2-1 いるのかな
「うぅ……」
本から顔を上げたきっかけは、そのうめき声だった。
図書館の奥の方から聞こえてくる。クラハはまたも収穫のなかった本を棚に戻して、その声のする方に進んでいく。
知っている声で、もちろん知っている顔だった。
「ユニスさん」
話しかけると、ぱっとその顔が猫のように驚く。こっちを見る。がたっ、と椅子を引いて、
「ね~~。僕もう疲れたよ~~。話したことない人ばっかりだし~~」
ユニスが、へにょへにょとこっちに向かってきた。
あはは、と苦笑いでクラハはそれを受け止める。実際、疲れていそうではあった。初対面の頃はあんなに自信満々に見えたユニスの顔が、今ではすっかりぺそぺそになっていたから。
あのとき宿屋でユニスが誘拐されていった先は、女将の言う通り大図書館だった。
ジルと共に向かっていった先で、見つけたときにはもうすでにユニスはこうなっていた。つまり、大図書館を根城にする魔法連盟の構成員たちに拘束され、机に向き合わされ、仕事を強要されている。
机の上には、書きかけの論文がある。
タイトルは、『時戻しの秘法について』。
後はまだ、真っ白だった。
「苦戦してますね」
「まあ……ちょっと色々、思うところがあってね」
みんながこれを期待する気持ちもわかるんだけど、とユニスは髪の先を指に巻きつけると、それからふっと真面目な顔になって、
「ところで、そっちはどうだい? 何か手掛かりは見つかった?」
首を横に振って答える。だよね、とさしてがっかりするでもなく、ユニスは頷いた。
「史料が残っていないから先史文明って呼ばれるわけだし。他の図書館員たちもだいぶ働いてくれてるみたいだから、僕たち素人じゃそんなに簡単に見つかるわけもないよね」
「ウィラエさんがいたら、もっと調査しやすかったんでしょうか」
「かもね。でも、先生は先生で〈天土自在〉にいてくれないと困るだろうし。何でもできる人って配置が難しいんだろうね。何となく僕が結構連盟から便利に使われたり、急に放置されたりする理由もわかってきたよ」
クラハさんも、と彼は言う。
「もしあれだったら、あんまり調べものばっかりに没頭してなくても大丈夫だよ。ジルもそうだけど、今のところそんなに急な進展が見込める状態でもないし。やっぱり基礎調査が終了した後の〈原庫〉調査が本命になると思うから」
ですか、とクラハはその言葉を受け取る。
受け取って、ふと声を潜めた。
「あの、」
周りを見る。
ジルの姿はない。だからそのまま、
「ちょっとだけ、相談させてもらいたいことがあって。いいですか?」
「えっ」
ユニスはびっくりした顔をする。彼もまた周囲を見る――クラハがしたよりも、随分と大袈裟な動作で。誰もいないことを確かめると、クラハの手を取って本棚の間、特に人目に付きづらそうなところまで連れ込んで、
「何? なになになに?」
内緒話をされるのが楽しくてしょうがない、という喜色満面の顔で問い掛けてきた。
そこまで食い付かれて、話しやすいやら話しにくいやら。もう一段声を落として、クラハは言った。
「ジルさんの呪いの話なんですが」
きょとん、とする。
それから、ああ、と真面目な顔になる。
「何かあったの?」
「そういうわけでは。ただ……」
最近、クラハはたまに思う。自分といるときはそうでもないけれど、たまに彼が一人でいる姿を目撃したとき、何だか妙に、
「考え込んでいるというか。その、ジルさんって結構、抱え込むというか、話してくれないところがあるじゃないですか」
「そうなの?」
「ないですか?」
一応、クラハはユニスに伝えてみる。呪いの話を知ったのも、実は旅を始めてしばらく経ってからのことで。
そうなんだ、と彼は言って、それから首を傾げる。
「どうだろう。僕とリリリアは、最初に見たときに何となくわかっちゃったんだよね。目のあたり、すごく変な感じがするから。あんまりずけずけ訊くのもと思ってしばらく黙ってたら、気配で気付かれたのかな。ジルの方から話に出してくれたし」
ですか、とクラハもそう言われれば頷くほかない。考えすぎなら、それはそれで構わないのだけど、
「ユニスさんは、その……」
どう思ってるんですか、と改めて訊ねてみることにした。
ジルが、解けなければ死んでしまうような呪いにかかっていることについて。
「正直、あんまり実感はないね」
とユニスは答えた。
「最初に気付いたときは、まあ……これだけ強いんだから、何かの理由はあるよなあって納得したかな。仲良くなってから心配になったりはしたけど、でもやっぱりさ。かけられてるのがジルだから。外典魔獣の中位種を相手に、一対一で勝つわけだし。本人も大丈夫だって言うし、解呪の条件が『戦って勝つ』ならそんなに気にしても仕方ないと思ってたんだけど……」
でも、と。
彼はそこで言葉を切って、
「でも?」
「……どうしよう。喋ってるうちに急に不安になってきた。え、あれって強がりなの?」
僕、そういうのぜんぜんわかんないんだけど。
と言われてもクラハも別に、ジルのことがちゃんとわかっているわけではない――正確に言うなら、『ちゃんとわかっているわけではない』ということが、最近どんどんわかってきた。
見た目には、ときどき突飛な行動こそあるものの、とても丁寧で裏表のない人に見える。
けれど徐々に。徐々に交流を重ねていくうちに、「この人は見た目通りの人ではないんじゃないだろうか」という疑念も芽生え始めている。
それに何せ、ついこの間のあの〈天土自在〉での一件を踏まえてみれば。
隣にいる人が何を考えているのかなんてことは、本当のところ――
「……わかりません」
というわけで、素直にその気持ちを口にした。
わかんないかあ、とユニスもまた、その言葉を素直に受け取ってくれる。それからしかし、流石は大魔導師と言うべきだろうか。彼は具体的な話もしてくれた。
「一応、ちまちま呪いの話は読んではみてたんだ。ただ、やっぱり史料の残るような時代からは本格的な研究はされてなくてね。ふんわりした概説が一行二行あるようなものがほとんどで。このあたりの安全な区域にある総則的なものは結構僕が調べちゃったから……」
「各論がいいでしょうか」
そうだね、と彼は頷いてくれた。
「ジルの出身地の個別的な話とか。……でも、実は結構、今話してても疑問なんだよね」
そして言う。
「ジルが『戦って勝つ』のに、そんなに心配するような相手がいるのかな。それこそ、外典魔獣の上位種以外に」
†
人の上達は早く見えるものなのか、それとも純粋にクラハの物覚えが良いのか。
どちらなのかはわからないが、夕暮れ時、彼女を外に連れ出して剣の稽古をして、ジルはこういうことを思っている。
「そろそろ俺、要らなくなるかもな」
クラハはびっくりした顔をした。
一方、こっちとしてはちょっと感慨深いような気持ちもある。
「いや、技術的にはまだまだ……って言うと、すまん。あんまり良い気持ちはしないかもしれないけど、俺もそうだし、多分『達した』人なんていないから」
「い、いえ。それは全然。事実なので」
「ただ、クラハはもう自分で何をどう修正すればいいのか、考える力がついてるよな」
たとえば、さっきの実戦形式の稽古がそうだった。
魔法と魔合金を上手く使っていた。もう彼女は、最初の頃のように自分に真正面から向かってくることをしない。出力や速度で真正面から勝負しても、結果に繋がらないとわかっているからだ。砂煙を上げたり、死角から魔合金で足を取ったり、色々なやり方でこっちの戦力を削いでから勝負に出ようとする。それが上手くいかなければ、たとえばその砂の奥にさらに魔法を隠したり、魔合金の形を変えてより強く足を引いたり、あるいは体捌きも混ぜてさらに状況を複雑にしようとする。これが稽古に適した空き地ではなく、市街や迷宮の中だったら、さらにたくさんの選択肢を彼女は見つけることができるだろう。
以前だったら口にしていたアドバイスの九割を、その後の様子を見て呑み込むようになった。
東の国で、チカノが見立ててくれたことを思い出す。元々サポーターとはいえ、Sランクパーティに所属できる程度には基礎の下地があるのだから、自分が四年かかった程度の技術なら、一年もあれば教え切れるのではないか、と。
もしかすると、それより短く済むかもしれない。
「後は……強いて言うなら、俺のことを意識しすぎてるかもな。それだとどうしても、身体的に優位に立たれてる相手を想定して動く癖が付くと思う。相手の力を侮らずに動くのは全体として見れば良いことも多いけど、格下相手に必要な出力を見極めきれないと、連戦のときは体力も消耗する。もちろんクラハが格上狩りをメインに据えていきたいっていうならこの形でも問題ないとは思うけど、たとえば冒険者なら、できるだけ消耗の少ないルートを選んでいくっていうのもあるんじゃないか」
「……そうですね。確かに、そう思います」
あまり煮え切らない返事が来る。
最近、クラハとは結構仲良くなれたと思う。だからジルにはわかる。剣の稽古のときに彼女がこういう態度になるのは、大体がこういう流れのときだ。
「まあでも、難しいよな。いきなり自分が『これからどういう方向で行くか』を決めるって言っても」
クラハにはどうも、パッと口に出せる具体的な目標がないらしかった。
本当にないのか、それとも自分には話したくないだけなのかはわからない。しかしそれは、自分が責められることでもなかった。苦笑しながら、ジルは言う。
「俺も、呪いを解いた後にどうするとか、正直あんまり決まってないしな」
「――ジルさんは、」
急に真面目な声色になったから、たじろいだ。
それでも、あまりその気持ちを表に出さないようにしながら「ん」と訊き返す。クラハは、何か迷いがあるのだろうか。しばらく次の言葉を喉のあたりに遊ばせて、
「……ジルさんの呪いを解くために向かう場所って、どんなところなんでしょうか」
案内をするのに知っておきたくて、と言った。
これは本来言いたかったことなんだろうか。わからないけれど、表情を見るに、全くただの話題逸らしというわけでもないように見えた。
そうだなあ、と思い返して、
「地理的なことは、あんまり俺の言うことだから頼りにしないでほしいんだけど」
「はい」
「…………」
半年も一緒にいれば、お互いの距離感というものが掴めてくる。
クラハが自分との間で見つけた、この手の話題における距離はここらしい。若干の、本当に若干の切なさを胸の奥に押し込めながら、ジルは続ける。
「まあ、何もないところだったな」
自分が生まれ育ったところを客観的に語るのは難しい。
けれど、それなりに旅をしてきただけあって、人が聞いてわかりやすいだろう特徴を挙げるくらいのことはできた。
「いつも雪が降ってた気がするよ。そうじゃなければ、曇り空。夏みたいな季節もあったと思うんだけど、何て言えばいいんだろうな。そっちは本題じゃないっていうか、雨季の晴れ間みたいなイメージで。子どもの数も少なかったし、俺はあんまりだけど、多分あそこに住んでた人は、みんなお互いの顔を覚えてたんじゃないかな」
「北の国の、端の方なんですよね」
「……と、思われる」
今度はこっちが煮え切らなくなったのは、別に自分で確かめたわけではないからだ。地図も持たずに故郷を出て、ヴァルドフリードに出会ってから、彼に「それならここだろ」と示してもらった。そういうことを伝えると、ああ、と別に不思議そうでもなくクラハは頷く。切なさを感じながら、ジルはそのときヴァルドフリードに伝えたのと似たようなことを口にする。
「海の向こうに、年中溶けない雪山があるんだ。標高がものすごく高いからなのかな。夏は間に海があるし、向こうの岸もものすごく高いから辿り着けないんだけど、冬になるとその海が凍って、そっちに渡れるようになる。一番記憶に残ってるのは、その風景だな」
「それって、北の……」
そうしてクラハが口にしたのは、ヴァルドフリードが挙げてくれた名前と同じものだった。ジルは内心、ちょっとほっとする。いざ戻ってみて全く違う場所だったらどうしようという不安もないではなかったのだ。二人から保証してもらえれば、安心だろう。
「って感じの場所だ。参考になったらいいんだけど」
「はい。ありがとうございます」
と話を締めつつも、クラハの表情には「まだ言いたいことがある」と書いてある。半年もいれば、相手の気持ちの表層くらいは読めるようになってくる。
でもまさか、隅々までわかったりはしない。
だからジルは、選択を迫られることになる。「他に何か訊きたいことは」とそれとなく促してみるとか。あるいは知らないふりで「そろそろユニスも誘って食事にするか」と流してしまうとか。判断基準に使われるのは、自分と彼女との距離感や位置関係だ。些細な一言が、無理に訊き出すことになってしまわないか。そもそもそれは、自分に話していいことなのか。クラハもクラハで、どうするか決めかねているのではないか――
「あのう」
とそのとき、声を掛けられた。
別に気付いていなかったわけじゃない。今、二人でいるのは大図書館併設の実験区画だ。あまり厳密ではない魔法の操作感の確認や、ある程度発火物を避けた広い空間が必要になるときに使われる場所らしい。自分たち以外にも幾人かの魔導師たちはいて、だからそうして声を掛けてくるまではただ、気に留めていなかっただけだ。
小柄で、それほど自分たちと年が変わるとも見えない魔導師だった。はい、とジルは返事をする。どうもどうも、と彼女は頭を下げて、
「ジルさんですよね。あの、〈星の大魔導師〉のお連れの」
ええ、と頷く。
「それじゃあやっぱり、〈島守りの聖女〉様とも面識が」
まあ、と頷く。
何を訊かれているのだろう。不思議に思っていると、彼女は腕の中に抱えた書物の一番上で、これ見よがしに紙を揺らす。
それは、新聞だった。
「あ、じゃあ。もしかしたらまだご存じないかと思って」
よければ読んでください、と言われる。
何の心当たりもない。言われるがまま、それを手に取って読んでみる。
聖女解任、の文字がある。