0-0 嫌です!
大きな嵐が来ると聞かされたとき、その島に住む一人の少女は、まずこう思った。
それって、あたしたちの力で何とかなるようなことなの?
それからの島は大忙しだった。お婆ちゃんやらお爺ちゃんやらが、何十年も前に来たという大嵐の話を持ち出して、急に張り切って動き始める。と言っても普段は日がな一日釣り糸を垂らしているばかりの人だって多いから、実際に手を動かすのは主に若者だ。無駄に体力があると普段から評されているのが災いし、少女は人一倍働かされることになる。
作物が吹き飛ばされてしまうかもしれないからと、まだ不十分な熟れ方のそれらを、次から次へと収穫した。
その次はそれを倉庫に運び込む作業だ。運んだだけでも終わらない。風で飛ばされないようにと、板をいくつも持ってきて、トンテントンカン金鎚で叩いて補強する。外に置いてあるものも、固定できそうなものは固定して、できなさそうなものは中に運び込む。それが一段落したら、今度は家に帰って同じ作業。窓から何から、割れてしまわないように目張りをしていく。
それでも仕事は終わらない。最後に少女は、用水路の整備に駆り出されることになる。何でもおばあちゃんが言うには、水路が上手く流れないと、降った雨が海まで流れ込むのに手間取るようになって、どんどん島が水没していってしまうらしい。
理屈はわかるが、こんな土壇場でこんな重労働をやらされても。
シャベルを手に、泥をかく。
腰も肩も、酷使に酷使する。この後は家に籠るだけとはいえ、もう全身がパンパンだ。髪の生え際からそれこそもう雨が降り出したみたいにだらだらと汗が流れてきて、だから少女は夏服の半袖でそれを拭おうとする。自然、顔が上を向く。
曇天が立ち込める。
生温い風の吹く灰色の下で、急にふっと、全ての音が消えたような気がする。
嵐が来ると、誰に言われずともわかった。
そうして少女は、築き上げた家の中に籠ってその時を待つ。姉と弟を含めた七人家族に加えて、数人の知り合いも一緒だ。しばらく船の行き来も途絶えてしまうだろうし、嵐が過ぎ去るまでは家から出るのだって危ないからと、食料はたっぷりだ。代わる代わるにキッチンに立って、時間は緩やかに流れていく。
隙間のない家は、少し息苦しかった。
それでも少女の心には、ある一つの、このくたくたの身体を引きずるようになる前にはまるで持ち合わせていなかった気持ちが浮かんでいる。
これだけ苦労したのだから。
ここにいれば安全だと、そう信じた。
そんなのは、全くの間違いだったと知らされる。
風は、島の木々を根こそぎ引っぺがす勢いだった。
雨は、島の全てを飲み込んで、海の底へと沈めたがっているようだった。
家が丸ごと軋んでいる。風に吹かれて坂道を転がる小石のように、どこかに弾き飛ばされてしまいそうになる。ばきっ、と何かが砕けるような音が聞こえてくる。弟はさっきから口も利かないし、姉はずっと恋人の心配をしている。
少女は、大人たちが何かをしようと慌てた様子で相談するのを聞いていた。
何もできっこない、と思いながら。
どんな話し合いも無意味としか思えなかった。世の中には、自分の力ではどうにもできないことがたくさんある。たとえば、潮が満ち引きすること。浜辺に書いた文字が、次の朝には消えてしまっていること。その朝が来ること。星が回って、日が昇って、日が落ちて、月日が経って、幾度も幾度も季節が過ぎ去っていくこと。
これも同じだと思った。
嵐の季節が来て――後はただ、この小さな箱に閉じこもって、転がる石のように身を固めて明日を待つだけなのだと。荒々しい風雨の中に晒されて、そう思っていた。
そのとき、窓の外にふっと一つの影が現れる。
他の誰もまだ気が付いていない。目の前のことに精一杯で、そのせいで目の前のものすらはっきりと見えなくなっている。少女だけがそれに気付く。目を凝らす。
嵐の中に、一人の人が立っていた。
奇妙だったのは、その恰好だった。傘を持っていないのは、何も不思議なことじゃない。この風ではきっと、すぐに折れて使い物にならなくなってしまうから。
けれど、そんな風の中にあるのに、まるで服の裾がはためかない。
雨に濡れてすらいなかった。
自分より年は上だろう。しかしその人は、まだ少女だった。木石にすら耐えがたい嵐を前に、まるで怯むこともない。背筋はピンと通って、冠水した道の重さを感じさせない足取りで、時折、何かの目印を探すかのように空を見上げる。
ぴた、と彼女が足を止める。
振り向く。
目が合った。
きらめくような瞳だった。咄嗟のことに、少女は何の反応もできない。息が止まる。足が止まる。何が起こるかを、見届けることになる。
彼女が、地に膝を突いた。
これだけの雨と洪水だ。それだけで、ほとんど彼女の体は水の中に沈んだように見える。乾いていたはずの衣服も髪も、瞬く間に濡れそぼる。いくら夏とはいえ、それがどれだけの冷たさをもたらすか。見ている者にだってわかることなのに、その当人はまるで意に介さない。
胸の前に、手を組む。
祈りの言葉を、口にする。
後はただ、〈島守りの聖女〉の名が記すとおりのことだ。
ほんの一瞬で晴れの日が訪れたわけではなかった。長い長い時間をかけて、彼女の作り出す『家』は完成していく。そして彼女自身もまた、当時はいまだ聖女ならざる身だ。『家』が全ての形を整えてなお、まだ雨は降り止まない。風は吹き止まない。肌が破れ、血が滲み、それすら嵐の望むまま、海へと消えていく。
それでも、一歩も動かない。
そうして島が守られる姿を、家族と、知り合いと、そして島に住む人々と共に、少女は見ていた。この世でもっとも美しい聖なる彫像のような姿を、まばたきすら忘れてじっと、雨影に濡らすようにしてずっと、見つめていた。
そして。
ある一つの思いを、心に浮かべた。
†
「――いいか、ニカナ」
時は流れて現在、彼女は教会本部で先輩からの訓示を賜っている。
手を後ろで組んで、胸を張る。目の前には大層立派な扉があり、それもそのはず。突然の呼び出しは、とてつもなく上の方からかかったものだったから。
だからこそ目の前の先輩もまた、緊張している。
聖騎士団第四分隊長なんて、これもまた大層な肩書きを持っているはずの彼女でも。
「おす!」
「元気があるのは良いが、君の口は相当軽い」
「おす! 自覚あります!」
「自覚があって結構。そして残念なことに、これから君が会う聖騎士団長はリリリア様と比べてずっと短気で怒りっぽい。私も駆け出しの頃は散々いびられたものだが――」
「――聞こえてるよ、アーリネイト! 声がでかいままなのは良いことだけど、小娘の騎士になって余計な気遣いも覚えたね!」
ピン、と第四分隊長の背筋が伸びて、
「気遣い不要! 時間は大事に使いな!」
扉の向こうから聞こえてきた、この場にいる誰よりも大きな声に肩をすぼめる。
ニカナと呼ばれた少女は、珍しげにアーリネイトのその姿を見ている。扉と彼女の間で、二度三度と視線を行き来させる。
アーリネイトが、深く溜息を吐いた。
「……準備はいいか?」
頷いて答えると、彼女は扉に手を掛けた。
「失礼します! 聖騎士団第四分隊長、アーリネイト! ご用命のとおり、第四分隊所属聖騎士・ニカナを伴い、聖女ダヴィサ様の下に参上いたしました!」
その部屋の奥には、大きな窓を背にして一人の人物が待っていた。
片目に眼帯を帯びた、長髪の老女である。聖職者の衣にこそ身を包んでいるものの、眼光鋭く、机の上に組んだその手にはいくつもの刀傷が白く残る。
彼女は、アーリネイトの挨拶を一つ頷いて受ける。
それから、じろりとその横。佇むニカナに視線を向けた。
「聖騎士団第四分隊所属、ニカナです!」
「元気があってよろしい。アタシは聖騎士団長にして四聖女が一人、ダヴィサ。若い者の時間を無暗に浪費する趣味はないから、単刀直入に行くよ」
はい、とニカナが頷く。
間髪入れず、ダヴィサが言った。
「ニカナ。あんたを次の聖女に推薦する。受けるか、受けないか。答えは?」
その言葉の意味を理解したのは、アーリネイトの方が早かった。
な、と彼女の口が何らかの言葉を生み出そうとする。が、ダヴィサの視線がそれを止める。アーリネイトは拳を握り、しかしそれ以上は言わない。反応を待つ。
待たれているのは、ニカナ。
真っ直ぐにぶつけられた言葉を、彼女は処理している。何もわかっていない顔が呆気に取られた顔に変わり、「は?」と口にしようとしたのを押し込めたのか、一度は口を噤む。
それからもう一度開くまでに、しかし大した時を待たない。
彼女はパッと花火が咲くように歯切れよく、勢いよく。
きっぱりと言った。
「嫌です!」