エピローグ-1 パンの形を取ってね
ジルは、じっとそれを見つめている。
机と目を、平行にするようにしてだ。
うむむ、とそれでもよくわからない。これ以上近付くと眼球に刺さる気がする。薄ぼんやりとした輪郭は何重にもなっていて、正確なところがつかめない。手で触って確かめるのが一番良い気がするが、こういうものをべたべた触るのも良くないように思える。
手には爪楊枝。
思い切ってぶっ刺してみようかと、思った直後のことだった。
「あれ、ジルくんだ」
知っている声がした。
びっくりしてジルは飛び上がる。爪楊枝を背中に隠してから、もっと隠さないといけないものがあったことに気付く。その間もその声の主は――リリリアは歩みを止めない。彼女は長い足を存分に生かして、食堂の入り口からキッチンカウンターの前まで、あっという間に辿り着いてしまう。
「私、安静にって言ったはずなんだけどな~。言うことを聞かない子はどんな目に遭わせて……何してるの? それ」
そして、あっさり発見された。
それは、朝のことだった。
樹海のほとりの研究所。以前よりは少しだけ広くなった食堂で、ジルはキッチンの奥に入り込んでいる。大きな窓からはか弱い朝日が差し込んで、その場所を淡い色に染めていた。
何でもない、とかそんなことをジルは言った。
が、リリリアは全然聞いてくれなかった。ほうほう、なんて口では言いながら、普通にキッチンの奥に入り込んでくる。
そこにはパンと、その間に挟まれたベーコンがある。
「何これ」
「いや……まあ」
「作ってたの?」
まあ、と頷く。へー、と興味深げにリリリアが言う。ジルの視界で、彼女が少し前屈みになったのが見える。そんなにまじまじ見ないでほしかった。多分、相当見た目は悪いだろうから。
「よくできるね、ジルくん。眼鏡なしで」
「パンは紙袋に入ってるから音でわかるし、ベーコンも保管箱を開ければ匂いでわかるだろ」
「そしてよく来られたね。この場所まで」
「いや、たまたま……」
特に恥じらって言い訳をしたわけでもなく、本当にたまたまだった。
あれから、一週間が経っている。
全身ズタボロになったジルは、全ての決着が付いてから目を覚ました。リリリアに傷を治してもらって、命じられたのは絶対安静。治癒の魔法はそれこそ時を戻して全てを治せるわけではなく、骨にも臓器にも神経系にもダメージは残るから。これからしばらくは朝も昼も夜も寝て過ごしなさい。
その気になれば、多分一週間くらいは寝ていられるとジルも思う。
が、流石にそろそろ身体を動かしたいと思い始めて、朝日を浴びて研究所の中をうろちょろし始めて、偶然この場所に辿り着いた。
朝食を作り始めたのは、腹が減っていたからというわけではなく、もっと別の理由からだったけれど。
「たまたまか。じゃあ、運命だね」
「俺の運命のスケール小さくないか」
「食事の準備って結構スケールが大きいんじゃないかな。生きていくために不可欠なもののひとつだし」
手伝うよ、とリリリアは言った。
どういう風の吹き回しなんだろうとジルは思ったけれど、自分も奇妙な風に吹き回されている状態だったので、深くは問わなかった。
他にも何か挟もうよ、と彼女は言う。とりあえずレタス。それからチーズも削れる。問題は卵で、これは前にユニスもいたときに挑戦して、三人揃って手も足も出なかったから元の場所に戻しておく。
レタスを千切るのと、チーズを削るのがジルの係になった。
リリリアはそれをパンの上に載せて、上から爪楊枝を刺して固定する係ということになる。
まだ朝の、日が昇って間もない時間。
レタスを千切ったり、千切り損ねたりする音だけがぺりぺりと静かに響く。空気も光も、温度も、何もかもがやわらかい。そんな時間。
「もう平気?」
リリリアが、いつもの声色で訊ねた。
「特に変なところはない。……と思うんだが。リリリアの目から見ると、やっぱりまだダメそうか」
「いや、全然大丈夫そうだから聞いてみただけ。なんで全然大丈夫そうなの?」
「治し方がよかったんじゃないか」
「こんなに簡単に治っちゃうなら、教会病院に入院用のベッドは要らないよ」
千切ったレタスを、ジルはリリリアに手渡す。任せなさい、と彼女は言う。手のあたりが動いて、二秒と待たないうちに「はい次」と言う。頼もしいことこの上ないが、特に分業する意味もない気がしてきた。
「でも、本当に不調らしい不調はないな。許してもらえるなら、そろそろ動きたい。あんまり休んでると、かえって身体が鈍って調子が悪くなる気がするし」
「だから朝から動きたさを持て余して、こうやってご飯の用意をしてくれてるわけだ。珍しく」
「ああ。珍しくな」
「ユニスくんのためじゃなくて?」
押し黙る。
何も言わなくても、見透かされている気がした。
「全然関係ない話、していい?」
「……関係ない話なら、どうぞ」
「『戦いたくないなら、戦わなくていい』って言ったんだって?」
関係ない話なら、という訴えは完全に無視されたらしかった。こうなるともう、頷いて答えるほかない。誰から聞いた、なんて問いただすまでもない。そのことを知っているのは、自分とユニスのどちらかだけだ。
「ユニスくんが言ってたよ。『あの怪我は僕のせいで……』って」
「別に、ユニスのせいじゃないけどな」
「私もそう思うから『ジルくんの趣味だから気にするな』って言っておいた」
「おい」
「でもジルくんって、そうやって何でも自分で飲み込んじゃうの?」
どういう温度の質問なんだろう。
探ろうとして、ジルの手は止まった。
けれど、リリリアはそれ以上は何も言わない。だから真剣に答えるべきなのか、それとも全く別の方向の答えを口にするべきなのかわからなくて、結局、
「リリリアも、そう言ってくれただろ」
そんな風に、ジルは答える。
それもそうか、なんてリリリアは軽く笑った。
しばらくの間、ふたりで朝食らしきものを作っていた。
その間、ジルはこんなことを思っている。あまりこういうのを作るのは慣れていない。慣れていないというか普通に不得意で、自分が普段ひとりでいるときにするのは食事や料理というより補給に近い。
でも、もしも。
これで少しでも元気になってくれるならと。自分が寝込んでいる間、ベッドの脇を行ったり来たりしていた彼が。リリリアに摘まみ出されたりしていた彼が。……落ち込んでいた、ユニスが。
少しでも元気になってくれればいいなと思って、チーズを削る。
ふと、思い浮かんだことがあった。
「リリリア、食べてみるか?」
「え?」
驚いたように彼女が言うから、やっぱり見透かされていたんだろうなとジルは思った。なんで私が、という声色。それなら意図を隠す意味もないだろうと思って、ジルは素直に伝えてしまう。
「なんか、ちょっと落ち込んでるように見えたから」
リリリアは、何も答えなかった。
どういう間の開き方なんだろう。ジルは少し不安になる。見えていないだけで、何か事態はおかしな方向に動いているのか。そうだとして、リリリアが何も話さなかったらこっちも何もわからない。
訊いてみようかと、口を開こうとした瞬間だった。
「――うわあ、ジルが起きてる!」
とても元気そうな声が、食堂に響いた。
ジルは声のした方を見る。声の主の動きは、やはり速い。あっという間にカウンターまでやって来ていて、ぴょんぴょんと跳ねるようにこっちに話しかけてくる。
「もう大丈夫なのかい!? というかふたりで何してるの!? え、朝ごはん作り!? 僕もやりたい!」
「お、おお」
全然、数日前と違う。
もう大丈夫なのか、とはジルは訊かなかった。けれど代わりに、さっきまで黙っていたリリリアが、
「ユニスくん、朝から元気だねえ」
そんな風に言えば、ユニスは、
「当然だろ? いつまでも落ち込んでいられないよ! 僕だってやることがいっぱいあるし――しくしく泣いていたって、身体に悪いことばかりだからね!」
どう聞いても、それはやせ我慢だった。
けれどジルの耳には、それは単なる虚勢ではないようにも聞こえた。無理に気持ちを押し込めて明るく振る舞っていること自体は多分そのとおりで、けれど、それだけではないように思える。
「今ね、ユニスくんのためにふたりで朝ごはんを作ってたんだよ」
「え! 嬉しい……けどそれ、僕は見てるだけじゃないとダメ?」
「どう思いますか。ジル料理長」
「僭越すぎる」
「僕が料理に手を出すのが?」
「うちの店は厳しいよ。経営が」
「料理下手ふたりしかいないからな。当然な」
別に、自分の朝ごはんを作るためにキッチンに入ってはいけないなんてルールはない。ユニスも招き入れる。こうしてジルは相変わらず食材をカットする係として、しかしリリリアは食材を載せる係専任に、そしてユニスは爪楊枝を刺して食材を固定する係専門のスタッフとして就職を果たす。
ここまで分業すれば、この三人組でもそれなりにテキパキと作業が進むらしい。
彼女が入ってきたのは、とりあえず一皿が出来上がってからのことである。
「――えっ。何かありましたっけ、今日」
クラハだ。
いやいや全然、と三人で言う。普段から朝食を担当してくれている彼女は、エプロンを片手に目を白黒させている。まあまあ座って、とリリリアが椅子を出して、はあ、とクラハが座る。早く早く、と急かすユニスに、ジルは出来上がった皿をカウンターに置いてやる。
レストランさながら、ユニスは非常に優雅な動作で、パンの載った皿をクラハの前に置く。クラハは困惑しながら、
「何の日なんですか、これ」
「日頃の感謝かな」
「そう、たまたま日頃の感謝がね。パンの形を取ってね」
「日頃の感謝らしいよ!」
はあ、とクラハは頷く。が、それほど嫌な気はしないらしい。ちょっと声色が嬉しそうだった、とジルはそれを聞く。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
いただきます、と彼女がそれを手に取る。口に運ぶ。
さくっ、と音がして、
「…………ふふ」
彼女は笑った。
パンを皿の上に置く。お行儀よく口の中のものをよく噛んで、飲み込んで、それから彼女は、これ、と言う。
「味、ついてないです」
夏の、終わりのことだった。