当な提案だと、ジルは自分では思っている。


〈体験〉を経た。それによって地力も上がった。おそらく今ならあの毒竜殺しのときの師匠と同程度の力があるのではないかと自分では思うが……〈覚醒〉の効果なしでもう一度あのランク帯の階層主と遭遇して生き残れる自信は、あまりない。


 決してあのとき……光線にその身を焼き切られたとき、自分は油断をしていなかった。

 純然たる実力勝負の結果として、頭から虫けらのようにあしらわれたのだ。


 世界は広く、いまだ自分の力はその広さに見合うだけものではない。

 そのことを、自覚したから。


「命あっての物種だ。上側に戻るのもまた時間はかかるだろうが……それでも、二度と戻れないよりはずっといい」


〈二度と空には出会えない〉。

 この最高難度迷宮が持つその名の意味を、改めてジルは理解していた。


「……そうしたい、ところなんだが……」

 しかしユニスの反応は、渋いものだった。


 ジルはこれを意外に思う。

 確かに、ユニスはやや自信過剰気味の発言が目立つ。が、それが単なる考えなしの放言ではなく、客観的な分析に基づいたものであることは、この二ヶ月弱の間の同行を通してわかっていたから。


「何か、理由があるのか?」

「……実は、ずっと引っかかってたことがね。リリリア、」

 彼は、彼女に呼び掛ける。


「うん?」

「ジルがいま倒してくれたあの階層主。あれも外典魔獣だろう。どのくらいの力がある?」


 一瞬、リリリアは口を噤んで。


「……えー。言っちゃっていいの?」

「いい。予想はしてる」

「ジルくんは?」

「……ん? いや、別にいいけど」


 何だその質問、と不思議に思って。

 次の彼女の言葉で、それを言わずに済ませようとした理由がわかる。


「中位。しかもたぶん、直接の戦闘能力は下から数えた方が早いやつ」

「は――――?」


 こんなことを言われたら。

 ちょっとばかり、希望を失う。


「こ、これでか?」

「これでです」

「……ああ。やっぱり当たっちゃったか……。もう少し、詳しく訊いても?」


 いいよ、とリリリアは言う。

 もうこれだけ喋っちゃったら同じだから、と。


「〈オーケストラ〉っていう種類の鳥……鳥?で、大体はその下位種の〈インスト〉っていう……これもまた鳥かな。そういうのを従えて軍団で襲ってくる魔獣だね。

 集団で一方的に蹂躙するのが得意なタイプみたい。厄介なのはその下位種への支援機能がすごく強いことで、一体一体が下位種と中位種の中間くらいにまでなるから、集団戦だとすごく厄介だったみたい。ラスティエは『本体だけ殴ればサクッと勝てる』って言ってたけど」

「サクッと、って……」

「本当にラスティエってそんなことを言ってたのかい? いや、内容じゃなくて、口調の話ね」


 それはどうかな、とリリリアは言った。

 内容じゃなくて、口調の話。


 でも、とジルは言った。

「この部屋にはその〈インスト〉?がいないぞ。別種なんじゃないのか」

「ううん。おでこを見れば――って、ジルくんは見えないのか」


 あのね、とリリリアは、

「外典魔獣って、身体のどこかしらに数字付きの魔法陣が描いてあるんだよね。それを見れば、絶対に種類は間違わない。〈オーケストラ〉だよ、あれは」

「……そうか」


 受け入れろ、とジルはきつく目を閉じた。

 自分を殺した相手は、外典魔獣の中でもそれほど強くない部類だった。謙虚なつもりでいながら、間抜けにも自分の実力を過大評価していた。情けなくも自惚れていた。それを受け入れろ、と。敗北を認めないで強くなれる人間もいるが、自分はそのタイプではない。自分の腕に持っていた中途半端なプライドを捨てて、ここをスタートと思って切り替えろ、と。


 しかし、それを受け入れてしまうと、


「……つまり、上位の外典魔獣になると、〈体験〉後の今の俺たちでも全く歯が立たない可能性があるわけか」

 下位種と中位種の力を考えれば、そうなってしまう。


「まあそんな、落ち込まないで」

 と言ってリリリアが、ジルの肩を撫でた。


 落ち込むなと言われても、落ち込むものは落ち込む。

 しかしそれと、立ち止まるかどうかは別の問題で、


「なおさら、戻った方がいいんじゃないか。次に遭遇したのが上位種だったら詰みだ。〈体験〉もそう都合よく二度も三度もは起こってくれないぞ」

「僕もそう思う。……でも、ひとつ気になることがあるって、言っただろう?」


 ねえジル、と。

 ユニスは、膝を詰めてきて。


「君は、第三層の階層主を倒したと言ったね」

「……? ああ」

「階層主は『倒れた』んじゃなくて、『倒した』んだね?」


 質問の意図はわからない。

 が、とにかくジルは正直に頷いて。


「そうだ。前も言った通り、味方の〈魔剣解放〉で土台が崩壊して、階層落下中にどうにか……」

「第三層の階層主は、『君と一緒に落下』して、『主部屋を出てもなお倒れることなく』君と戦ったんだね?」

「……そのとおりだ。おい、まさか……」


 なに?とリリリアが訊ねる。

 何と言うわけでもないが、とユニスが答える。


「最後に。ジル、君はその三層の階層主の身体のどこかに、数字があるのは見つけたかい?」

「……うろ覚えだが」


 促されて、ジルは言う。

 すると、リリリアがその数字の意味を教えてくれる。


「下位種の中でも、上から数えた方が早いのだよ、それ。〈ナイトメア〉より上の……」


 材料は揃っている。

 そういう風に、ジルには思えた。


 だから。

 その予想を。




「まさかあのとき俺が倒したのは、階層主じゃなかったのか?」




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