16-2 守りたいんだ
かつてリリリアは、「ここまででいいんだよ」と言った。
最高難度迷宮の、奥地でのことだ。
ユニスは思い出していた。あれは、三人で〈オーケストラ〉――外典魔獣中位種と初めて相対した直後だ。死線を潜り抜け、しかし更なる危難がこの世界に訪れることを知った。だから、この先に進もうと。これ以上の危険があることを承知で行こうと、戦おうと、自分はそう主張した。
けれど、リリリアはジルにそう言った。
そしてジルも、自分に言った。
戦いたくないなら、戦わなくていい、と。
「博士の、言うとおりなんだろうね」
ユニスは、呟いた。
草の上に横たえたジルは、傷だらけだった。どれだけ苦しかっただろう。どれほどの痛みだっただろう。あのとき自分に、戦わなくていいと言ったことは、こうなると知っていて背中に匿ってくれたことは、どれほどの覚悟だったのだろう。
「僕は『良い子』なんだろう。確かに正しいと思ったことを、実行するだけだ」
ロイレンは杖を構えている。
ユニスは、彼を真正面から見据えた。
「だから同じ状況になったら……あのとき迷ったのがジルで、迷わなかったのが僕なら、きっと言う。『立って、力を貸してくれ』って」
ユニスはあの迷宮でジルに「命を賭けてくれ」と言ったことを、後悔しているわけではない。
誰かが言うべきことなのだ。実際、彼がいなければ期限までにあの迷宮を踏破することはできなかっただろうから。世界のために戦うことは、正しいのだから。正しいと知っているなら、それをすることに迷いはない。
ユニスの生涯の輪郭は、魔法によって構成されている。
類まれなる才能。群を抜いた実力。それは常に道標となって、彼に目標と役割を与えてきた。
だから、たとえ時を遡ってもう一度その場面が訪れたとしても、ユニスは同じことを言う。何度だって、立ち上がってくれと、力を貸してくれと、ジルに言う。
正しいことをしようと、二人に言う。
けれど――
「それだけじゃ嫌だって、初めてわかったんだ」
リリリアの言葉の意味が、初めてわかった。
ジルの言葉で、そんな風に相手を思う気持ちがあることを、戦うことを怖がる誰かに寄り添う心を知った。
ふたりの友達が、互いをどれだけ深く思っているかを知った。
だから自分も、そうなりたいと思ったのだ。
「ロイレン博士の目的が間違っているとは、僕には思えない。
でも、僕も友達を守りたいんだ」
ふたりは、同じ目をした竜だった。
卓越した魔法の才。同じ師の下で学び、違う方角へと飛び立った。けれど互いの翼はその巨大さを似せてみせる。瞳は、同じものを見る。
竜の空。
「私もいい加減、体力の限界が近い」
ロイレンは、杖も視線も外さない。
今にも魔法を放たんばかりの緊張の中で、呟くように訊ねる。
「どうせ時間を遡る中で、君の作戦を知ることになる。よければ、教えてくれませんか。一体どうやって、この外典魔杖を破るつもりなのか」
ユニスは一方で、構えもしていなかった。
杖はない。肩の力は抜けている。指先が、空を差す。
「星を落とす」
ロイレンが、目を見開く。
魔導師の間では、その一言ですら意思の疎通には十分だった。
さっきの攻撃の応用だ。射出の一瞬だけ魔法を使い、後は魔法と無関係の物理現象として攻撃を行う。それをユニスは、今度は地面に対してではない。空に対して行う。
「――隕石か」
この星の外。
大気圏を抜けた先に、魔法を使う。
夜空を見上げればわかる。この星の外には、真っ黒な宇宙が広がっている。しかしそれは、全く何もない空間というわけではない。太陽、月、星――いくつもの天体が存在し、それよりも小さいもの、岩石も金属も、そこには漂っている。
それを落とす。
この星に落ちるように、この場所に落ちるように、その軌道を操作する。
「僕の魔法射程は、上方に向けて極端に広い」
ユニスは事実として、それを伝える。
彼のこれまでの〈体験〉のうち、四度目はつい先ほど。三度目は最高難度迷宮。二度目は時戻しの秘法を理解したその瞬間。そして一度目は、幼少期。
魔法の暴走によって彼の意識は上方へと――この星の外にまで、浮遊した。
以来、彼の魔法は常にあの空の向こうに深く結びついている。夜空に映る星から一部の魔力を吸い上げられるのみに留まらない。地上における水平射程とは比べ物にならないほどの垂直射程を、彼は持っている。
「その杖を持った博士でも、この射程には対応できないはずだ。純粋な物理現象としての流星を、相手にしてもらう」
あの中央の街で使った『流星の魔法』とは、また異なる。
〈星の大魔導師〉はこれから、『正真正銘の流星』をここに落とす。
「いいえ。それは叶いません」
ロイレンは言った。
彼の杖には、禍々しい光が宿る。魔法を無効化する魔装。それはすでに、準備を終えている。
「いくら長射程と言っても、力点は君自身です。そして外典魔杖は、作用点だけでなく力点における魔力行使も妨害できる」
「もう、使ったんだ」
その光が、滲んだ。
ロイレンが目を見開く。ユニスは構えない。
空を見た。
「面と向かえば、また迷う。だからここに来る前に、流星を軌道に乗せておいた」
構えないのは、もう魔法を使う必要がないからだ。
「さっき、博士は体力の限界だと言っていたね。僕も同じだよ。時戻しの秘法が介入する戦闘は、考えることが多すぎる。繰り返される一秒の中における駆け引きの密度が、濃すぎるんだ」
だから、と彼は言う。
何でもないような佇み方だった。こんな日でも、太陽は眩しい。空は広い。明日の行方も知れぬはずの樹海の木々は青々と茂り、土も水も、ただそこにある。
「じっくり考えるといいよ。僕の手番は、もう終わりだ」
†
これが最後の選択らしいと、ロイレンは理解した。
残された時間の中で、彼は状況を整理していく。
ユニスが言ったことは、本当のことだろう。今の彼なら、それができる。
先ほどの交戦のときとは見違えるようだった。魔力が充実して、落ち着いている。ロイレンはその状態に心当たりがある。〈体験〉と〈覚醒〉。今の彼は、これまでとは全く違った力を持っている。
空を見た。
流星の姿は、まだ見えない。星との繋がりがないロイレンは、目に見えないそれに干渉することができない。そして見えたときにはすでに、その接近速度は想像を絶するものになっているだろう。
攻撃を事前に無効化することも、できない。
流星を軌道に乗せた瞬間のユニスに、接触できないからだ。
彼がその魔法を使ったのは、まず間違いなく石雨からジルに庇われたあの後のことだろう。それから自分は樹海の中に紛れた。ジルが追ってきて、ユニスはその場に留まった。
もしもこの時点のユニスを狙おうとすれば、自分は追ってくるジルに自ら接近しなければならない。魔鎚と引き換えにようやく退場させたあの剣士と再び向かい合うことになり、最悪の場合、ユニスと合わせて一対二の状況まで作られる。リスクが重すぎる。
だから、と杖を握る。
問題は、耐え切れるかどうかだ。
耐え切れるなら、話は早い。これから落ちてくる流星に耐え切れば、それで自分の勝ちだ。杖がある限り、ユニスを封殺することはそれほど難しいことではない。もちろんこの杖を相手にするにあたっていくつかの抜け道こそ見つけられるだろうが、最強の剣士を退けることができて、魔法の使えない魔導師を相手に『絶対に勝てない』と思うほど、ロイレンの戦力評価は偏っていない。時を戻すことだってできる。耐え切れば、必ず勝つ。
耐え切るための秘策を、ロイレンはふたつ持っている。
それでも最後まで、彼はメリットとデメリットの比較を行った。
これを行うことにも、確かにリスクはある。しかし、ユニスのこの攻撃に向き合うこと自体を避けようとすると、遡る時間は非常に長くなる。石雨よりも前。〈天土自在〉の光に〈銀の虹〉が焼かれるよりも前。それよりもさらに前。これからその時点に至るまで一度も杖に致命的なダメージを受けることなく、全ての戦闘を逆戻しでやり過ごす――それを可能にしたとしても、なお問題は残る。
それは、『もう一度』だ。
遠い過去から道筋を変えることは、全く未知の未来に飛び込むことと、ほとんど何も変わらない。
可能性についての知識が、今、ロイレンを苦しめていた。
リリリアのあの取引は見事だった。ユニスの魔杖の対処法も、理にかなっている。着実に自分は選択を迫られ、時間遡行という鬼札を持っていてもなお、ここまで戦力を削られた。恐るべきふたりであり、そして何より重要なことがある。
最終的にそれを思いつくなら、いつ思いついてもおかしくない。
もっと早い段階で、リリリアが取引を迫るかもしれない。その場合、得られる魔力はもっと少なくなる。ユニスは混戦の中で流星を落とすかもしれない。その場合、自分はこんなに落ち着いて対処をすることはできない。
これが最善の『今』なのか。
考えれば考えるほど、己の敵は強大に膨れ上がっていく。それはほとんど、世界の全てを敵に回すのにも等しいことに思える。
ふと、思った。
もしも自分にも、背中を押してくれる誰かがいたら、勇気を持って飛び込んだのだろうか。
「――ふ」
そんな想像を、鼻で笑う。
「受けて立ちましょう」
最善ではない『今』なんて、今更彼にとっては怖がるものでもなかったのだ。
杖を構える。
ひとつ目の秘策を、ロイレンは口にする。
「〈起きろ〉〈銀の虹〉」
†
大地が覆る。
海が割れる。
最初に現れたのは、やはり巨大な手だ。けれど、焼かれたものとは親指の位置が異なる。右手の次は、左手。海から岸へ上がろうとするように、それはもう一度現れる。
次は、頭。首。胸、胴。
空に架かる銀色の虹は、その半身をこの時代に顕現させた。
ユニスは、黙ってそれを見上げている。
途方もない威容だ。〈天土自在〉すらも、並べてしまえば何と儚くか細いものに映ることだろう。銀の巨人は天を掴むがごとき巨大さで、そこに座している。
それでもそれは、完全ではないのだ。
ユニスは見て取った。外典魔獣上位種。その半身の顕現に、ロイレンが多くの魔力を割いたこと。これまでそれを温存していたのは、何も出し惜しみだったわけではない。ジルと相対するリスクを負ってでも、自身の目的たる魔力を可能な限り失わずに済ませたがっていたのだということ。
だから彼は、残りの半身を顕現させない。
機動力は必要がない。動く必要はない。攻撃の必要すら、ない。
その存在理由を、彼は叫んだ。
「耐え切れ――『俺』を、あの日々に連れて行け!」
†
冗談みたいな速度だった。
流れ星、なんて可愛らしい名前がつくとは到底思えない。昼の空に、それは一瞬光る。そして、瞬く間に落ちてくる。
小さな星が、彼を目がけて降ってくる。
〈銀の虹〉が、焼けた右手を掲げた。
ぞ、と突き抜ける音がして、最初の衝突で砕けてくれればという期待は、あえなく散った。
だから、その奥に重ねた左の手が出る。
今度は、拮抗した。
「ぐ――お、」
それでも、信じられないような衝撃が響く。銀色の身体を通して、〈銀の虹〉を操る外典魔杖にも、それを握るロイレンの手にも、全身にも、それが伝わってくる。
「おお、オ――」
魔鎚を捨てなければよかったか。
あれさえあれば、震動を用いることでこの隕石すらも止めることができたのか。迷い。後悔。割れるような痛み。砕け散るような心地。
「っ!」
そんなものは、今更で。
だからロイレンは、その腕を振った。
杖が、罅割れた。
「消えろ!」
呪文でも何でもない。
ただの魔力操作だ。勝利は近い。これ以上の魔力を消費するつもりはない。〈銀の虹〉の外殻のみを持って、それを耐えることに決める。
燃え上がるような、突き抜けるような、この緑の地すらも平らげてしまうような逸れ星を、銀の腕に留める。耐えがたいような轟音が続く。ロイレンの腕が焼ける。杖に入った罅が、広がっていく。朽ちた枝が裂けるように、パキパキと音を立て、それは砕けていく。
「お、あァああッ――!!」
〈銀の虹〉が、その手を振る。
流星は、海の向こうで飛沫を上げた。
「――はっ、あ、」
肩で息をして、それでも視線は外さない。
彼は、生き残った。
ありえない威力の流星を前にして、先史時代の遺物を用いて、それでも魔力を残して生き残った。知恵と勇気を振り絞り、彼は今、星すらも凌駕した。
その代償が、手の中にある。
外典魔杖が、音を立てて砕け散った。
〈星の大魔導師〉は、もはや杖の影響を受けない。彼は魔法を使う。呪文すらも唱えず、身振りすらも使わず、ただ立ち尽くしたまま、空に引かれるように上昇する。焼け焦げて煙を上げる〈銀の虹〉へと、近付いていく。
その肩の上に、満身創痍のロイレンはいる。
勝利を、確信していた。
彼はすでに魔法の準備を終えている。持っていたふたつの秘策。ひとつは、〈銀の虹〉をもう一度目覚めさせ、力ずくであの場を凌ぐこと。そして、もうひとつ。
杖が砕けたときのための秘策。
「〈星よ、」
ロイレンは、
「――東へ、堕ちろ〉」
呪文を、唱えた。