3-1 普通でいこうかな
「移動続きで申し訳ない」
馬車での移動の合間のこと。うん、と背伸びをしていたのを見て、疲れていると思われたらしい。アーリネイトからそう声を掛けられたのに、ジルは振り向いて答えた。
「いや、平気だ。慣れてるし、むしろ教会の馬車の乗り心地の良さに驚いた」
「そう言ってもらえると。移動時に限らず、生活環境の心地よさを追求するのは、教会の基礎方針の一つだからな」
臨むのは、稲穂の群れだった。
まだ南の国を出るか出ないかという場所だ。馬は休憩のために首をもたげて草を食む。そのたてがみがそよぐように、黄金色の田畑もまた、風に実りを揺らしている。幾人かの農家が、その狭間にちらほらと頭を見せている。
日も傾き、地平線の向こうには橙色が滲んでいた。
「今日はこのあたりで野営か?」
「いや。もう少し先に行くと、宿場町がある。完全に暗くなる前には着けるだろう」
そうか、と頷く。
ぐ、と今度は手のひらを伸ばす。何度か開く。閉じる。
よければ、と申し出た。
「そっちに着いたら、ちょっと剣の稽古に付き合ってくれないか。調整しておきたくて」
もちろん、とアーリネイトは答えた。
「むしろこちらからお願いしたいくらいだ。大陸最強の剣士と手合わせできる機会など、なかなかあるものではない。よろしく頼む、ジル殿」
殿はいいって、とジルは苦笑する。そういうわけには、とアーリネイトは答える。やがて二人は馬車に戻り、再び車輪は回り出す。
二人で、大聖堂へと向かっていた。
†
「あの、大丈夫ですよ。ずっとついていなくても」
というようなことを言ったとき、彼女は自分が言われているとは思っていなかったらしい。ちょっと間を空けた後、こっちを見て、
「私ですか?」
はい、とクラハが頷くと、とんでもない、というように大きく両手を振った。
「いやいやいや! 大英雄殿の代わりとしての護衛ですから! もう、実力は及ばない分、しっかり真面目に務めさせてもらいます!」
「いや、実際気にしなくていいよ」
ユニスが援護して、
「ジルも別に、僕らにべったり付きっ切りってわけじゃなかったからね。大図書館は警備もしっかりしてるし、普段はもっと楽にしてくれていい」
「そうですよね。ニカナさんも移動でお疲れでしょうし、本命は〈原庫〉調査ですから。それまでは少し、身体を休めていただいても」
二、三のやり取りの往復がある。
それから彼女は、
「そうですか? では……あまり近くにいても、お二人も集中できないでしょうし。少し私も大図書館周りの警備状況を確認したり、周辺的なことをやってきますね」
と席を立つ。
その足音が聞こえなくなる頃、はああ、とユニスが溜息を吐いて机に突っ伏した。
「緊張したあ……。ごめんね。多分さっきの、気遣ってくれたんだよね」
何となく、そんな気はしていた。
妙に背筋が張っているように見えたから。目の動きを見れば、本を読むこと自体はちゃんとこなせていたんだろうけれど、他に身体は全く動いていないのに、どうも落ち着きがないようには映っていた。
と言ってもそれだけではなく、
「いえ、ニカナさんも緊張されていたようだったので。どちらもです」
「え。向こうも?」
なんでというように言うから、苦笑しながらクラハは言う。
「誰でもそうだと思いますよ。私も、ユニスさんやリリリアさんと話すのは緊張しましたし」
「……今も?」
今はあんまり、と素直に告げるのもどうかと思い、言葉を濁しながら似たようなことを伝える。そっか、とユニスが胸を撫で下ろす。
「それにしても」
それから彼は、こう言った。
「ちょっと、意外な割り振りになったね」
†
「考え直すようって……」
時間は遡って、大図書館にアーリネイトたち聖騎士が到着したそのとき。
ジルが代表して会話するのを、クラハは聞いていた。
「自分で言い出したのか? 聖女を辞めるって」
「そうだ。耳が早いな」
ちょうど、と横から新聞を持ち出して示せば、ああ、とアーリネイトは納得する。
続けて、
「今回の案件については、リリリア様が聖女の権限で以て、自らを解任する形で始まっている。現在は発議段階であって、他の三聖女たちの判断を待つ形になっているが、ジル殿とユニス殿にはこの発議を撤回するよう、リリリア様を説得してもらいたい」
「理由は? なんでそんなことになってるんだ」
ジルの疑問に、アーリネイトは苦い顔をした。彼女が周囲を見るから、釣られてクラハも同じようにする。自分たちの他には誰もいないように見えるが、部屋の外となればまだわからない。
それを考慮してか彼女は、
「ここでは言えない。教会内部でも一部の人間にしか知らされていないことで、私とこの――部下の、」
「ニカナです! よろしくお願いします!」
「ニカナが知っているのが特例的な状況で、本来であればまだ聖女にしか共有が許されていない情報だ。内密にするにしても、大聖堂の中でお願いしたい」
そうか、とジルは頷く。
彼はユニスを見て、
「〈原庫〉調査って」
「僕がいないと厳しいね。今回は大規模調査になる予定だし」
「俺はいた方がいいか?」
「いてくれた方が安全性は高まるんだけど――」
「そこはお任せください!」
ニカナが、大きな声を上げた。
びっくりして、こちら三人は彼女を見る。アーリネイトは平然としているけれど、「声がでかい」と一言言って、こっちに頭を下げてくる。
一瞬、ニカナは「えぇ……?」という顔でアーリネイトを見た後、向き直って、
「急なお願いですから、その場合は私がこちらに残って護衛を務めさせていただきます」
今度は静かな声で言った。
それなら、とジルが話を進める。
「一応、こっちの状況を説明させてくれ。近いうちに大図書館では〈原庫〉――普通は開架になってない場所まで潜って、大規模な調査をする予定がある。今は館長と副館長が不在だから、そのときの危機管理の担当をユニスがする手筈になってる」
こくり、とユニスが頷いて、
「僕としても、リリリアの問題なら駆け付けたいのは山々なんだけどね。今回の〈原庫〉調査は〈天土自在〉で発見された情報に基づく滅王案件へのアプローチも兼ねているし、どうしても外せない」
「いや、こちらこそ急なお願いで申し訳ない」
「そういうわけだから、俺とユニスの二人が同時に行くのは無理だ。そちらのニカナさ――、ニカナがこっちに残ってくれるなら、入れ替わりで俺だけが行く」
もちろんそれで構わない、とアーリネイトは言う。かたじけない、と頭も下げる。それからニカナの背を叩いて、これもこれで大した奴です、と語る。
それからジルは、こちらを見た。
「クラハは、」
ぎくり、としなかったと言えば嘘になる。
話を聞いているとき、おそらくそういう流れになるだろうなと思っていたから。しかし、だからこそある程度の覚悟はできていたつもりだった。南方樹海を出て行き先を決めるとき、フラットに検討したつもりでいたから。
正直なところ、大聖堂のある街には行きたくない。
けれどそれが必要なことなら、首を横に振ることはないと、
「こっちに残ってもらっていいか?」
「え」
思っていたのに。
拍子抜けするような提案が出てくる。顔から読み取られたのか。表情を取り繕おうとする。しかしジルはそれをどう思ったのか、続けて、
「剣術の修練方法は、前からこういうときのために作っておいた自主練用のメニューがあるから、それでしばらく対応してくれるか」
「いえ、それはいいんですが……」
大丈夫なんですか、と訊ねる。
ああ、とジルは頷いて、
「ちょっと、頼みたいことがあるんだ。……悪いな、いつも頼ってばっかりで」
†
大図書館には食堂兼喫茶室がある。
ちょうどそこに、彼女がいた。
「ニカナさん」
「ありゃ」
一人で考えごとでもしていたらしい。ニカナは声を掛けられると、慌てて立ち上がる。座ったままで、とクラハが言う間もない。ぱしゃ、とその手にコーヒーがかかる。
「あち、」
「わ、大丈夫ですか」
「あ、全然。全然平気です」
あはは、と苦笑しながら、彼女は懐からハンカチを取り出す。さ、とその布地にコーヒーの色が染みる。
「ほら、全然」
そのハンカチを取って見せた手には、火傷の様子はなかった。
「すみません、驚かせてしまって」
「いやいや。ぼーっとしてた私が悪いですから! ほんっとお気になさらず! それより、クラハさんも休憩ですか!」
コーヒーですか紅茶ですか、とハンカチをしまい込んで、彼女は動き出す。元気の良い人だな、とクラハは笑う。ああでも、とその気遣いに先んじて、クラハは茶葉やコーヒー粉の置かれたカウンターへ寄っていく。自分でやりますから。そう言っててきぱきと紅茶を用意してしまう。
ジルから言われたことだった。
「――一応、ユニスの周りのこととか、気にしておいてもらえないか」
それは南方樹海で事件が起こったあの日、〈天土自在〉へと向かうリリリアに研究所から連れ出されたときと、似た言い分だった。
「大図書館はユニスのホームだから大丈夫だとは思うんだが、念には念を入れておきたい。これだけ大きな事件に連続して遭遇してることを考えると、偶然とは思えないし、何よりロイレンはユニスを直接狙ってた。本人も不安はあるだろうし、できる限り、疑う余地のない人間に傍についておいてもらえるとありがたい。……その間剣の稽古は見られなくなるし、旅の約束とはちょっと外れた、本当にただの頼みごとになるんだけど」
頼めるか、と訊かれた。
もちろんです、とクラハは答えた。
単に普段お世話になっているからそのお礼に、という以上の気持ちもあった。クラハは自分で思う。確かに東の国と南の国で遭遇した事件は、ジルと共にいたからこそ向き合うことになったものかもしれない。けれど、その始まり。Sランクパーティ〈次の頂点〉の一員として直面したあの始まりの事件は、間違いなく自分に、何らかの因縁を与えている。それだけではない。滅王が起こす事件の規模を考えれば、たとえ冒険者でなくたって、何かしらの拍子に巻き込まれることはありうるのだ。
自分も無関係ではない。そう思うから、進んで役を引き受けた。
しかしあるいは、と、
「――もしかして私、ユニスさんに嫌がられていますか?」
思ったとき、不意にニカナが言った。
え、と驚く。思考を引き戻される。そのとき顔に出ていたのかもしれない。やっぱり、と落ち込んだような顔を彼女がする。
「いや、」
どうにか誤魔化そう、と思って、
「……ちょっと、人見知りなところがあるんです」
「あ、そうなんですか?」
誤魔化されてくれたのかもしれない。ええ、と頷いて念押しをしておく。ユニスさんすみません、と心の中で思いつつ、
「元々そういう気質のある人なので、あまり気にしないでください」
そうなんですか、ともう一度ニカナは言った。考え込むようにして彼女は、
「じゃあ、もしかして……あんまり声が大きいのも好きではないですか?」
答えにくい質問を重ねてくる。
何だかんだと言って、クラハの方でも彼との付き合いはまだ一夏だ。断言はできない。というか何ならユニスだって、調子が上がってくると声が大きくなる。でも、思い浮かべてみると彼の周りで声の大きそうな人は、デューイくらいしかいない。
「どう……でしょう」
苦手なのかも、と思いながら、そう言葉を濁した。
それでニカナには十分だったらしい。
「そうなんだ。じゃあ、普通でいこうかな」
言葉とともに、肩の力がすとんと抜けるのをクラハは見た。
急に、素になったように見えた。そしてその『素の姿』は、初対面のときから続いていた印象とは少し離れて見える。
あはは、と彼女は笑って、
「いや、アーリネイト隊長って結構『うおお、行くぞー!』って感じの熱血で。あたしも見習ってそうしてたんだけど、別に元はそんな……あ、これじゃ砕けすぎ?」
いや、とクラハは言う。お互い同年代くらいだ。別に、このくらいの距離感でも不思議はない。そっか、とニカナは言って、
「近いうちに〈原庫〉調査?っていう危ないやつをやるんでしょ? だったら、できるだけ信頼関係は築けておいた方がいいよね」
というわけで、と右手を差し出した。
「改めてよろしく、クラハ」
その手を握られずにいられる方法を、今のところクラハは、まだ知らない。