15-1 くれてやればいい
「その理屈なら、私も君の教師にはふさわしくないということになるな」
今でもそこが魔法学園の中に存在しているのか、ロイレンは知らない。
けれどその頃――まだロイレンがただの学生として通っていた頃には、学園の中に相談室と呼ばれる一室があり、問題のある学生がそこに呼び出されては、滾々と説教をされていた。
呼ばれるのは、慣れていた。
無視するのも、それと同じくらいに。
それでもその日、素直にロイレンが放課後にその場所へと向かったのは、呼び出した人物の顔を立てるためでもあった。ウィラエ。新進気鋭の、優れた魔導師。まだ大図書館の副館長なんて肩書きこそついていなかったけれど、選りすぐりの講師陣の中でも、明らかに群を抜いて優秀だった。
その彼女が、そんなことを言うのだから唖然とした。
「どういう意味ですか」
呼び出された原因は、自分でもわかっていた。
ロイレンは、自主的に講義を欠席することがよくあった。この講義を受けていても自分の力にはならない。そう判断すれば彼は、その時間をより有効に活用するために自室に籠るなり、図書室に通うなり、それなりの方法で別の学習を進めることにしていた。
なぜなのか、と改めて訊かれたから、ロイレンは素直に答えた。
低レベルな人間と共に学ぶことで得られるものなど、何もないからです。
それに対するウィラエの返しがさっきのそれだったものだから、呆気に取られていた。
「そのままの意味だよ。君がさっき『低レベル』と称した同級生たちのほとんどは、私よりも多くの魔力を保有している。そのことは、恐らく知っているだろう」
頷いたのは、有名な話だったからだ。
ウィラエは生来、それほど多くの魔力を持ってはいない。もちろん魔導師とは魔力量ばかりが全てではないが、歴史に名を残すような者のほとんどが常人を遥かに上回るそれを持っていたことを思えば、魔法学園の講師にこうした特徴があるのは、珍しい話だ。
「しかし、それとこれとは話が――」
「同じだよ。今の時点で、私より規模の大きな魔法を放てる学生だっているんだ。もちろんそれは、君も同じだ。わかるだろう?」
「……わかります、が」
俯いて、黙りこくる。
あの頃は、黙っていれば何かが勝手に解決してくれると信じていたのだろうか。今になってみれば、あまりにも幼稚な態度だと思う。
しかし、ウィラエはそんなロイレンを見て、おかしげに笑った。
「君の良いところは、ここで『そのとおりだ。お前は低レベルで、教わることなど何もない』と突っぱねないところだな」
「…………」
「まずは、自分の中にあるものを整理してみるといい。すでに自分でも気付いているだろう」
「お説教ですか」
「何のつもりでここに呼ばれたと思っていたんだ?」
憎まれ口を叩けば、子ども扱いで躱される。
もちろん説教だよ、と彼女は言った。
「仕事だからな。しかし、無理に講義に出ろというわけじゃない。これで君の成績が悪いようだったら、もう少し親身になって色々と言うところだが」
「俺が成績不良者として扱われるような基準で学園が運営されていたら、他の生徒はみんな退学処分になるでしょうね」
「そうだな。そうして君は、広くなった校舎で寂しくなる」
また黙りこくる。
よくも「自分でも気付いている」なんてことが言えたものだと、ロイレンは思う。大人が子どもに向かって図星を突いて、恥ずかしくないのか。
「低レベルだの、高レベルだの。そんなのは所詮、人間の多くの側面のうちのたったひとつを物差しにして行われる、些細な競争の結果だよ」
ウィラエは、あっさりと言うのだ。
「時には物事を単純化するのも良い。だが、いちいちそれを真に受けて内面化する必要もない。言葉も数字も事実ではあるが、それ以上のものではないのだから」
言われていることが、一から十まで全てわかる。
今の自分に必要な言葉を与えられている。萎れた木に水をやるように、彼女の指導は完璧だった。
それが悔しくて、最後に悪あがきをした。
「つまり、何が言いたいんです」
「もう少し気を抜きなさいってことさ。そして、ほら。そのことに関しては、私よりもよっぽど『高レベル』に教えてくれる先生がお越しになっているぞ」
がたっ、と相談室の扉が揺れる音がした。
まずい、とか。バレてる、とか。そんな聞き覚えのある声がして、もう隠す気もないのか、あるいは本当にそんな単純なことまで気が回らないだけなのか、ばたばたと遠ざかる足音が、くっきりと耳まで届く。
悪あがきなんか、しなきゃよかった。
くすくすと笑うウィラエの声に居心地を悪くして、ロイレンは不貞腐れた顔で「もういいですか」と訊ねる。もちろん、とウィラエは答えた。気が向いたら、もう少し講義にも出なさい。
はい、と逆らう気力もなくして、ロイレンは頷いて背を向ける。
扉を開ける前に、けれどもう一度、振り向いた。
「先生」
「うん?」
「……先生の研究室は、来年、何人くらい募集をかける予定ですか」
訊ねれば、やっぱりおかしげにウィラエは笑った。
†
感触が違う、と。
六発目の砲撃のフィードバックを受ける最中に、ロイレンは気が付いた。
これまでの〈天土自在〉を叩いたときの感触は、もっと硬質なものだった。しかしたった今返ってきた感触は、それとは異なる。決してより巧みになったとか、外典魔杖の接続に対するプロテクトが緻密になったとか、そういうことではない。
拙くなったかと言えばそうではなく、一方でこれまでやり取りをしていたのと同じ人物だという気もしない。
そして、塔の外に高い魔力を検知した。
こちらに向かって、高速で移動する魔導師がひとり。
その保有魔力を思えば、ロイレンはすぐにそのひとりが誰なのかを察することができる。ユニスだ。それ以外にない。
彼が、〈天土自在〉を放棄した。
しかしなお、あの高く聳える樹木の塔は健在であり、リリリアひとりが守っているものとも到底思われない。
ユニスほどの魔導師が離脱して、しかし遜色のないレベルでのプロテクトを代行できる人間。
それを、たったのひとりしかロイレンは思い付かない。
「――先生」
呟けば、唇が、喉が、心が、懐かしさを覚える。
この夏は、ひどく懐かしい日々だった。
遠い日の記憶の、再演のようでもあった。自分はあの頃よりもずっと穏やかになった。人に話しかけて協力を求めるのも厭わなくなった。ときには大人ぶってアドバイスなんかもしたりして、昔からは想像も付かないような、そんな人間になった。
生きていればきっと、何度だってこんな『懐かしい日々』がやってくる。
わかっているのに、どうして自分はこの道を選んでしまったのだろう?
「七発目」
それでもロイレンは、数字を重ねる。
時はどうやら、またも自分の敵に回ろうとしているらしい。しかしそれも、いつものことだ。慣れた敵ほど御しやすいものはない。そう信じて、杖を握る。あれだけの失敗を重ねてもいまだに諦める気配のない二人の剣士を躱して、再び魔力を込め始める。
もうすぐだ、と思った。
もうすぐ、辿り着く。
†
「彼らが亡くなったのは、十年前。原因はフィールドワーク中の事故だ」
話しながらも、ウィラエの指は〈天土自在〉の操作盤の上を迷いなく動いている。
誰が見ても、先ほどまでのユニスとの遜色を見つけることはできないだろう。隣に立つリリリアが言語補助にすら入っていないところを見れば、その逆の感想すら抱くかもしれない。
「彼らの専攻は全て薬学に関連するもので、卒業後もその道を行くことを選んだ。私は彼らが在学している間に、自分の持てる知識を可能な限り伝えたつもりだったし、実際、三人は目覚ましい成果を上げてもいた。だからだろうな。キャパシティを超えた研究計画を立ててしまった。――特効薬の開発に、自分たちで期限を設けてしまったんだ」
幼い子どもだったという。
病に罹っていた。それを治すための薬が必要で、三人はその調合に成功した。
しかし、その新薬を処方するのに十分な原材料が確保できていなかった。
だから、採取に向かった。冒険者たちに護衛を頼んで、当時はもっぱら理論畑にいたロイレンを置いて、後のふたりが樹海に旅立った。
確かに冒険者たちは、その原材料を持って帰ってきた。
けれどその代わりに、ふたりの研究者の命をそこに置いてきてしまった。
「もしも彼らの出発が一日遅ければ、魔力スポット由来の自然災害に巻き込まれずに済んだかもしれない。あるいは、ふたりが樹海の浅瀬で採取できた素材の量に満足できていれば。彼らと比べて卓越した魔法技量を誇っていたロイレンが、連日の研究の疲労に倒れていなければ。お節介な教師が、卒業後の学生たちの危機を察知できていたら――」
淀みない話ぶりは、ただ彼女の弁舌の巧みさだけによるものとも思われなかった。
何度も何度も、言葉にしてきたような。声にしてか、心の中でか、あるいはその両方か。長い時間をかけて反復してきたような口ぶりで、彼女は話した。
リリリアは、何も言わない。
「私が信用できないか?」
ウィラエは、操作盤から目を離さないままで訊ねた。
「部屋に置かれた手紙は読んだ。誰が事件に関わっているかわからない状態で、しかし他の無関係の面々には避難を促す。非常に親切な忠告だったと思うよ」
ありがとう、と彼女は言う。
けれど、
「君ひとりだったら、私をここには呼ばなかったんじゃないか」
そんな風にも言った。
「信号を送ったのは、賭けでもあった。あれだけ状況に対して慎重に動ける君が、敵か味方かわからない状態の私を呼び寄せるとも思えなかったからね。転移魔法を使ったのは、ユニスの独断だろう」
「ええ」
「不安なら、心を読んで確かめてみればいい。それで協力関係が築けるなら、私は気にしない」
リリリアの目が、僅かに開いた。
しかし、それも長くは保たない。彼女は静かに、聖女らしく落ち着いた声でウィラエに答える。
「あの状況は、すでに私たちにとって不利なものでした。もしもウィラエさんがロイレンさんの味方につくつもりなら、わざわざここに来る必要はありません。ただ町で、待っていればいいだけです」
「そうかな。君なら奥の手を持っていたように思うよ。たとえば、こんな風に」
す、とウィラエが指を動かす。
表示されたその文字を、はっきりとリリリアは読み取る。
ついさっき、ユニスも交えて三人で打ち合わせしたとおりのことが、そこには表示されている。
「もしも私がここに来るまでこの方策が検討されていなかったとしたら、それは君たちふたりの攻撃性が著しく低いためだろうな」
単純な発想の転換だ、と。
ウィラエはまるで講義するかのように、操作盤を指で叩いた。
「〈天土自在〉の防御は不完全だ。リリリアさんの神聖魔法の助けがあっても、外典魔杖の侵食を完全にはカットできない。しかし見方を変えてみれば、不完全ながら一部の防御は成立していて、向こうもこちらの魔力の『全ては吸収できない』とも言える」
だから、と彼女が言う内容は、そのまま壁に描かれている。
現時点で〈天土自在〉から抽出可能な魔力。そのかなりの部分を、引き留めることなく供給路に乗せる。
供給先は、防護魔法の使用者であるリリリアではない。
あの、遥かに聳え立つ、銀色の手に向かってだ。
「向こうが欲しがるなら、くれてやればいい。
現状、可能な限りの出力で以て魔力を攻撃に転換し、〈銀の虹〉を破壊する」
だが、ともウィラエは続ける。
「さっきも言ったとおり、この作戦にもなお問題がある。ロイレンが時戻しの秘法をいつでも自在に使うことができるという君たちの言が本当だとするなら、彼は無制限に時を遡ることで、あらゆる危機を乗り越えることができてしまう。……本当に、リリリアさんのその考えは実行可能なのか」
リリリアは、外部モニタに映し出されたその景色を、じっと見つめていた。
ふたりが送り出したユニスが向かっている先。ジルとクラハ、ふたりの仲間が今もなお、諦めることなく懸命に戦い続けている場所。
そして、ロイレンを。
じっと深く、深く……奥底まで見通すように見つめる。
「ええ」
彼女は、頷いた。
「私が知る限り、『もっとも残酷な魔法』を使います」