3-2 侵入してきてたよ
彼女は、部屋の中に座っていた。
自室と呼べるようなものは、聖女の職を辞すると自ら言い出した以上、この建物の中にあるわけではない。けれど騒ぎを起こさないよう大聖堂の中にいろ、と年上の同僚から言われたことを忠実に守っているものだから、リリリアは使われていない一室に荷物を運びこんで、その中で一日の多くの時間を過ごしていた。
窓の外、色付いた木々を見つめながら、ぼんやりと彼女は頬杖を付いている。
それが不意に、席を立って動き出した。
彼女はテーブルの上の、まだいくらか紅茶の残っているカップを手に取る。踵を返す。床を見つめながら、扉の方に歩いていく。
その紅茶を、床に注ぎ落とす。
すると、奇妙なことが起こった。
彼女の足首ほどの高さで、その液体は奇妙な動きを見せた。床と垂直に落下するだけではない。何もない場所で、しかしあたかもそこに何かがあるかのように、空気中で軌道を変えた。ねじ曲がって、垂れ落ちて、けれど一部はその場に留まる。
それは猫のような大きさの、何らかの四つ足の獣のように見えた。
リリリアは、それを片手で取って持ち上げる。宙吊りにしてもまるで抵抗の様子を見せない紅茶の獣を前に、しばし考える。
それから小さく、仕事が増えた、と呟いた。
†
「ジル殿。そちらではないぞ」
何回目かもわからない注意を受けて、そろそろ自分には学習能力というものが欠けているのではないかとジルは思い始めている。そんなはずはないのだが、という思いもあるけれど、こうした思いを抱くこと自体が良くないことのようにも思えてくる。
しかし、それもそろそろ終わりだ。
何と言っても、ようやく目的地周辺なのだから。
こっちだ、と案内されて、もう馬車は降りていた。
西の街だ。色付いた街路樹の下を馬に引かれて車輪は回り、赤い石畳を抜けながらアーリネイトは言った。「正面からは目立つから、裏道を使わせてもらう」……その言葉に違わず、やがて道は曲がりくねり、人通りは少なくなり、下ろされたときにはもう、いつの間にか関係者以外は立入禁止にされていそうな深くまで潜り込んでいる。
アーリネイトの後ろをついて歩きながら、周囲を見渡す。
意外と、と呟いた。
「落ち着いた場所なんだな。もっと大聖堂っていうから、豪華な場所なのかと思った」
「教会学校の方はもっと落ち着きがないぞ。若いのばかりだからな。こっちは……」
若くないのばっかり、と引き継ぐのも失礼か。いや若い若くないなんて生きていれば誰にだって訪れることなのだからそんな指摘を失礼と思うこと自体が失礼なのでは。答えは出ないまま、歩みは進む。
「普段はもう少し聖騎士団も詰めているんだがな。ここ最近は、ほら」
「滅王関係の? 出払ってるのか」
「大忙しだ。そこまで仕事の多い部署でもないから、平時も訓練課程を終えれば大陸各地の教会で通常の聖職者の任に就いていることも多いんだが、今は外典魔獣の対処の関係で輪をかけて散らばっている。正直なところ私もまさか、自分が生きている間にこんな事態に遭遇することになるとは思わなかったが」
「でも、訓練や調査はしてたんだろ」
ジルは最高難度迷宮、〈二度と空には出会えない〉にリリリアが聖騎士を伴って訪れていたことを念頭に、そうして訊ねかける。あのときは地上に自分がいない間、アーリネイトが様々な調査を行ってくれていたとも聞いた。
まあな、と彼女は頷くけれど、
「しかしその調査も、取り越し苦労の空振りが基本だ。もちろん手を抜いたことはないが、分隊長になってこちらの職に専念するようになってからは、もっぱら仕事の主眼は聖女様の護衛のつもりでいた。といって、それも最近はジル殿に取られ気味だが」
振り返って、彼女がちょっと笑う。
ジルは、笑い返した方がいいのかよくわからない。すみません、と謝るのも違う気がする。戸惑っていると、年上の余裕だろうか。アーリネイトは重ねて言った。
「本当にかたじけなく思っている。そういえば、教会からの謝礼についてはどうだ? リリリア様から手配があったと思うが、もし何かあれば、私の方でもう少し都合をしておくぞ」
世話になっているからな、と言う。
ジルの目が、ますます泳ぐ。
「なんだ、どうした」
「いや……まあ、十分です」
ジルの中には、旅のかなり早い時期に自分で自分に植え付けた「財布ってなくなるし意味ないな」という感覚がある。
どうせあちこちをうろちょろしている間に激しい運動をしてどこかに転がっていくし。ヴァルドフリードから「動物じゃねえんだからよ」と冒険者ギルドに口座を開設してもらったことがあるけれど、無一文からのリカバリー手段が豊富すぎてほとんど使ったことがない。今いくら貯まっているのかわからない。横領されても気付かない。リリリアから「何か欲しいものある?」と訊かれたときは、どうせなら旅のときに役立つ何かをと思い、「じゃあ近くに立ち寄ったときに教会に泊めてもらえれば……」というようなお願いもしたけれど、教会は別にそんな約束がなくても困っていれば寝床を貸してくれるので、特に意味がない。
というわけで、十分なのかどうか、よく知らない。
しかし興味があまり持てないということは、少なくとも不足を感じているわけではないのだろう。詳しい事情は説明せずに、そう答えて流しておいた。
「ここからだ」
アーリネイトが押さえる扉から、中の建物に入っていく。
清潔ではあるが、やはりそこまで豪奢という印象があるわけでもなかった。荘厳というのもまた違う。ここを使ってきた人々が、長く大切にしてきたのだろう。見た目から感じられる古さと傷み具合とが釣り合っているように感じられず、自然と居住まいを正される。そういう丁寧さを纏った、古い館のような場所だった。
アーリネイトが言うとおり、建物の大きさに比して詰めている人数はそれほど多くないようだった。裏口付近は、特に人気が感じられない。行こうと彼女が言うのに従って、廊下を歩いていく。
けれど、徐々に人の声が耳に届くようになってくる。
先を行くアーリネイトが足を止めた。
「妙だな」
「何が」
「中心区画の方が騒がしい」
何かトラブルが起きているのかもしれない、と彼女は言う。振り返って、
「すまないが、リリリア様の部屋までジル殿を届けたら、私は――」
「お、」
きぃ、と廊下の向こうでドアが開いた。
ジルはびっくりした。気配を感じていなかったからだ。そしてアーリネイトから「問題はない」と言われてもなお、完全に外様の身で教会の本部にまで乗り込んでいることにうっすらとした緊張を感じていたためでもある。
でも、眼鏡をかけているおかげで、すぐにその驚きはなくなった。
「連れてきちゃったの?」
そこにいたのは、リリリアだったから。
彼女は何らの変わりもないようにジルには見えた。迷いのない、それこそ自宅を歩き回るような足取りでこっちに向かってくる。やす、とこっちに挨拶してくると、
「ごめんね、遥々遠くまで。アーちゃんがいないから怪しいな~とは思ったんだけど、やっぱり呼びに行っちゃったんだ。ユニスくんと……あ、クラハさんも図書館?」
ああ、と答える。そっかそっか、と彼女は頷いた後、
「良い判断だね。ジルくんの代わりって向こうに誰か残してきた?」
「ニカナさんって人が」
「あ、ほんと?」
へえ、とリリリアはアーリネイトを見る。アーリネイトの表情はどういう意味なのだろう。親しい間柄だろう二人の間で交わされる視線の意味を、ジルは読み取れない。
「良い判断だね。じゃ、向こうは心配ないか。〈天土自在〉にもウィラエさんがいるし」
納得したように、リリリアは頷いた。それから彼女は、
「ところでさっき、外典魔獣が敷地の中に侵入してきてたよ」
「――は」
「戦闘能力は全然なくて、赤ん坊でも潰せちゃうくらいだと思うけど。ただ、何かの目的はありそうだったから、今、中に残ってる人たちに他に侵入してるのがないか探してもらってる」
とんでもないことを言った。
ジルも面を食らったが、アーリネイトの驚きはそれ以上だった。彼女は大きく目を見開くと、こっちを見て、
「申し訳ない、こちらの方を先に!」
と走り去る。
「……俺も、」
取り残されて、ジルは、
「行った方がいいのか?」
「いや、大丈夫だと思うよ。一応、私も集中して探したから。多分今からやるのって、粉撒きだし」
「粉撒き?」
「そう。多分戦闘能力と引き換えに魔力感知できないくらいに小さくまとまってるタイプだから、建物の中に粉を撒いて……って、」
立ち話も何だから、と彼女は手のひらを掲げて、
「部屋で話そっか。説得してって説得されて来たんでしょ?」
お見通しの口調で、そう言った。