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4-3 優しくしてくれ




 壁どころか天井も床も壊して回って、とうとうこの階層全体が黒い壁に囲まれていることをジルが確かめて。


 どうやっても扉の魔法陣が読み取れず、「あああああー」とリリリアが仰向けに寝転がってぼんやり気の抜けた奇声を上げて。


 それからもうただ二週間前の残りを待とうと、ジルがリリリアを相手に指相撲で八十六連敗を喫したところで。


 唐突に、その声はかけられた。


「ごきげんよう」


 今度は、ジルは剣を抜きすらしなかった。

 リリリアと初めて会ったときとは違って。


「誰だ?」

 まず、ジルが訊く。

 するり、と肩のあたりに柔らかい感触があったのは、たぶんリリリアにごく自然な流れで盾にされたのだろうな、と思いながら。


「誰だって?」

 ものすごく驚いた声で、唐突に現れた人物は言った。


「誰ですか」

 ぼそり、とジルは背後にいるだろうリリリアに訊く。


「わかんない。けど、いい人だと思うよ」

「何を根拠に」

「ひみつ」

 この既婚の八十歳老婆の声は本当に綺麗だな、とジルは思っていた。


「待て待て待て。君たち、本当に僕を知らないのか?」


 声は高くも低くもない。男か女かもわからないながら、しかしとりあえずは本当のところを伝えてみようと、ジルは、


「眼鏡を壊したから、人の顔がよくわからないんだ」

「あ、なんだ。そういうことね……」

「俺と面識が?」

「いや、ないけど」


 じゃあわかるわけねーだろ。

 心の中でだけそんなツッコミを入れながら、ジルはうっすらと、こんなことに勘付いている。


 なんかこいつ、変な奴っぽいな、と。


「それじゃあ、今日を以てその脳にきっぱりはっきり焼き印しておくといい……僕の芸術的な顔と名前を!」


 脳味噌に焼き印したら死ぬだろ、と思ったし、そもそも眼鏡がないから顔がよく見えないって言ってるだろ、とも思ったし、なんなら『芸術的な顔』という自称のためにジルの中でいま目の前にいるこの人物のイメージ像は抽象画チックなぐにゃぐにゃの顔になった。


 が、しかし。


「僕はユニス――〈星の大魔導師〉ユニスだよ」

「大魔導師?」


 流石に、その称号には聞き覚えがあった。


「イエス。何となく、顔くらいは知られているものと思っていたよ。

 毒竜殺しの大英雄、ジル。そして島守りの聖女、リリリア」


 僕ら年も近いから意識し合ってるのかと思ってたのにさ、とユニスは嘆いた。

 とりあえず、ジルはその最後の部分だけは聞かなかったことにして。


「聖女?」

 代わりに、驚いて背後を見た。


「竜殺し?」

 同じように、驚きの声がかかってきた。


 呆れたように、その間にユニスが言葉を挟む。

「君たち、そんなことも知らないで二人で行動してたのか? 一体ここで何をしてたんだ、何を」

「指相撲とかだな……」

「へえ、指相撲! いい趣味だね。僕も強いよ、指相撲。無敗と言っても過言ではない」


 さあやろう、と言ってユニスはいきなり近付いてきた。

 そこまで気を許せはしなかったので、ジルは一歩、後退って距離を取った。


「……あれ? 僕、もしかして嫌がられてる?」

「いや、そういうわけじゃない。どちらかと言うと大歓迎なんだが……」


 背後のリリリアに向かって、

「大魔導師の顔を見たことは? 俺は一度もない……」

「私もないや。でも、嘘は吐いてないと思うよ」

「何を根拠に」

「ひみつ」


 というか、と彼女は、


「ジルくんは、そういう感じしてないの?」

「…………何のことだ?」

「あ、してないんだ」


 へえ、とリリリアは小さな声で囁いた。


 一体何の話だ、と問い質したくもなったが、しかし彼女が思わせぶりなのは今に始まったことではない。とにかく今は、目の前のこの人物が何者かを確定させるところから始めなければならない。そう思って、ジルは何かを彼に問いかけようとして。


 それより先に、目の前の彼が口を開いた。


「〈次の頂点〉のクラハさんと、聖騎士団第四分隊長のアーリネイトさん、と言えば信用してもらえるかな?」


「お、」

 声を上げたのは、リリリアの方。


「もしかして……」

「イエス。捜索隊だとも。たった一人のね」


 ぱちん、とユニスは指を弾いて、


「第四層にあった転移魔法陣を延長利用して、聖女……リリリアの痕跡を辿らせてもらった」

「すごい」

 感心の声をリリリアが上げる。一方で、ジルはあまりにも自分とは違うフィールドのやり口すぎて、いまいちそのすごさが実感としては伝わってこない。


 が、しかし。

 この状況を正確に把握して、関係者の名前まで出してきたこと。それから、たった一人でこの迷宮に乗り込んできたその自信……そしておそらく大魔導師を名乗るに相応しいのだろうその技量。


 そのあたりがわかれば、過剰な警戒はひょっとすると無用なものかもしれない、とジルも力を抜き始めた。


「すごいというのはこちらの台詞さ。君たち、生き残るだけじゃ飽き足らず、あまつさえよくもまあたった二人でこんな深層まで潜れたものだね。能力で言えば二人ともすでに人類のハイエンド、という評はそれほど嘘じゃないみたいだ」


「ほら! やっぱり逆だった!」

 鬼の首を獲ったようにジルが叫んだ。


「いい経験になったね、少年」

「うわ、開き直った」

「でも私はなんでも『うんうん』って聞いてた人も悪いと思うな。ちゃんと自分の行動には自分で責任を取らなきゃ」


 そしてうっかり自分が倫理的に不利な立場に立ってしまったことに気が付き、「そうですね、すみませんでした」とさっさと話を切り上げた。よく考えれば最初に逆方向に進み始めたのは他ならぬこの自分だ。二人旅は二人で意思決定をしてきたために責任は半々になるが、一人旅の責任は全て自分一人で背負うことになり、一方的に自分が悪くなる。そこを攻撃された場合、ぐうの音も出ないほどに叩きのめされて土下座させられるかもしれない。


「ところで、そもそも最初に逆方向に進み始めたのって、」

「救助って認識でいいんだな?」

 背中を柔い力で抓り上げられながら、とにかくジルは話を進めようとする。


「もちろん。大船に乗ったつもりでいたまえ!」

 ユニスがえへんと胸を張った。ような気がした。


「もっとも転移魔法はこの迷宮の魔力を利用した形になるから、帰りも同じ方法ってわけにはいかないけどね」

「それじゃあ、どうするんだ?」

「もちろん、僕がこのパーティに加わって地上までの帰還に手を貸す……」


 と、言いたいところなんだけど、と。

 ユニスは、


「君たち、そもそもどうしてこんな深層にいるんだ? 僕はてっきり、浅層で相性の悪い階層主にでも当たって足止めを食っているものかと思ったんだが……。まさか、二人でここを攻略するつもりだったのか? だとしたら、何とも僕の申し出は的外れで気恥ずかしい……」

「いや、そうじゃないんだ」


 恥を忍んで、ジルは言った。


「実は俺たち、どっちも方向音痴で」

「うん。流石に私も認めます。己の非を」

「ということで、ずっと上ってるつもりで、下層に進んでたんだ」


 はぁあ、とジルは深く息を吐いて、


「いっそ笑ってくれ。その方が気が楽になる」

「あはははは」

「いや、リリリアは笑うな」

「あ、ところでアーちゃん……アーリネイトはどうしてたかな。大丈夫だった? 怒られてないかだけがずっと心配で」


 しかし、いつまで経ってもユニスは笑わず、答えず、


「――ユニス?」

「……そうか。君たちは、二人とも方向音痴なのか」


 その声色で、ものすごく嫌な予感がした。


「おい、もしかして――」

「ところで、全然関係のない話なんだけど」


 急に明るい声で、ユニスは言う。


「僕は君たちのことを知っているんだ。

 東の国に出た毒竜が森を溶かそうとするのを討ち滅ぼして食い止めた、純剣士の大英雄、ジル。

 そして、最果ての教会で嵐に対する防護壁を張り、島を水没の危機から救った聖女、リリリア」


「いや、それは師匠と二人で……」

「私も、それは島の人たちが協力してくれたからだよ」

 突然の褒め言葉に二人が反応していると、ユニスはすかさず、


「逆に訊かせてもらいたいんだけど、君たちは僕のことを知っているかな」


 戸惑う。

 何か、話を逸らされている。


 明らかに、重要な部分から遠ざけられている気がする。


「ええっと、確か、星の……」

 しかしリリリアが先に答え始めてしまったので、ジルも仕方なく、


「史上最年少の大魔導師認定者だろ。正直言って専門外だからあまりその条件は詳しくないんだが……確か、」

「新しい魔法を生み出した、とかじゃなかった?」


「イエス」

 と、ユニスは頷いた。


「正確に言うと、もう少し細かい条件があるんだけど……まあ、僕も君たちの得意分野の細かいことを言われても理解の及ばないところがある。わかりやすい実績……言い方が悪くなってしまって申し訳ないね。でも、何かしらそうしたことをしてこなかったのは、僕自身の落ち度だろう。あ、あと君たちに倣って謙遜をすると、僕の最年少記録は単に、出会うべき師に早い段階で出会えたというのが一番の要因で――」


 ひととおり、それを聞いてから、


「で、ユニス。あなたは、」

「簡単に言ってしまうと、僕の魔法は星から力を得る魔法だ」


 遮って、さらに言う。


「自分の中にある魔力は基本的に制御用と言ったらいいのかな。大部分は、星が持つ魔力を上手く利用して行うものが多い」


 まさか、とジルはこの話の最終着地点を予想した。

 地下深くだから、とか。


「と言っても、さすがに僕だって大魔導師の称号を持つ者の一人だ。こうした迷宮の近く――星の光が届かないところでだって、ある程度の力は使える」


 ほっ、と息を吐いて、


「――はずなんだけどね」

「もう結論から話してくれないか? 心臓が壊れそうだ」

「あ、そう? それじゃあ、お言葉に甘えて」


 何となく、そのときジルは思った。

 眼鏡がないから、ぼんやりとしか見えなかったけれど、何となく。




「魔法の力はともかく――普段の移動は星の位置を目印にしてきたから、こういう場所だと僕は全然方角がわからない! 役立たずだ! 優しくしてくれ!」




 そのときのユニスは――腹が立つほど清々しい笑顔をしていたのではないかと、何となく、思った。



 方向音痴の剣士と聖職者、それから魔導師。

 アホが三人勢ぞろい。


 ビンゴなら上がりになるところだが、これはビンゴでないので上がれない。

 冒険は、まだ続くらしい。




†○☆†○☆†○☆




 さてしかし、この三人の一日は、まだここでは終わらない。

 和気藹々と、これからの方針を話し合うにも、まだ及ばない。


 それは、彼女が口にした言葉のために。

「あの扉なんだけど、いいかな。ユニス……くんとちゃん、どっちが好き?」

「くんがいいかな。可愛いから」

「じゃあ、ユニスくん。あの扉に魔法陣が描いてあるんだけど、転写できたりしない?」

「お安い御用」


 え、と声を上げたのはジル。


「いや、もう必要はないんじゃ……」

「ごめんね、ジルくん。ちょっとだけ」

「どうせすぐ済むさ。……ちょっと、離れた方がいいかな」


 そう言って、ユニスは二人を扉の前から下がらせて、


「〈流れよ(フロウ)〉」


 パシャリ、と音が立つのを、ジルは聞いた。


「何を?」

 小さく訊ねれば、

「大した魔法じゃない。扉の表面の窪みのところを埋めるように水を発生させて、その形を変えないまま、地面に押し付けたのさ。ちょうど、本の頁を畳むみたいにね」


 それで、とユニスは、

「どんな魔法陣――」


 言葉を、失った。


「……おい、どうした?」

「やっぱり……」

 そう呟いたのは、ユニスではなく、リリリア。


「……まさか、君はこれを知って?」

「ここまで来たのは偶然……ううん、偶然でもないのかな。でも、ここまではっきりしたのは、想像してなかったな」


 彼女は、少なくともこの一月と少しの間、ジルが聞いたこともないような声で、こう言った。



「外典魔法陣に、外典魔獣――。

 この迷宮って、誰かに作られたものなのかもしれない。それも、滅王と関係した誰かに……」




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