6-3 開けない方がいいと思う
「今度はかえって僕の方が役立たずかな?」
「ようやく俺の気持ちがわかったか」
背後に立つユニスに軽口で返しながら、しかしジルは心の底からこう思っていた。
重い。
二つ目の扉を越えた先に待っていたこの迷宮は――とにかく重たすぎる、と。
「何か手伝えることがあったら言ってくれ。人が苦労しているのを横目にてくてくお散歩っていうのは、なんとも気が引けるからね」
「……ここでサッと仕事を渡せたら楽になるんだろうが、残念ながら思いつかない」
「そんなあ」
「ユニスくん、私と回復役代わる?」
傷ならともかく肉体的な疲労回復は僕じゃ効率が悪いよ、とユニスがリリリアに言う。その間にも、リリリアは指先でつ、とジルの腕に触れて、たった今の疲労と、それから魔獣との戦いの中でついた汚れを払ってくれる。
細く、ジルは溜息を吐いた。
ひとつ気を抜けばこれは大怪我だ、と思いながら。
魔獣の質がいきなり、がらりと変わった。
ユニスの上級魔法をものともしない。一匹一匹があの巨馬に匹敵する――とまでは言わないが、これまでの雑魚魔獣と比べるのもおこがましくなるような強さだ。これらが迷宮核から発生する引力を振り切って、一匹でも外の世界に抜け出てしまえば、小さな村くらいは容易く滅んでしまってもおかしくない。
それこそAランクの迷宮における階層主がこの程度の力を持っているのではないか――これまでに迷宮潜りの経験のないジルをして、そんな憶測をほとんど確信させるだけの、尋常ではない手強さだった。
「……剣が折れないかが心配だな」
「なんちゃって聖剣にしてあげようか?」
頼む、と言ってジルは剣も差し出す。
リリリアが短い呪文を唱えて、その剣が光り出す。
「うーん……。なんか僕、本当に役立たずだね」
「いい、いい。道案内だけで役に立ってくれてるよ」
「ユニスくんって、武器に付与する系の魔法は持ってないの?」
「いやあ。普段僕自身が武器を使わないからなあ……。攻撃力の上乗せみたいなやつなら感覚でできるけど、そういうのじゃないだろ?」
「ジルくん、この期に及んでまだ一刀両断だもんねえ」
この期に及んでってなんだよ。
そう呟きながら、またジルは剣を振った。
ず、と削れる音がして、襲い掛かってきていた魔獣が、空中で分断される。
短い呪文でユニスが、二つに分かれた魔獣の死骸が自分たちに降りかからないよう、その慣性移動の軌道を曲げた。
ぱちぱち、と彼は拍手をして。
「いやほんと、お見事だよ。最小の動きで最大の結果だ」
「ユニスだってやろうと思えばできるだろ、このくらい」
「そりゃ、やってやれないことはないけど……。上級魔法の中でも火力が高くて燃費が悪いやつをバンバン連続で、っていうのはあんまり現実的じゃないよ」
そうだな、とジルは頷いて、
「いざってときにすっからかんでも困る。それこそ、階層主にぶち当たったときには頼りにさせてもらうさ。……ちなみに、俺がいなかったら、どうやってここを攻略する?」
「思い切り魔力を込めて、階層ごと焼くかなあ。そうすればセーフゾーンも作れるだろうし……」
ただ、消費した分の魔力を戻すのに時間がかかるから、こんなに速くは進めないね、と。
「でも、もうちょっと重たくなってきたらそれもありかもね」
リリリアが言った。
「ジルくんもずっと集中してるの、疲れるでしょ。どこかで一回それをやって、立ち止まってみてもいいんじゃない?」
「……そうだな。一刀で仕留められないか、俺が手傷を負うかしたら、一回やってもらおうか」
「了解。それ以外でも疲れが来たらいつでも言ってくれよ。よろこんで仕事をさせてもらうから」
頼んだ、とジルは頷いて。
また一刀、魔獣を斬り滅ぼす。
あの最後の扉を開く前にあったような楽観的なムードは、今は少し鎮まっていた。
元々の三人の性格もあって、沈鬱なそれにこそなってはいないが……しかし、この三人をして真剣の態度を強いられている。
「本来、迷宮ってこういうところなのかもな……」
「いや~、大変だね。冒険者の人たちって」
「だとしたら僕も、あんまり何度も潜りたい場所じゃないな。……君たちみたいな、頼りになる人と一緒じゃない限りは」
おそらく、とジルは思う。
あのまま〈次の頂点〉に所属してこの冒険を続けていたとしても、この場所には辿り着けなかっただろう。
そもそもあの二つ目の黒い扉を開く時点で、かなり高度な魔術知識と神聖魔法の能力を要求されるらしいのだ。あのパーティにそれほどの使い手がいたかは疑問だし、さらにその奥に入ってから……これほどの強度を持つ魔獣を相手に、あのメンバーたちが戦えたかどうかには、素直に頷けないところがある。
さらに言うなら、たった三人で動いているからこそ、この程度の接敵数で済んで、かつ己の剣だけで周囲の領域をカバーできているという点がある。
あの大所帯で入り込んでしまえば、自分だけでは届き切らないところも出てくる。彼らの冒険者としての能力が低いとは口が裂けても言えないが、しかし戦闘者としての力を見る限り、初めに来た魔獣を処理しようと手間取っているうちに二匹目、三匹目と嗅ぎ付けられ、やがては処理不能になるだろうことは想像に難くない。
この三人だから、この迷宮の、この深みに潜れている。
そのことを思えば、ふと。
「……何か、意味があったのかもな」
自分がここに落ちて来たことにも、と。
そう、呟いていた。
「お?」「うん?」
「いや、独り言だ」
「ジルくん独り言多いよね」
「えっ……そうかな……」
そうだよ、とリリリアが言う。
「前も『……なるほど、そういうわけだったか』とか一人で言ってなかった?」
記憶を掘り起こして。
あの夜か、と。
「いや、あれは……」
「そういえば、一人暮らしの人は独り言多くなるって言うね」
「それって単に、人の話す量自体は変わらなくて、その言葉が人に向けられているかどうかが変化するって話なんじゃないかい?」
「ちょっとそれ気になるね。検証して……って、あ、ごめん。うるさかったよね」
いやいい、とジルは首を振って、
「周辺警戒っていうのは適度に気を散らしてた方が……っと」
先頭を行くのを、立ち止まって。
「行き止まりだな。どうする?」
「……いや、違うよ」
主部屋だ、と。
ユニスが言った。
ああ、とジルも頷いて、
「ダメだな。扉か壁かもよく見えない……」
目を細めて、顔を近づけて、かろうじてユニスの言葉に薄く納得した。
「引き返す?」
リリリアが言った。
「いや」
ユニスがそれを否定した。
「もうだいぶこの階層は周ったよ。マッピングこそできてないけど、もう行く道行く道印がついてる。……たぶん、ここを越えないと次の階層には辿り着けない」
とうとうか、とジルは頬を引きつらせながら、剣を握り直した。
「三日目にして初だな」
「正直、僕は不安だよ。これまでの雑魚魔獣と階層主との力の差がそのままこの階層でも通じてしまうとしたら……」
そうだろうな、とジルは頷く。
自分は剣士――剣を振る目的なんて、大抵は強い生き物を屠るためだ。だから、毒竜殺しの経験もあるし、自分よりずっと強大な生き物を相手取ったことだってある。
が、二人は聖職者と魔導師だ。
もちろんその力は戦闘でも――実際に、ここまでジルが力を借りてきたように――卓越して発揮されることはわかっているが、しかし、二人とも『戦う』ことを主軸にした生活を送っているわけではないはずだ。
不安に思うのも、これから待つだろう戦いに実感が伴わないことも、無理からぬことだと、そう思う。
「……一旦、ここで今日は泊まるか」
「え」「え?」
二人とも、驚いたような声を出して、
「まだ全然お昼くらいじゃない?」
「何か考えがあるのかい?」
「いや、考えってほどじゃないが……」
一度切り替えた方がいいかもしれない、と頬を掻いた。
「ここに来るまでに、どうしても雑魚魔獣の強さが植え付けられてる。……階層主の強さがどのくらいかわからない以上、一旦睡眠でも挟んで、その感覚を忘れた方がいいと思う」
大して根拠のある提案ではない。
階層主の強さはわからない。が、わからないなら最悪の場合を想定しておくべきだろう。
ここら一帯に蔓延って自分たちを苦しめていた雑魚魔獣とは到底比べ物にならない――それこそ、自分たちですら全てを出し切った死闘を強いられるような相手。あるいは、それでも及ばないかもしれない相手。そのくらいのものを想定するべきだと、ジルは考えている。
しかし、本当にそれが出てきた場合、おそらく自分たちの心には、甘えが出る。
雑魚魔獣の相手はできたのだから――あれがあのくらいの強さなら、目の前の存在はきっとこのくらいの強さのはずだ。そんな現実逃避に近しい楽観が、生まれてしまう。
それなら綺麗さっぱり、一度切り替えてから向かうべきだと、そう思ったのだ。
しかし。
「いや、それならむしろ、今日のうちに一度見ておくべきなんじゃないかな」
そう、ユニスは言った。
それから彼は、「あ、」と慌てたように、
「ごめん。ジルの意見を蔑ろにするわけじゃないんだけど……」
「いや、いい。なんでも言ってくれ。正直俺も、こういう状況の判断にいつでも自信を持って動けるほど経験を積んでるわけじゃない」
「そうかい?」
それなら……とユニスは続けた。
「慎重を期すなら突破は明日起きてからにしようというのには賛成だ。でも、それなら今から主部屋を覗いてみるって選択肢もありなんじゃないかと思う。そうすれば――、」
「階層主の程度を見て、作戦を立てる時間ができるからか」
「イエス。そういうこと」
階層主は通常、主部屋から出てくることはない。
『主部屋というのはつまり階層における魔力の中心地であり、そこから離れると階層主も力を失うから』あるいは『そもそも階層主というのは主部屋という領域的な縛りを受けることで限定的にその強度を得ているから』など、その生態を説明するための仮説はいくつもあり、またそのどれが決定的であるとも言えないが、しかし、とにかくそうなっている。
だから、ユニスはこう提案したのだ。
少し中に入って、その様子を見てみよう。
そしてすぐに離脱すれば、情報アドバンテージを取得した状態で、これからの夜明かしの時間を有意義に使うことができるはずだから、と。
ジルもそれに、異論はないように思われた。
「確かに、それもいいかもな」
「そうだろう? それに、予想より弱かったらそのまま倒していってしまってもいいし」
しかし三人のことだ。自分とユニスの間だけの合意で話を進めるのもよくないだろうと思って、
「リリリアは? どう思う?」
彼女にも訊ねた。
が、しばらく答えは返ってこなかった。
「リリリア?」
「……うーん……」
彼女は珍しく、本当に悩んだ声とともに、
「こんなこと言われても、たぶんふたりとも困っちゃうと思うんだけど……」
「いいって。気になったことは言ってくれ」
そうジルが促せば、彼女は。
「……この扉、開けない方がいいと思う」
根本からジルとユニスの会話を否定するようなことを、言った。
「……それは、どういう?」
ユニスが訊く。
「『ろくなことにならない』気がするから。……でも、変なんだけど、それと一緒に『今すぐここを開けないと、もっと大変なことになる』気もする……」
ごめんね、とリリリアは言った。
「こんなこと言われても、わかんないよね」
「……いや、ううん……」
ジルが何とも応えづらく唸っていると、
「……わからないでも、ないかもしれない」
ユニスがそう、呟いた。
「なんとなく……いや、そうか。さっきから妙な感覚がすると思ってたんだけど、リリリアに言われてわかった。その感覚だ」
「俺は別に、そんな感じはしないけどな……」
ひょっとすると、とユニスが言う。
「三聖女が感知した邪な気配と、同じようなものを僕らも感じているのかもね」
「……ああ、なるほど」
それでようやく、ジルも納得した。
「それじゃあこの先に、それこそ本当に滅王関係の強力な何かが転がってるってことか? ……確かに、それなら俺みたいに魔力勘が薄い奴はわからないはずだ」
「上位の外典魔獣がいるのかも」
上位、とユニスの言葉をジルは心の中で繰り返す。
国ひとつを滅ぼしかねないほどの強さの。
しかし何にせよ、と彼は、
「――二人がそう言うなら、開けてみるか」
「いいのかい?」
「ああ。ユニスの案も有効だと思うし、それにリリリアも、いますぐここを開けた方がいいかも、とは思ってるんだろ?」
訊ねれば、リリリアは少し間を開けてから「うん」と答えた。
「俺にはそのへんの感覚はわからんが、何にせよ、開ける理由があるなら開けてみた方がいいだろ。元々、様子見なんて言い出したのも俺の思いつきなんだ」
ただ、とジルは付け足す。
「切り替えてくれよ。……この階層のレベルを考えると、様子見の段階で壊滅的なダメージを食らってもおかしくはない。自分たちの力を過信しないで、必要だったら攻略を諦める――そのくらいのことを視野に入れておいてくれ」
ああ、とユニスは頷いた。
「そこは、実戦経験豊富な君に従うよ。想像の何倍くらい絶望しておけばいい?」
「三十倍くらいだな。……自分より格上の魔獣と戦うときは、全部が致命傷になると思った方がいい。顔合わせだと思って気を抜くなよ。決着の五割は初太刀でつく」
「早くも自分の提案を後悔しそうだ」
軽口を叩きながら、しかしその声に芯が入っているのがわかる。
この分ならユニスは平気だろう、と思ってジルはもう一人の方へ。
「リリリアは、それで平気か?」
「ジルくん」
「ん?」
きゅ、と指先を握られた。
「え、」
「すごーく、重めに防御魔法をかけておくから」
彼女が呪文を唱える。
ぱあぁ、と身体に光が宿る。
ドキドキして損した、と思いながらジルは、その魔法をかけられた身体で手をグッと握り、パッと広げ、
「――いや、悪い。もうちょっと軽くしておいてくれ」
「…………なんで?」
「防御魔法をかけ過ぎると身体が固まるんだ。このレベルで高度だと、肘や膝を動かすときに軋む」
「…………ふーん」
「……怒ってる?」
「怒ってないけど」
じゃあ一旦消して、とリリリアが魔法を解除して。
もう一度、かけ直して。
「これくらいならどう?」
「ああ。これくらいがちょうどいいかな」
じゃあ、とリリリアは自分と、それからユニスにも同じように魔法を施す。
二人の分は、少し重めに。
「ジルくん」
それから、彼女は言った。
「それでも死んじゃったらごめんね」
「……いや、なんてことを言うんだ」
不吉な、とジルは引きつった顔で。
しかしそのくらいの心構えでちょうどいいかもしれないな、と思いながら。
「それじゃあ、準備はいいか?」
扉に、手をかけて。
「うん」
「いいとも」
二人の肯定が返ってくるのを聞いて。
「――よし」
と、頷いて。
「開けるぞ」
と声をかけて。
その手に力を込めて。
扉が開いた瞬間、彼の身体の体積の、およそ半分が削り取られた。