15-3 いいんだ
取った、と喜ぶだけの楽観はクラハにはない。
けれど、自分にできるだけを達成したことだけは、その瞬間に確かめられた。
〈銀の虹〉の爆発。それに合わせてロイレンを捕まえた。欲を言うなら、この状況から外典魔杖の破壊を行いたい。しかし、そこまでの力量は自分にはない。指示されたのは、捕まえて宙に放るだけ。たったそれだけのこと。
どうしてこの動きが成立したのか。どうしてロイレンが時戻しの秘法を使ってこの事態を回避しなかったのか、クラハにはわからない。
けれど、頼まれた仕事は確かに、ここで完遂したから。
「――ぐ、」
絡みつけていた魔合金を介して、強烈な魔法を叩き込まれる。
かろうじての防御は、かろうじてのものでしかない。クラハはそのまま力を失う。落下していく。
薄く開けた瞼の隙間から、ユニスのあの紫色の髪が見える。
それから背中に、ひどく頼もしい手のひらの感触があった。
†
乗り切る。
その覚悟を、ロイレンは決めている。
魔合金の束縛は解いた。〈天土自在〉からの咎めはない。ここまでが予定通りというなら、もうそれでいい。
乗ってやる。
乗って、真正面から破壊してやる。
眼下には、あの偉大なる大魔導師の姿がある。
ロイレンは、杖を構えた。
†
それは、リリリアが言った通りの状況だった。
〈天土自在〉を発つ前に、ユニスは彼女に知恵を授けられている。ロイレンに回避不能の二択を迫る。〈銀の虹〉に対する攻撃に巻き込まれるか、あるいは〈銀の虹〉との分断を受け入れるか。そしてその上で、絶対に『分断』の方を選ばせると。
彼は今、空にいる。
逆光の中、それでも杖を構えているのが目に入る。
自分の役目は、杖の破壊。
それも一撃で、時を戻す暇すら与えないほどの超高速で。
ユニスはすでに、その方法を思いついている。
「――っ」
呪文を唱える必要すらないほどの、薄っぺらい水の魔法。それを色の付いた膜のようにして、目の前に展開する。
戸惑ってくれればよかった。しかし、ロイレンはそうはしない。瞬く間に対応した。彼は即座にその水の膜に杖を向ける。外典魔杖。水の魔法をするべく、枯れ枝のようなそれに、禍々しい光が宿る。
そのときすでに、ユニスは準備を終えていた。
足元の土を抉り取って、発射する準備だ。
毒によって感覚を麻痺させられていた頃には思いつかなかったし、思いついても実行するだけの力が出せなかっただろう。しかし、冷静な頭で考えてみればこれほど単純な話もない。
魔法が無効化されるなら、無効化される前提で攻撃すればいい。
土の下に魔力を込めて、爆発を起こすのだ。
それはほんの一瞬のことだ。だから、飛んでくる土塊に杖を向けても意味はない。魔法は無効化できても、『魔法によって加速され終えた物体』は消えない。それは単純な武器として、つまりはジルが振るう刃と同じように、魔法を操る杖の支配とは全く無関係にロイレンへ射出される。
唯一問題になるのは、その爆発の瞬間。
それだって、こうして別の魔法を上から被せて、庇いたててやればいい。ロイレンが水の魔法を解いて、それに気付いたときにはもう、爆発魔法の準備は済んでいる。
杖から光が放たれる。
その光に照準を合わせて、後はただ、出力強化のために呪文を添えてやるだけ。
そのとき、ユニスは気が付いた。
杖を砕けば、土塊はロイレンの胸を貫く。
「――ぅ、」
抱えた迷いが、そのまま時間に現れた。
瞬きにも満たない僅かな時間だ。ユニスは爆発の出力を見直した。角度を調整可能なのか考えた。そのことがどんな結果をもたらすのか、一瞬を永遠にするような凄まじい速度で考え抜いた。
けれどその修正を終えたときには、すでにその一瞬は過ぎ去っているのだ。
「〈砕け落ちろ〉!」
ロイレンが、唱えた。
宙に現れたのは、無数の石の雨だ。空中でそれはバラバラに破裂する。ひとつひとつの硬度、重さ、速度、どれを取っても度を超している。たった一言の呪文が生み出した大魔法。
ほとんど同時に、ユニスの弾いた土塊が射出される。けれど速度だけを重視した魔法では、とても真正面からは対抗できない。土塊は石に砕かれる。ユニスは咄嗟に次の魔法を使おうとする。対抗しようとする。
ロイレンの杖が、それを許さない。
瞳には未来が浮かぶ。ユニスは理解している。これだけの魔法が、魔法を封じられた自分にどれだけのダメージをもたらすか。想像できている。身体が石に打ち据えられて、瞬く間に穴だらけになる自分の姿が。
ユニスは本来、戦士ではない。
だから、咄嗟に目を閉じた。
†
その音を聞いてから動くことのできる戦士が、この場にたったひとりだけいる。
†
轟音。
それでも痛みも、衝撃も訪れない。
確かめる。手がある。足がある。何かがなくなった感触が、全くしない。
目を開ける。
「――ジル?」
そこにあったのは、友人の姿だった。
空から匿うようだった。あれだけの石の嵐に背を向けて、たったのひとつも礫を通さないで、自分に覆い被さっている。
げほ、とひとつ、彼は咳をする。
血が、ユニスの頬にかかった。
「だい、丈夫だ」
ロイレンの姿は、すでになかった。
〈銀の虹〉は破壊されて、今はただ空を隠すばかり。草の上に、クラハが倒れ伏しているのが見える。
ジルは血まみれで、自分を庇っている。
ユニスは、理解する。
失敗した。
「ごめ――」
「気にするな」
それは、確固とした口調だった。
これだけの傷を受けてなお、まだ彼の戦意は消えていない。二本の足で大地を踏みしめる。俺も、と呟く。
「何度もやられた。戻されて、逃げ切られただけだ」
ジルは今、きっとこちらの顔も見えていない。
どんな顔をしているのか、わかっていない。けれどそれでも、励ますように。こんな傷なんて何でもないというように。
もう一度頑張ろうと、そう伝えるように、
「行こう」
彼が、手を差し伸べる。
けれどユニスの手は、震えていた。
止まれ、と願った。
頼むから、気付かないでくれ。気付かせないでくれ。心の底から、強く願う。
けれどユニスは、理解してしまった。相手は魔獣じゃない。生きている人間だ。触れ合ったことのある、心のある生き物だ。
そして、魔法は人を傷つけるための技術じゃない。
心あるものを壊すための、道具じゃない。
いつも背中を押してくれた魔法と才能は、今はただ、自分の後ろで静かに佇んでいる。
ジルの手に触れる。
彼は、目を見開く。
「ユニス、」
彼が気付く。気付いてほしくなくても、こっちの顔なんかひとつも見えていなくても、満身創痍でも、そうして指先が触れ合っただけで、彼は。
魔法の言葉を、口にする。
「戦いたくないなら、戦わなくていいんだ」
指と指が解ける。一度だけ、肩に手を置かれる。慰めるような温かさ。硬い手のひら。
それは、すぐに離れて、
「決着をつけてくる。クラハを頼んだ」
軽い足音だけを残して、走り去っていく。
過ぎゆく夏のような背中だった。
凄惨な戦いの中で、けれど樹海に差す木漏れ日は場違いなくらいに眩い。風と草の匂い。水の音。触れれば温かいとわかっているのに、引き留めるのも叶わないような速度で、その裾を掴むことすらさせずに、当たり前のように遠ざかっていく。
遠ざかれば遠ざかるほど、その背を思う気持ちは大きくなる。
座り込んで、茫然と、ただ茫然と、ユニスはそれを見つめている。
自分とふたりの間に横たわる距離に、初めて気が付く。
それが、四度目の〈体験〉だった。