5-1 もう昼だよ
寝たら朝が来た。
床の上で。
「やべ……」
風邪引いたよなこれ、という確信めいた気分とともに、デューイは目を覚ました。一瞬だけの混乱の後、彼はすぐに昨日の記憶を思い出す。そんなに大したものじゃない。〈天土自在〉の調査班に加わって数週間。やっていることは毎日同じだ。
魔導師班が引っ張り出してきてくれたデータを、読む。
読んで、それっぽい報告書――という名の要解読メモ――を書きつける。そうじゃなかったら、この巨大な遺跡の中で見つけた何かしらの先史文明の遺産を弄りまわして、盛り上がって、教会の人に怒られる。
昨日は、前者。
で、途中で寝た。
床で。
こういう経験は豊富な性質だから、もう自分の体調を確かめる前からデューイはわかっていた。絶対、風邪引いた。いくら〈天土自在〉が南方樹海の奥地、特に大陸の中でも暖かい場所にあったとしても、そろそろ夏も過ぎ去って、肌寒い夜が増えてきた。そういうときにこういうことをすると、例のあのどこに行っても到底くたばりそうにない眼鏡の友人とは比べるべくもない普通の健康体だ。絶対、風邪を引く。
というわけで、背筋に走る寒気とかそういうのを覚悟しながら、デューイは起き上がった。
走らなかった。
毛布がかかっていた。
「うお、マジ?」
誰かがかけてくれのだ、と気付く。
マジかよ、とデューイは思う。ありがとう親切な人。顔見たら好きになっちゃうぜ。綺麗に畳んで、うん、と背を伸ばす。毛布があっても、流石に腰と背中は痛かった。念入りに身体を左右に揺らした後、〈天土自在〉の中に勝手に陣取った私室の中、ふう、と息を吐く。
テーブルの上に、書類が置いてあった。
メモもついている。字でわかる。あまり無理をしないように、といういかにも先生な忠告からもわかる。ウィラエのものだ。よく見たら部屋のドアも閉めてあるから、中の様子まで見てくれたらしい。後で礼言って毛布返すついでに差し入れを持っていって――考えながら、デューイは書類を捲る。
「――気候変動?」
その文字に、意識を持っていかれる。
これもまた、いつものデータの一つだった。〈天土自在〉のデータにアクセスを試みている魔導師たちが、全体に共有する日ごとの資料。その写し。
捲る。
先入観が生まれるのを避けるために、その資料自体には魔導師チームの読解や考察は載せられていない。載っているのは、〈天土自在〉に蓄えられていたらしい気温や湿度、降水量のデータばかり。
それでも、デューイは思うところがあった。
これか?
顔を洗う。口をゆすぐ。備蓄しておいたパンを咥えて、その人を探す。
休憩室で、待ち構えていたかのようにその人は座っていた。
「先生」
目の前の椅子を引いて声を掛けると、おはよう、と挨拶された。ざす、と挨拶を返す。毛布、と礼を言う。
資料を机の上に置く。
「〈天土自在〉って、もしかして気候変動の調整用施設だったんすか」
いきなり、本題に入る。
ウィラエは、休憩中だったのだろうか。それともこれから仕事に取り掛かるところだったのだろうか。一杯のコーヒーを手にしている。それを机に置く。しばらくじっと、その資料に目を落として黙りこくっている。
「デューイさん。コーヒーは要るかな」
返答には、迷った。
長い話になる、という意味なのか。それとも今この場で話すことではないという遠回しな表現だったのか。
「私も、その一面があったのではないかと見ている」
少なくとも、後者ではないらしかった。
そうして、ウィラエは話し始めてくれたから。
「元々、魔力が何らかの熱量を生み出すというのはわかっていたことだ」
何もないところから火を出したりするわけだから、と。こちらが魔法学園に通ったわけでもないことを考慮してだろう、ウィラエはごく初歩的なところから説明をしてくれる。
「ただし、それがマクロな気候変動にまで影響するという観点は、現代文明ではそれほど一般的なものではない。そこまで極端な影響を及ぼすほどの魔法は、まず現代で持続的に扱われることはないからだ」
しかし、と彼女は資料のページを捲る。
そこにあるのは、とてつもなく古いデータだった。デューイもまた、それを見る。ついさっきも見ていた。だから、ここまで来た。
気象データの、とんでもない乱高下。
グラフの縦軸を突然弄ったんじゃないかと思うくらいの、激しい傾きの数々。
「今回の調査の中で、かつてこの星にある大陸は一つではなかったことがわかっている。同時に、我々が想像していたよりも、先史文明は遥かに規模の大きい活動をしていた可能性も見えてきた。ならば、あるいは……」
ありうるかもしれない、という言葉まではウィラエは口にしなかった。それはおそらく、この調査の責任者としての立場から、うかつな断言はしないようにという慎重深さのためだったのだろう。対面にいるデューイには、言葉がなくともその内心を感じ取ることはできた。
「だったら、の話すけど」
それでも相手の立場を慮って。
デューイは、あくまで仮定の話として訊ねる。
「現代でもこれが作動してたってことは、やっぱり、今でも何かしらの影響を出してるってことすか」
「現段階では、まだわからない」
今度は、もっと単純な答え方に聞こえた。
純粋にまだ調査が足りない、細かな裏付けとなるデータどころか、それらしい仮説を立てるための手がかりすら不足している、という言いぶり。
「ただ――」
「ただ?」
「おそらく、〈天土自在〉の耐用年数はとっくに過ぎている。もしもこの先史時代の遺産が、我々の文明に何かしらの重大な恩恵をもたらしていた場合……」
それが失われていたときには、という言葉を。
お互いに口にしなかったのは、単純な理由だったのだろう。少なくともデューイはそう思う。
言葉にして、それが実現してしまうのを恐れたから。
デューイは髪をかき上げる。資料を手に、椅子に寄り掛かる。深く息を吐く。一方でウィラエは、カップの底までコーヒーを飲み干した。立ち上がる。
何にせよ、と彼女は言った。
「とにかく、まだ情報が足りていない。あまり極端な速度勝負になるとは考えたくないが、とにかく今は、情報のサルベージが最優先事項だな」
「あ、うす。すんませんした。朝から」
頭を下げると、くすりと彼女は笑った。
「もう昼だよ。デューイさん」
マジすか、の言葉に、マジだよ、と答える。
「気持ちはわかるが、夜更かしはほどほどにな」
では、とウィラエは休憩室から去っていった。
デューイは、どうでもいいことも考える。昼なのにあの人コーヒー一杯しか飲まねえのかな。いやオレが来る前に何かしら食ってたのかもな。そういえばオレ、最後に飯食ったのいつだっけ。そのへんのベーグルでも食うかな。
ベーグルを手に取って、コーヒーも一杯注いで、再び席に着く。
新たに現れた手がかりを元に、ぼんやりと考える。
なんつーか。
確かにでかい情報ではあるんだけど、でかすぎていまいちまとまりがねーっつーか。
「……直接訊けりゃあな」
呟いたとき、デューイの頭の中には、ふたりの顔が浮かんでいる。
今となっては、自分にとって本当はどういう存在だったのかも曖昧になってしまったふたりの顔が。
研究所を出て、あの頃を思い出させる友人たちのほとんどとは別れて。
それで多少は寂しさも紛れるかと思ったけれど、こういうときはふと、離れ離れになったことの心細さの方が強く心に訪れる。
「あー……」
天を仰ぐ。ばさっ、と書類をテーブルの上に放る。長い金髪を重力のままに流して、天井を眺めながら、何も考えない時間をデューイは過ごす。
四秒。
心細さを振り切って、身を起こす。熱いコーヒーを、ず、と啜る。
「うし。今日も頑張るかあ」
向こうだって頑張ってんだろうしな、と気合一発、髪の毛だって後ろで一本に結んで、昼からの一日を彼は始める。
ロイレンが目覚めた、という報はその三日後に耳に届いた。
†
「色々、言いたいことというか、考えなくちゃいけないことというか……」
あるよね、というのが〈原庫〉調査の二日後にユニスが言ったことだった。
ですね、とクラハが頷いたのは、大図書館併設の宿泊所、ユニスの部屋でのことだった。
他の場所も、もちろん大図書館にはある。それこそ黒板が置いてあって、いかにも会議や打ち合わせに適した部屋も、もちろんある。
が、何もかもが騒がしかった。
それはもちろん、〈原庫〉内に外典魔獣が侵入したからで、
「でも疲れたよ~……!」
そしてもちろん、それは〈原庫〉調査の責任者であったユニスに後処理の負担をもたらすものだった。
だからクラハは、実を言うとあの調査から今に至るまで、ユニスとじっくり会話をする機会がなかった。疲弊しているだろうな、と思っていたら本当に予想通りの様子になっていて、ベッドの上にうつ伏せになって泥のようにくたびれているユニスを見ると、思わず苦笑が漏れる。
笑っている場合ではない。
「また、滅王が何かを仕掛けてきているということなんでしょうか」
一番緊急性の高い話から、クラハは話を振った。
うーん、と唸るようにしてユニスが枕から顔を上げる。ぱたり、と足を片側だけ背中の方に畳んで、
「前から思ってたんだけど、滅王側ってあんまり統一性がなくないかい?」
と言う。
「どういうことですか?」
「そんなにはっきりした根拠がある話じゃないんだけどね。最高難度迷宮の一件以来、色んなところで外典魔獣からの襲撃があるだろう。あれ、僕もそれなりに対応に駆り出されてたんだけどさ」
あんまり意思を感じないんだな、と彼は言った。
意思、とクラハはその言葉を繰り返す。
「行動に一貫性や計画性が感じられない、ということですか」
「そう。なんかとりあえず襲ってるだけみたいな雰囲気を感じるんだよね。それ自体は別に、普通の魔獣もそうだから不思議なことじゃないんだけど」
「でも、今回〈原庫〉に出てきたような魔獣は、そういう通常の魔獣とは違うように感じました」
それなんだよ、とユニスは相槌を打った。
「魔力がほとんどないから警戒網に引っ掛からないなんて、いかにも集団戦用にチューンアップされた性能だろう? なんだかそのあたり、ちぐはぐな気がするんだよね。何って言ったらいいんだろう。こういうの」
「……『顔が見えてこない』?」
ああ、とユニスは頷いた。
「それだ」
同意を得られながらも、実を言うとクラハの方では、あまりこの話にはピンと来ないところがあった。
最高難度迷宮から東の道場町、そして南方樹海の一件に至るまで、何かしらの強大な力と対峙させられているという点で、一貫性は感じていたからだ。確かに、最高難度迷宮では外典魔剣〈灰に帰らず〉、東の町では外典魔獣〈十三門鬼〉、南方樹海では滅王の協力者ロイレンと、事件を主導しているように思われた存在がそれぞれ異なるカテゴリに属しているというのは、言われれば思い当たりはする。しかし、それぞれの目的は滅王の復活のためであるのだから――
「…………」
ふと気付く。
〈十三門鬼〉の目的は、何だったのだろう。
あの町を滅ぼすことが、どれだけ滅王の復活に寄与するだろう。考え至ると、どうして自分がその点に疑問を感じていなかったのかが、むしろ疑問の種になった。
ユニスの言う通り、『とりあえず襲っているだけ』だったのだろうか。
自分はあの鬼に、何の意思を感じていたのだろうか。
「ま、でもそういう大きなことよりも先に、まずは目先のことからかな」
ユニスが言うから、その思考は途中で止まった。
はい、とクラハは頷く。ついさっき渡された資料を手に取って、目を通す。
「君の言う通り、今回出てきた外典魔獣は何かしらの狙いがあってのことだろうね。ラスティエ教の歴史の棚の前にいたということで、証言と合わせて教会に連絡しておいたよ」
ま、と彼はこの部分はあっさりと、
「向こうにはリリリアとジルがいるからね。リリリアの動向が気になるところではあるけれど、どうせ僕たちの知識が大聖堂の聖女様方に勝るってこともないだろうし。一旦、向こうの預りとしてもらってもいいだろう」
「はい」
「次に、肝心の〈天土自在〉及び滅王に関しての、〈原庫〉調査の結果について」
ユニスもまた、手元に同じ資料を持っている。
彼はごろりと寝返りを打つ。窓から差し込む明かりに、その紙を透かすようにしながら、
「やっぱり、そうとわかってから調べてみれば結果は違うね。大陸が複数あった証拠らしきものは、いくつか出てきた」
「でも、直接的じゃありませんね」
そこなんだよなあ、と彼は呟く。眉根を寄せて、
「こうなってくると、意図的にこれらの情報は消されてたんじゃないかって気がしてくるな」
確かに、とクラハは頷いた。
これだけ大きな地理的情報が伝承されていないというのは、いくら先史文明の文献がほとんど残っていないからと言っても、奇妙だ。
「教会の図書館火災も、もしかすると関係があったのかもしれませんね」
「となると、歴史上のかなり長い期間において、滅王の復活を支援する組織があったことになる……んだけど、これも僕は怪しいと思うよ」
それは、と少し頭を整理してから、
「聖騎士団がその存在を掴んでいないのは、不自然だからですね」
「そうそう。普通に考えて、全く情報が流出しない組織なんてありえないからね。現代に至るまで活動しているそんな組織があるとしたら、どこかしらで噂くらいにはなってるんじゃないかと思うんだ。このあたりも、『顔が見えない』っていうのの一つだね」
言われてみると、とクラハも思う。
ロイレンのような滅王への協力者がいて、これだけ大きな規模の騒ぎになっておきながら、そのバックとなる組織の影がほとんど見えてこないというのは気にかかる。
考えられるなら、
「……〈次の頂点〉のゴダッハさんのように、外典魔装の支配を受けてしまうことで、個々人が秘密裏に滅王の意志の下に動かされている、とか」
「一番それらしいのはそうなんだよね。でも、それはそれで魔装が今まで猛威を振るってなかったのはなぜなのかとか、魔装が今になってようやく動けるようになったんだとしたらそれ以前はどうだったのかとか、今になってロイレン博士のように魔装の支配を撥ねのけられるような強力な魔導師を協力者に組み入れたのはなぜなのかとか、色々とあやふやなところが残ってくるわけだ」
小さくユニスは、溜息を吐く。
何とも、と呟く。
「つかみどころのない存在を相手にしてるよ、僕たちは。これがもっと時間に余裕があるんだったら少しずつ進めていけばいいんだけど、その余裕があるかどうかもわからないし」
「しばらくは、サルベージできた情報の再整理ですか」
「そうなるかな。結構みんな張り切って情報を取ってきてくれたから、なかなか繋げ甲斐もありそうだし。ほら、これなんか」
四十六ページ、とユニスが言う。クラハは、言われた通りのページを開ける。こんな言葉が書いてある。
失われたラスティエの遺産。
これは、と思わず呟いた。
「さっき言及してくれたけど、教会の図書館火災の件に着目して調べてくれたグループがあったんだ。前から滅王周りに関する情報の欠落は問題視されていたところだけど、今回は過去の大陸の情報も出たからね。実は思っているよりももっと広範な量が失われているんじゃないかっていうことで、過去の情報と現代の状況を照らし合わせてリストアップしてくれてる」
クラハが目を留めたのは、その中の一つ。
〈原庫〉の調査中に、ニカナと話した際にも挙がったその言葉。
聖剣。
「パーツの欠け跡から元の全体像を想像するのもよし。あるいは、次の〈原庫〉調査の機会にその中でも気になったものを重点的に掘ってみるのもよし。情報公開して良さそうな範囲なら、各国に協力依頼を出して、大図書館以外の場所を冒険者の人たちなんかに探ってみてもらうって選択肢もありだけど、流石にそこまでは僕の権限だとやりすぎかな。一旦ウィラエ先生に手紙で相談してみるよ。……ところで、クラハ」
「え、あ、はい」
「そっちも何か収穫がありそうだね」
意外と、と言ってしまうと失礼かもしれないけれど、一度仕事のモードに入ったユニスは、鋭いところもある。彼は目ざとく、こちらの荷物を見逃さなかった。
あるいは、南方樹海での一件が彼を変えたのかもしれないけれど。
クラハは、手持ちの荷物の中から報告資料を取り出した。
「頼まれていた件ですが、一件、気になる文献を発見しました。複写の時間を落ち着いて取れなかったので、書名と大まかな内容しかまとめられなかたんですが」
「十分だ」
ありがとう、と身体を起こして両手を出したユニスに、クラハはその報告書を渡す。彼が渡してくれたたっぷりのそれよりは、ひどく薄いものだ。
しかし、ユニスは真剣な顔でそれを読み込んで、
「……『死神』?」
同じところで、引っ掛かる。はい、とクラハは頷く。
細かい話を始めようとする。
そのとき、ノックの音が響いた。
「はい」
クラハはごく自然に、その音に答えた。ユニスは一瞬の間に毛布を被っている。もう慣れた。一度目に同じような状況に陥ったとき、「僕は集中しているときの来客対応がこれ以上ないほど苦手なんだ」と言って震えているのを見たから。
「どなたですか」
「ニカナです」
扉の前で訊ねて、一応クラハは、後方を確かめておく。
ユニスが頷く。何の心当たりもなさそうな顔をして。
「今開けます」
きぃ、と戸を引くと、ニカナは少し安堵したような顔でこちらを見ていた。
「クラハ。ごめん、取り込み中だった?」
「ちょっと打ち合わせ中。何かあった?」
あちゃ、と気まずそうな顔。
それでもニカナは、アーリネイトの部下らしく、はっきりとこう伝えてくれた。
「聖女カドリオン様が来てる。二人にお願いしたいことがあるって」