1-2 終わった
「か、カス野郎……」
気絶の時間がほんの数十秒で済んで、しかも目覚めた瞬間にはきっちり状況を理解できていたのは、間違いなくこれまでの修行での気絶慣れのおかげだった。
信じられないような気持ちでジルは空を見上げている。
といっても実際に青空が見えているわけではない。視界にあるのは馬鹿みたいに高い天井と、そこに開いた穴。自分が一人で魔獣と揉み合う羽目になった第三層から、もう第何層だかさっぱりわからないがとにかく途轍もない距離を垂直に旅して辿り着いたこの場所までを繋ぐ、大きな穴。
どう考えても、魔導師でもなんでもない自分では這い上がれそうにもない、その穴。
「い、ってー……。馬鹿かアイツ……!」
肩のあたりに手をやりながらジルは身体を起こす。
そして、ここに自分が盛大に叩きつけられるまでに起こったありえない出来事を、もう一度くらい思い返している。
まず、それなりに迷宮の攻略は順調だった。
Sランクの冒険者パーティたちですら三層より先に進んだことはないというこの最高難度迷宮〈二度と空には出会えない〉……その評判に恥じず、そのあたりに出てくる魔獣たちですら中難度迷宮では階層主と呼ばれてもおかしくないほどの実力を持っていた。
しかしそれもサポーター組のルート構築のおかげでそれほど苦にならなかったのだ。ときどきはどうしても接敵しなくてはならない場面もあったが、そこは流石にここまで来た実績がある。ジルが手を出さずとも、〈次の頂点〉のメイン組がどんどん斬り倒して進んでいった。
問題は、第三層の階層主に会ってからのことである。
ジルはあまり迷宮の仕組みに詳しくはないが……、なんでも、迷宮の各階層には必ず『明らかに迷宮から特別な魔力供給を受け、過剰に成長した魔獣』が存在しているらしい。
階層主は決して他の魔獣と同じように徘徊することはしない。主部屋と呼ばれる特別な空間で、冒険者たちを待ち構えている。
主部屋は必ず通過しなければならないというものでもないらしい。それを迂回しながらでも、次の階層に続く通路まで辿り着くことができる場合もある。
が、第三層ではそれができなかった。
というわけで、戦うことになった。
事件はここからである。
まず、事前の打ち合わせのとおり、ジルが一番前に飛び出した。
このワントップ型の布陣に対しては、特に彼自身不満はない。剣を振るしか能がない以上、こうした場面で矢面に立つのは当然のことだし、それに変に周りに気を遣うよりも前衛を一人で回していた方が気が楽で、かつ肉体的には厳しいのでいい修行になる。
次に、全く後方支援の気配がなかった。
このあたりで、「ん?」とジルの心に疑念が芽生えた。
別になくてもいい。最悪の場合は。
平地でぶらぶら旅をしていたときは、当然常に集団戦をしているわけではなかった。だから、ひとり孤立無援で戦うことには慣れている。援護がなくても別に、戦闘自体に支障はない。
しかし、本来そうなる手筈だったものが届かなければそれなりに不安になるもので。
どうしたんだ、とジルは後方にいるはずのパーティを見た。
すると、パーティのリーダーであるゴダッハが、彼の代名詞とも言える強力な魔剣――〈灰に帰らず〉に過剰な魔力を込めているのを見た。
いい、とジルは思う。
これもまだいい。
目の前にいる階層主とやらはものすごく強い。これまでのSランクパーティが三層より先に進めなかったのはこいつのせいなのではないかと、たった数回の交錯で思えてしまう。東の毒竜殺しを経験していなかったら自分だって自信を持って立ち向かえる相手ではなかったはずだと、そうわかる。
だから、リーダー自ら前に出て、その虎の子とも言える一撃――〈魔剣解放〉を放とうとしていることも、戦略的にはすごく理解できる。出し惜しみして傷を負うよりはずっと賢い選択だと、ジルだってそう思う。
自分が、その必殺の一撃の射程範囲内に入っていなければ。
「ちょ、待――!」
待たなかった。
真っ黒な閃光が奔った。
流石にどれだけジルが素早かったとしても不意打ちの広範囲魔法攻撃。階層主の後ろに回り込んで回避するのが精々だった。
階層主も負けてはいなかった。
その〈魔剣解放〉の力を、上から叩いた。ジルと対峙していたときに出していたよりも、遥かな出力で。
その結果、ものすごい爆発が起こって床に穴が開いた。
おそらく〈魔剣解放〉の力だけではなかったのではないかとジルは思う。
たぶん、階層主は階層主で何らかの必殺の一撃を放っていて、それが全て下側への力となって爆発したのではないかと思う。
何を思おうと、とにかく足場はなくなったし、自由落下の旅が始まった。
床の崩落の範囲の問題で、ジルと階層主のふたりきり、水入らずの旅が。
階層主は恐るべきガッツを見せた。明らかに空中戦に対応した種とは見えなかったが、それでも果敢に目の前の剣士の命を奪いに来た。
奪われるわけにもいかないので、ジルも人間という空中戦非対応の種でありながら、恐るべきガッツを見せて対抗した。
その結果。
ようやく、時間は現在へと至り。
「……あ、下敷きにしてるのか」
尻の下にある感触が、どうも迷宮の地面ではないとわかって、ようやくジルはそれが階層主の死骸であることに気付く。
ガッツ勝負は、ジルに軍配が上がった。
そしてその代償として着地に失敗し、いましばらくの気絶となったわけだった。
許してはおけぬ、と思う。
いったいどういう了見があれば人に向かって必殺技を撃つなどという発想に至るのか。まったくもってジルには理解できない。強いて心当たりがあるとすれば出発前のあの口論くらいだが、人に罵声を浴びせるのをやめろ、と注意したくらいで後ろから殺されかけるというのはいくらなんでも割に合わない不当な扱いで、憤るに十分な理由が自分にはあるはずだ、と思う。
ここから舞い戻った暁には、ボコボコのギタギタに叩きのめしてやらねば気が済まない。
とは思いつつも、それはまずここから抜け出す目途を立ててからの話で。
ジルは天井を見上げた。
そして大声を出そうとした。ゴダッハはともかく、パーティの中に多少なり良心のある者たち――たとえばクラハを初めとして――がいるはずだから、彼女らに助けを求めよう。運が良ければ長いロープでも下ろしてくれて、案外するりと元の場所まで戻れるかもしれない。
だから、息を吸って、
「おー……ぉおおおおおおおお?」
吐き切れなかった。
目の前で、気味の悪い勢いでダンジョンの穴が塞がったのである。
めりめりめり、とか、ぐじゅぐじゅぐじゅ、とか、そんな音を立てながら。
流石にこうなれば、ジルも認めないわけにはいかない。
助けを求めても体力の無駄遣いだ、と。
やれやれ参った。
これでは本当に、クラハに馬車の中で伝えていた冗談のとおりになってしまった。
まあしかし、眼鏡のかろうじて割れていないのが救いと言えば救いの一つ……とりあえずこの煤けた命綱を綺麗に拭いてから歩き出そうじゃないかと、ジルがその弦に手をかけた瞬間。
パリーン、と。
「………………ん?」
パリパリパリーン、と。
「…………嘘だろ、おい」
眼鏡が、盛大に割れた。
残念ながらジルにはその光景は見えなかったが、本当に馬鹿みたいに綺麗に、完膚なきまでに、粉々に砕け散った。〈魔剣解放〉と階層主のパワーの激突、それが引き起こした爆発、途方もない距離の落下とその最中の戦闘……それらすべてが彼の眼鏡に過剰な負担を与え、そして眼鏡の形を何とか支えていたガッツも、とうとう底をついたらしい。
馬鹿みたいに割れた。
眼鏡が。
残ったのは、裸眼の方向音痴が一人。
眼鏡のレンズが本来あったはずの場所に、何度も人差し指を入れたり抜いたり……スカスカと繰り返したあと、とうとう現実を受け止めて、彼は言った。
「終わった……!」
というわけで、冒険は始まる。