16-3 遠ざかるほど
何千何万の反復。
それが、この優れた魔導師にとってどれほどの効果を生み出すことか。
杖に助けられてのことだ。しかしそれでもロイレンは、事実としてその魔法を何度も使った。リソースとして確保できた魔力のことを思えば、それは考案者である〈星の大魔導師〉ですら到底及ばない試行回数だ。
だから、彼は信じた。
己の可能性を。時戻しの秘法を杖の助けなしに単独で実行できる力が、自分に備わっていることを。
身体が内側から弾けるような負荷だ。
杖を握っていた間ですら、ずっとそうだった。秘法を使うたび、身体も精神も悲鳴を上げる。もうロイレンは、どこに痛みがあるのかすらもわからない。背中から刺されたとしても何も気付くことはないだろう。刺された場所とそうでない場所の違いを、きっと自分は知覚できない。
空気を。
もっと空気を!
肺が上手く動かない。呼吸が利かない。もういい。頭が回らなくても構わない。流星を待つ間に、すでにその構築式は完成している。学園の実習と何も変わらない。想定した構成のとおりに枠を並べる。そこに無駄なく魔力を充填する。一番簡単なことだ。一番得意なことだ。
それは、ユニスですらも単独では発動したことがない技法。
秘法の効果を証明するための実験論文に記されていた、ひとつの秘法の使い方。
杖だけを指定して、時を戻す。
ロイレンの理解は、完璧だった。
彼の潤沢な理論知識と、卓越した実践能力。そして経験こそが、その秘法を練り上げた。彼はこれまでに積み上げた何もかもで以て、全ての旅人の道標を、時を告げる神秘の光を、真逆の方向へ導く。時計の歯車が激しい音を立てる。砕け散るような痛み、軋み。
ガコン、と噛み合う音がする。
それが彼の、生涯二度目の〈体験〉。
二度目の〈覚醒〉。
星が、東へ堕ちた。
「――――馬鹿な、」
そして彼は、その手の中に『砕け散った杖』を再び目にする。
彼は、ただそれだけで全てを理解した。理解できてしまった。秘法が発動してなお、そこにそれが存在する意味。
世界最高の魔導師が、目の前にいる意味を。
「時を、進めたのか」
†
ユニスは、どちらでもよかったのだ。
大切なことは、到底ロイレンが耐え切れないだろう大威力の攻撃をそこに放つことだけ。やりすぎだったとしても構わない。ロイレンなら、完全に己がその攻撃に対処不能だとわかれば、時を戻して事態を仕切り直しただろう。単なる回避にも意味がない。彼はその攻撃をやり過ごした後に長い時を遡るための準備の時間が必要で、これだけの威力の攻撃に何かしらの形で防御に回らなければ、その時間すらも残らないのだから。
遡るなら、単に仕切り直してもう一度初めから始まるだけ。
だからロイレンが流星に向き合っても、向き合わなくてもよかった。
そして向き合うなら、ただ杖を破壊できればよかった。後のことは、どちらに転んでも構わない。壊れたままで向き合うならば、ただ戦えばいい。しかしユニスは、薄々感じていた。ロイレンがこれまで生きてきた中で見たことのない、自分と同じだけの魔法の操作能力を持つ存在であると。
杖が失われても、時を戻して修復するだけの力があるのではないかと。
だから彼は、待ち構えていた。
見ていた。ロイレンが秘法を使うところを。考案者である自分すら超えた、魔法構築の洗練を。それによって初めて秘法が完成したとすら思えるほどの美しさを。
それは、星のように輝く道標だった。
だからユニスはそれを学び――もう一歩先へと、歩みを進めた。
できると、わかっていた。
同じ師の下で学んだ、兄弟子のすることなのだから。
震える唇を、ユニスは開く。
「これで終わりだ、ロイレン博士」
残酷な言葉を、口にする。
「時は戻らない。ここから先へ、進むだけだ」
それは、秘法と呼ぶには値しない。
ただ、過去を取り戻そうとする力を反対側から押すだけの――当たり前の現象を引き起こすだけの、とても些細な魔法だ。
†
どの曲がり道を間違ったのだろう?
悪あがきなんて、しなければよかったのか。
砕け散った杖を手に、ロイレンは瞼を閉じた。ひとつひとつの曲がり角を、心の中に思い描いていく。
流星を、受けるべきではなかったか。
魔鎚との交換を、受けるべきではなかったか。
魔合金に絡め取られるのを。〈銀の虹〉の右手を失うのを。〈天土自在〉での交錯を。
魔杖を持っているからといって、どうせリリリアが後から来たら同じことだからといって、ユニスの無力化をおろそかにしてしまったか。あるいはジルに盛った毒が少なすぎたのがいけなかったか。決行する日が悪かったか。
それとも――
「くじ引きが、あったでしょう」
呟く。
答えを求めたわけではなかった。けれど、ユニスは泣きそうな目をして頷く。何が続くかもわかっていないだろうに、それで心が通じ合えばというように、真剣に。
「あれは、何の作為もなかったんです。ただの偶然だったんですよ」
「――じゃあ、」
「君じゃなくてリリリアさんが。私ではなくクラハさんがあのくじを引いていたら、決行するつもりはなかったんです。……というより、くじの結果こそが最後の動機です。偶然が、私の味方をしました」
この樹海を包む『震え』に気付かなければよかったか。
それに気付いたとき、傍にいた者に耳を貸さなければよかったか。
樹海に拠点を構えなければ。時を戻す秘法の存在を知らなければ。戦闘に向いた魔法を知らなければ。明らかな格上を排除することができる薬学の知識がなければ。魔法なんて使えなければ。学園なんて出なければ。
あのとき、ふたりの傍にいられたら。
「知っていますか。ユニスくん。遠ざかるほど大きくなるものなんて、この世にはないんですよ」
遡れば遡るほど、それは全てが遠い思い出の中の出来事だった。
ロイレンは、ユニスをやわらかく見つめる。もう、構える杖はない。同じように、肩の力を抜いて。戦士としてではなく、彼と向き合う。
「どんな日々も、過ぎ去れば色褪せていくんです。悲しみは消える。寂しさは忘れる。生きていれば必ず、私たちは何かを得る。変わっていく。初めは耐えがたいほどに大きく見えた喪失も、遠ざかるにつれてひどく小さなものになって――やがては、見えなくなる」
ロイレンは、ひとつの童話を思い出している。
タイトルは、『竜の空』。
「この世界は、『失われる世界』です」
彼は昔からずっと、その話が嫌いだ。
「大切なものも、幸せな時間も、必ずなくなる。代わりに、いつの間にか笑っている自分を見つける。もう二度と自分には訪れないと思っていたものが、当たり前のように隣にあることに気付く」
子どもの頃は、馬鹿馬鹿しいと思っていた。仲間がいないことが何だというのか。人と違っていることが、何の悲しみを生むというのだろう。同じ姿をした群れに迎えられるだなんて、冗談じゃない。自分には、そんな空は要らない。
そして年を経て今も、ロイレンはこう思っているのだ。
竜が鳥と並んで飛べないなんて、誰が決めたのか。
自分が飛びたかったのは、竜の空なんかじゃない。そんな空は要らない。ただ、私は、俺は、
「――どうして、それだけじゃダメだったんだろうな」
そうして、最後の秘法は静かに巡り出す。
彼はもう戦士ではない。鎚も、杖も構えない。銀色の虹はもう、地に伏せた。
それでも彼は、あのとき頷いたことを後悔していない。記憶の中で、声がもう一度聞こえる。
――――何と引き換えにしても、取り戻したいものはあるか?
あると答えたから、自分はここにいる。
『今ここにあること』の全てを肯定して、ロイレンは秘法を構築する。
森が、揺れた。
「〈星よ、」
組み上がったのは、この世でもっとも美しい構築式だ。後はただ、魔力を注ぐだけ。
きっとやれる、とロイレンは信じた。
時計の歯車を、その手で押す。
「博士、」
それを止める力が、加わった。
わかっていた。だから、ロイレンはもっと強い力でそれを押そうとする。押せるはずだ、と信じる。もちろん戻すのよりも、進める方がずっと簡単だ。けれど、残っている魔力の量が違う。だからきっと押し切れる。そうと信じて、もっと強い力を。もっと、もっと、もっと――
血が、
「博士!」
泣きそうな声で、ユニスが叫んだ。馬鹿な子どもだ、とロイレンは思う。こんな目に遭わせられて、今更そんな声を出すなんて。自分が同じくらいの年の頃はどうだっただろう。こんなに愚かで、傷付きやすくて、お人好しだっただろうか。
戻ったら、確かめてみよう。
海が、さざめく。
「も……やめ……」
何もかもが遠ざかっていく中で、ロイレンは気付き始めていた。
それは、この世の仕組みのこと。秘法が暴く、隠された法則のこと。
時戻しの秘法とは、世界の情報に作用する魔法だ。膨大な魔力によって、『知覚された情報』を覆す。そして、その情報には量がある。現象が確定されてから長い時間が過ぎれば過ぎるほど、情報の厚みは増す。その情報の観測者が多ければ多いほど、情報を知覚した人間が多ければ多いほど、ある時間平面に記された情報の複雑性は高まる。それを削り取るための魔力を、さらに求める。
十年という時間。
ふたりの人間の死という現象が生み出した、分岐と複雑性。
ロイレンはその死の先で、人を救う薬を作り続けてきた。
数え切れない人々の命を救い、数え切れないほどの『未来』を生み出してしまった。
そんなことさえしなければ、なんて。
今更気付いたって、もう遅いけれど。
「……以上は……んで……」
樹海が鳴いていた。
遠くへ響く海鳴りのような音。肌が、骨が、震えている。とても広いところにいるような気がする。寄りどころがなくて、人ひとりの身体は頼りなくて、世界の果てに立っているような気がする。
それでもロイレンは、力を込める。
何もかもが失われていく。無尽蔵に思われていた魔力が。大魔法に耐え続けていた身体が。それでも時計の歯車に力を込める。ありったけの力を。何も残らなくていいと思えるくらい。押して、それでも、ずっと、押して、
ガコンと音がした、瞬間に、
「――ロイレン!」
歯車が、止まった。
声がしたから、ロイレンは瞼を開ける。泣いている弟弟子を、さざめいた景色に訪れた凪を、もうほとんど失われた意識の中でその瞳に映して。
最後に、空を見る。
ああ、と眩しそうに彼は目を細める。思う。魔法なら。この道なら。
ふたりが認めてくれた、自分なら――
「――誰にも負けないと、思ってたんだけどなあ」
明るすぎる太陽と、真っ白な雲。
作りものみたいに青い空。海。夏葉を茂らせて緑色に輝く、もう何千年もそこにあるような樹々の群れ。
銀の巨人が、崩れていく。
寂しげに笑って、誰かが空に落ちていく。
涙を流して、それを抱きしめる誰かがいる。
決着は、そんな風に奇妙で。
後はただ、静かに時が流れていった。