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1-1 この世界ができるまで




「滅王、あなたの好きにはさせない!」


 ラスティエ様は、天に剣を掲げました。


 大きな大きな滅王は、空から地面を押し潰さんばかりです。

 たくさんの人が、怯えて泣いていました。


「ラスティエよ。なぜお前は、そんな臆病な者たちのために戦うのだ」


 低い声で、滅王は訊ねました。


「人間はみな愚かだ。そんな者たちのためにお前が戦う理由など、一体どこにある」


 滅王が一言喋るたびに、ますます災いはひどくなっていきました。

 空には嵐が、大地には大雨が降り注ぎ、雷はひっきりなしにゴロゴロとうなりを上げて、太陽も月も、闇に包まれようとしています。


「戦う理由ならある!」


 その闇を、ラスティエ様の剣が照らしました。

 それは強くてすごい、絶対折れない魔法の剣です。


 ラスティエ様は、大きな声で叫びました。


「なぜなら、人は――





「絵本ですか?」


 随分、その本の世界の中に没頭していたらしい。

 不意に訪れた彼女からの呼びかけの声に、ふっとジルは、自分がどこにいるのかを思い出したような気がした。


 南の国の周縁部。

 夏の息吹は、馬車が北西へと進むうちに振り切ってしまった。


 しんと静かな涼しさが満ちた部屋。古い紙の匂いと、それから利用者たちが纏ってきたのだろうか、微かにコーヒーと落ち葉の香りが漂う。湿度は低く、その手に持った本もまたひんやりとして、少し冷たい。


 何度も読まれてきたのだろう、角の丸くなったその本にはこんなタイトルが書かれている。



『この世界ができるまで ラスティエ様と滅王』



 ぱたり、とジルは本を閉じた。


「ああ。そもそもラスティエ教のことをあんまり知らなかったから。概略だけでも知っておこうかなと思って」


 それから、いかにも子ども向けな表紙を改めて見て、


「……もしかして、大幅に改変されてたりするか」

「脚色はありますけど、大筋は他の本とそんなに変わらないくらいだと思いますよ」


 私も子どもの頃に読みました、と教えてくれるのはクラハだった。

 彼女は両腕にいっぱいの本を抱えていた。厚いものもあれば、薄すぎてほとんど背表紙すらわからないものもある。長机の上にそれをそっと置くと、椅子を引くこともなく、


「もしよければそのシリーズ、他にも持ってきましょうか」

「他にもあるのか? これ」

「それ、『ラスティエ教から紐解く世界史』という本がもとになっているんです。今回は滅王関係のところだけを持ってきたんですが――あ。それとも、もとになっている本の方を持ってきましょうか」


 少し考えて、いや、とジルは首を振った。

 いつまでも立ちっぱなしじゃと思ったから、クラハの椅子を代わりに引く。彼女が座る。


 いいよ、とジルは言う。


「そこまで本気で役立つと思ってたわけじゃないんだ。全然進展がないから、何もしないよりはマシかと思っただけで」


 ああ、とクラハも素直に頷いてくれた。

 彼女は、たった今自分が書棚から持ってきた本の山を見て、


「……正直な所感を言ってもいいですか」

「どうぞ」

「普通に見られるような範囲だと、手掛かりが見つかる気はしないですね」


 言って、彼女は振り向いた。

 釣られてジルも、同じように振り向く。広がるのは書棚。どこまでも続いていく絨毯。何百年かけても読み切れないだろう、膨大な量の本。


 魔法連盟所轄、大図書館。

 南の国の国境際。西の国と中央の国にほど近い場所で、二人はぼんやりと、その広大さを思う。


 それから、その館の奥に隠された〈原庫〉。

 ここにいる二人だけでは入ることのできない場所のことも、一緒に。


「働きづめのユニスには悪いけど、」


 ぽん、とジルは絵本を机の上に置く。それからクラハがたった今持ってきた本のうち、いかにも分厚くて目次に目を通すだけでも苦労しそうなのをわざわざ取って、


「これを調べ終わったら、しばらく剣の稽古の方に力を入れてみるか。クラハも、かなり仕上がってきたし」

「……いいですか?」


 遠慮がちな声とは裏腹に、クラハはジルの方に身を乗り出す。距離が近付けば、その瞳が輝いているのだって見える。


 その、これまでの遠慮が抜けてきた様子を見ると、ジルは不思議と嬉しくなる。春に出会って、もう秋が来た。その半年の時間のことを思う。


 もちろんと頷いて、二人はまずは目先のことから。

 ぺらりとその本の一ページ目を捲る。


 話し声が消えて、再び静かになった大図書館の中。眼鏡の奥、目で文字を追いかけながらジルは一つ、心の中にぼんやりとした考えごとを思い浮かべている。


 どうして今、こうしているんだったっけ。





「て、天才だ……そういう人って本当にいるんだ!」

「すごすぎないか? それ」

「いえ、それほどでも……」


 南方樹海から大図書館へと行く道の途中。

 馬車の中では、空前のペン回しブームが到来していた。


 南方樹海での夏を終えて、滅王に関する調査を行うため、一行は大図書館へとひとまずの行先を定めた。同じ南の国の中にあると言っても、南の端と北西の端だ。それなりの距離があり、道中は長い。


 馬車の乗り継ぎを待つ時間は、街に降りてぶらついたりもした。

 宿場町に到着すれば、剣の稽古をしたり、あるいは魔法の修練を行うこともあった。


 しかし何といっても多くの時間を過ごすのは、馬車の中。


 何の気なしのことだった。


 この三人で揃うと、ユニスがよく喋る。夏の前であれば徐々にクラハを気にして押し黙り始めた可能性もあっただろうが、今はもう、ある程度は打ち解けているから。魔法のことをぺらぺらと語るのはもちろんのこと、どうでもいい、取り留めのない話も延々とする。クラハもジルも律儀に相槌を打つタイプだから、これが全く止まらない。放っておけば一日に十時間も二十時間も喋る。


 その喋りが止まったのは、クラハが手に持つペンを見たときのことだった。


 魔法の話をしていたはずだ。彼女が人の喋っている最中にペンを持つということは、つまりノートにメモしておくに値する何かがあったはずだから。具体的に何を話していたのかは、もう実際にメモを取ったクラハ以外は誰も覚えていないが、少なくとも宿屋で出てきて嬉しい朝食ランキングを決めるタイミングではなかったはずだ。


 さらさらと、クラハがノートに文字を書きつける。

 なるほど、とその文字を見ながら彼女が頷く。


 くるっ、とその指の上でペンが回った。


「あ、」

「え?」


 それ、とユニスが指を指差す。クラハが指差された指を見る。


 ちょっと不思議そうにした後、ああ、と頷いて、


「すみません、無意識に。うるさかったですか」

「いや、全然いいんだけど。ね、それどうやるの?」


 実はできないんだよね、とユニスは言った。


 もうこの馬車に乗っている間についてしまった癖なのだろう。本当にどうでもいい話がその後に続いてくる。周りにも結構やってる人がいてさ、僕のお父さんとかもよくやってたんだけど、そういえば教わったことないなと思って。大図書館でも魔導師がやるのを見かけるんだけどほら僕って奥ゆかしいから何とかかんとかほんとかぱんとか。


「こうやってやるとさ……ほら、」

「俺の頭を目がけてすっ飛んできたんだが」

「このとおり」

「攻撃か?」


 じっ、とクラハは自分の手を見つめた。それから実際に、その指先でペンを回してみる。戻してみる。一回、二回と繰り返して、


「こう、まずはペンを親指と中指で――」

「待って。今、ありえないことが起こらなかった?」


 解説しようとして、止められる。


「ペンが逆方向に回ったように見えたんだけど」

「あ、はい。こっちは人差し指で」

「うわあ見間違いじゃなかった!」


 どうなってるのそれ、とユニスが食い入るように見てくる。何度もゆっくり、クラハは彼にその動きを見せてやる。


「えぇ……? 指の力がどういう働きをしてるのか全然わからないな。ペンの動きがこうだから……」

「俺は大体わかったぞ」

「大きく出たね。じゃあジルもやってみなよ」

「やらない。理論は完璧なんだが、実践で失敗したら被害が甚大になるからな」

「これそんな膨大な力を伴うものなの?」


 いえ、とクラハは苦笑する。

 嘘つき、とユニスはジルの脇腹を肘で小突く。ジルは大してそれを気にもしないで、改めてクラハの指先をまじまじと見ると、


「でも、やっぱりクラハってそういうの上手いよな。そういう手遊びって、床にボロボロ落としたりしないか?」

「昔からやっているので、慣れてるのかもしれません。本を読んでるときなんかに、手が暇になってしまうので、つい」


 手が暇って感覚が全然わからない、とユニスが言う。

 集中力に欠けているのかもしれませんね、とクラハが返せば、いやいやそんなことはとユニスが言って、ジルは、


「俺もあんまり器用な方じゃないから、その感覚はわからないけど、」

「『あんまり』?」

「あんまりな。だけど、指とか手の感覚が細かいっていうのはクラハの一つの長所だろうな。生まれつきっていうか、そういう積み重ねが滲んでるのかもしれない」

「出た」

「何が」

「ジルの褒め言葉に細かい観察がくっついてくるやつ」


 ありがとうございます、と微笑んでクラハは、ジルの言葉を受け入れる。それから、積み重ねというならきっと、ジルの観察眼や細かい理屈付けもまた、こういう日々のやり取りの積み重ねの結果としてあるのだろうなと思って、


「あ、」

 そうだ、と思い付いた。


 けれどそれを実行に移すよりも、ユニスがさらに訊ねてくる。


「ね、それって何か、他にもっと技はないのかい。技」

「技……」


 そうですね、とクラハは考える。話の流れからして、きっと派手なものを期待されているのだろう。単なる手遊びだから、そんなに大したものができるわけではないけれど、


「じゃあ、こんなのは」

 指の間で移動させたり、よくペン先が動くのはどうだろうと、まずは人差し指と中指でペンの先を挟んでから、始めてみる。


 そこからはもう、大騒ぎだった。


 やりたいやりたい、僕もそれやりたいとユニスがはしゃぎだす。そんなことできたのか、とジルが呆気に取られる。クラハは気恥ずかしいやら珍しく得意気やらで、次から次へと『技』を繰り出す。


 拍手喝采のうちに、日々と道のりは過ぎる。

 やがて馬車は大図書館最寄り、〈文化街〉にその車輪を止めた。



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