14-3 状況は?
いくつかの有利はこちらにあると、客観的に状況を分析してジルは気付いている。
一番は、まだこの巨大な魔獣が十分な身動きを取れずにいるということだ。
「ふッ――」
視界の中で、何かが動く。それに合わせるようにして、ジルは右へと走る。
あれだけの力と硬さを持つ存在でありながら、動きは鈍い。もしもスピードまで伴っていたならば、すでにこちらの命はないことだろう。鈍く、大きな敵であれば、これだけ悪い視界の中でもかろうじて回避できる。
ご、と聞いたこともないような重い音が大地に落ちる。
「そのまま! 正面!」
クラハの言葉に、ジルはもう一歩を踏み込んだ。
これもまた、有利要素のひとつだ。空中に完全に浮かばれてしまえば、一気に剣士の間合いは不便なものになる。しかしこれだけの柱が聳え立つ以上、足場に困ることはない。
目が利かなくとも、その代わりを担ってくれる冒険者が横にいるなら、自分が向かうべき場所もわかる。
疾走する。剣を振るう。
それが、空を切る。
「どっち――」
「質問は、」
声がすれば、咄嗟にジルはその方向に振り抜く。
が、それもやはり空を切るのだ。右でなければ、今度は左。一回転するようにして剣を戻そうとするが、向こうの方が早い。
「戻ってから」
ガン、と骨の軋むような衝撃。
身体に留めないように背中から流せば、そのままジルは地面に叩きつけられる。
有利もあれば、不利もある。
たとえば、どんな攻撃もこんな風に、ロイレンの位置を掴めないままに透かされてしまうことだとか。
「ジルさん! 声もダメです、途中で――」
「っ、」
言葉の途中で、ジルはクラハの声がした方に走る。
彼女を抱えて飛びのけば、ついさっきまでふたりがいた場所には、瞬く間に土の雨が降り注ぐ。
全てはこの繰り返しだ。
〈銀の虹〉の上部のどこかにいるロイレン。その姿をクラハが見つけて、ナビゲーションする。声、光、あるいは風を介した触覚のサポート。それらを頼りに、ジルはこの大きな柱を駆け上がる。
しかし、ロイレンはそのどれもを防ぎ切る。
声がすれば音を消す。光があれば、逆光を以て焼き尽くす。風があるならかき乱し、全ての戦闘指示は失敗に終わる。手探りでもして捕まえる余裕があれば良いが、彼の手の中にある外典魔鎚の衝撃は、たとえジルでも真正面から受け切れるような生易しいものではない。
「クラハ、次だ!」
ジルは叫ぶ。
「何でもいい、通じるのがひとつでもあれば――」
通じるのが、ひとつもなければ。
銀の柱の上部に、再び激しい光が宿るのをジルは見る。
「しまっ、」
三発目、と呟くのが耳に届く。
今度は剣を振るう暇もなく、それは放たれる。
轟音。
柱の背が、また伸びる。
†
これは『どちらが早いか』を競う勝負ではないと、ロイレンは気付いている。
むしろ自分にとっては、『どれだけ耐え忍べるか』を問われている戦いなのだ、と。
恐らく今、あのふたりにとってこの外典魔獣は恐ろしい脅威に映っていることだろう。しかし、それはロイレンにとっても同じことだ。ジル。現代最強の剣士が向こう側にいるのは、彼らが〈銀の虹〉を敵に回しているのと、同等の恐怖をもたらすものなのだ。
だから、相手にしない。
「――狙いに、気付いているな」
ロイレンは、外典魔杖がもたらす魔力の感触を確かめる。二発目、三発目と〈銀の虹〉が放つ光の出力を上げたものの、いまだに〈天土自在〉は大魔導師と聖女のふたりによって守られ続けている。
しかし、それも時間の問題だ。
恐らく向こうは、こちらの『接続』の狙いに気が付いている。だから最小の魔力で壁を張ろうとしている。蛇口を絞ることで、こちらが〈天土自在〉から吸い上げられる魔力量を最小限に抑えようとしている。
それでも、完全に閉ざすことはできないのだ。
だから、一発ごとに削り取ったそれを〈銀の虹〉に回して、砲撃の出力を上げてやればいい。
どれだけ優れた人間でも、所詮は人間に過ぎない。
ぶつけられる魔力がふたりのキャパシティを超えれば、そのときが最後だ。
「四発目」
「させ、るか――!」
時間は、珍しく自分の味方だ。
そうとわかれば、この途方もなく恐ろしい戦士の相手をするのも、不可能なことではなくなる。
駆け上がるジルを、ロイレンは観察する。
次に彼らが選んだ手段は、『壁』らしい。
回避のためにこちらが立ち位置を変えれば、それをあらかじめ予知していたかのように、ジルの足元に純魔力で構成された壁が現れる。彼はその壁を瞬く間に蹴り飛ばすと、瞬間、こちらに進行方向を変えて飛び掛かってくる。
よく考えるものだ、とロイレンはすかさずいくつもの壁をジルの足元に設置する。
蹴り壊してもしかし、ジルは方向を変えなかった。
「おや」
これはダメだ、とロイレンは思う。
だから、時間を『戻した』。
次と、その次と、加えて何度かのやり取りの中で、さらに深く観察する。感心した。クラハが生成する壁には、特定の温度がある。ジルはあらかじめその温度を覚えてから走り出すことで、自分が妨害しているのか、クラハが補助してくれているのかを感じ分けているのだ。
彼らの発想力と実行力には、戦闘者として、自分との格の違いを感じざるを得ない。
この短い時間の中で、魔法の実力においては完全に格上である自分を相手に、いくつもの作戦を試してくる。そして、そのほとんどは一度ならず成功しているのだ。
さらにふたりには――こればかりは全くロイレンには理解しがたいことだが――戦闘中におけるほとんど霊感の如き先読みの力があり、その作戦を破綻させたにもかかわらず、自分の喉に剣を突き立てることまである。
いったい何度敗北したか、わからない。
しかし、時間は自分の味方なのだ。
「がッ――」
二十七度目で、ジルの頭に魔鎚を当てることに成功した。
温度の仕組みがわかれば、後は簡単だった。いくつかをカモフラージュとして撒いた後、ここぞというタイミングで同じ温度のものを混ぜてやればいい。それから六度、こちらの動きを察知したジルのカウンターを浴びせられたけれど、どうせ大したものではない。彼はこちらを即死させることを躊躇っている。恐らく自分が死ぬことで〈銀の虹〉の制御手段が敵味方の両方から失われることを危惧している。
賢明な判断で、だから扱いやすい。
即死でないならいくらでもやり直せる。即死だとしても、あらかじめ準備をしておけば、意識が完全に断絶するまでの僅かな間に時を戻すこともできる。
追撃の魔法を唱えながら、ロイレンは杖を構える。
割れるような頭の痛みに耐えながら、彼は命じる。
「四発目」
後はただ、時間が流れていくだけ。
ずっと学び続けてきた、当たり前のことだった。
†
防御自体は安定している。
問題は、もっと技術的な部分だった。
「まずい、また吸収量が増加してる!」
「ユニスくん、魔杖との供給路は切れないの?」
「解析してる! けど、魔杖に組み込まれている魔法システムが複雑すぎる! 距離も離れていて情報の取得も難しいし、何より探索用の魔力を向こうに送り込んでも、〈天土自在〉から流れ出る量が多すぎて、向こうから戻って来られない!」
外典魔杖による侵食が、止められない。
〈銀の虹〉から放たれる魔砲撃を防ぐたびに、どれだけこちらが入念に魔力プロテクトを組み上げても、必ず供給路をさらに太く再構築されてしまうのだ。
単純な出力差の問題も、確かにある。
が、これはやはり技術の問題でもあるのだ。ロイレン。彼が持つ魔導師としての実力が、外典魔杖の中に組み込まれた古く優れた魔法と共鳴することで、自分ですら押し負けるほどのものに化けている。
何が大魔導師だ、とユニスは毒づかずにいられない。
わかっていたことだ。自分の師、ウィラエは大魔導師の称号を持っていない。所詮肩書きなんてものは特定の手順を踏んだ者に与えられる呼称に過ぎず、それを持たないことが何かそれ以上の特別な意味を持つわけではない。
称号などなくとも、彼は優れている。
恐らく、今この時代に魔導師と呼ばれる者のほとんどより――もしかすると、自分よりも。
不意に心に差したその弱気に蓋をするように、さらに慌ただしくユニスは操作壁の上で指を動かす。解析用の魔力は返ってこなかった。だったら次にすべきは〈天土自在〉内に存在するであろう出力制御のロックを用いて外部からの侵入遮断のシャッターを下ろすことで、しかしそれを一度下ろしてしまえばすぐには解除は、そうなるとさらなる出力上昇に対するマージンの確保が難しくなって――
「五発目!」
「――!」
わかっていても、目が眩む。
外部モニタが、真っ白に染まった。
残光が収まれば、再び〈天土自在〉は平穏を取り戻す。しかしそれが長くは続かないことは、ユニスもよくわかっている。吸収量を確認する。また随分と持っていかれる量が上がったのは、単純に今の〈銀の虹〉の砲撃出力が高かったからか、あるいはその砲撃を指揮するロイレンが、こちらの防御に対する効果的な攻撃方法を見つけてしまったからなのか。
何にせよ、時間は自分たちの味方ではない。
焦燥に駆られて分析を進めるユニスには、外の様子を観察するリリリアの瞳が、目に入っていなかった。
「――ユニスくん。ここは任せて」
「え、」
だからその提案の意味が、すぐにはわからない。
ぐ、とリリリアがユニスを押しのけるようにして身を乗り出した。
「私がここはひとりで持つ。ユニスくんはジルくんの加勢に行って」
リリリアは、ユニスとは異なる落ち着いた口調で言ってのけた。
このままいてもこちらの不利が拡大するだけなのはわかっている。それに、これだけの長い時間、ジルがロイレンを止められていないことにも違和感がある。恐らく何か、クラハと彼のふたりだけでは対応できないような戦法を使われている。
時を戻されているはずだ、と。
「だとしたら、ふたりじゃどうやっても対処し切れない。ユニスくんがふたりを助けて、〈天土自在〉を乗っ取られる前に勝負を決めて。それしかない」
それは、全くの正論だった。
この場にいても埒が明かないのは、ユニスもわかっている。削り切られる前に、向こうを処理する。それだけが生き残る道だと言われれば、筋が通っていると言うほかない。
しかし、問題は三つある。
ひとつは、時戻しの秘法の強力さ。自分が加勢してもなお、それを『ほとんど無制限に』使える状態の相手を打倒する手段は、すぐには思い付かない。もうひとつは、ロイレンの手にある外典魔杖。あれがある以上、自分の力が十全に発揮されるとは言い難い。
そして、最後のひとつ。
「無理だ! リリリアだけじゃ、〈天土自在〉をコントロールできない!」
いくら彼女の力があったとしても、〈天土自在〉の操作なしに〈銀の虹〉の砲撃を受け切ることはできないのだ。
この施設からの魔力供給だって、ただ垂れ流しているわけではない。適切なタイミングで、必要な量を瞬時に判断する。砲撃の威力が外典魔杖による『削り取り』で上がっていく以上、彼女ひとりだけではこの場に対応できない。
「それならそれでもいいんだよ」
しかし、リリリアはそう言ってのけるのだ。
「私ひとりで受けられる間にユニスくんが向こうを処理してくれればいいし、それができなくても、どうせロイレンさんはすぐにこっちがひとりになったことに気付く」
そうしたら、と彼女はユニスを押しのけて、操作壁に触れる。
ぎこちない手つきだ。どれだけ言葉がわかったとしても、これだけ巨大で複雑な、そして文明の様相が異なるシステムを自在に操作することは、まずできない。
「駆け引きになる。向こうは私がどのくらい〈天土自在〉を操作できるか、どのくらいの威力まで受け切れるか悩むはず。〈天土自在〉を壊したくないのは向こうも同じはずだから、私がそこでどうにかする。ユニスくん、供給量の調節はこの目盛りでいいの?」
ユニスは、その提案を頭の中で整理する。
そんなことが可能なのか。リリリアの言葉は確信に満ちていて、冷静で、頼り切ってしまいたくなる。けれど今、ふたりでようやく持ちこたえているこの場所を自分が離れることが、どれだけのマイナスになるか。この場に留まるための多くの理由が、説明が、ユニスの頭の中に浮かんでくる。
その理由をもたらしているのが、本当は何なのか。
そのことに気付くよりも先に、それはユニスの目に入った。
「――待って、リリリア」
「待てないよ。早く行かないと手遅れになる。ユニスくん、お願いだから――」
「違う。信号だ」
リリリアが操作壁から顔を上げた。
ユニスが見ているのは、壁に表示された外部モニタだ。と言って、今はこの部屋のほとんど全面がそうして機能している。〈銀の虹〉に面した方向はもちろんのこと、逆側、研究所のある方角の景色までもが、もしもの奇襲を警戒して壁に投影されている。
町の方から、光が送られてきている。
「竜と、鳥?」
リリリアが呟いたのが、その全てだった。
それは光の記号だった。大きな竜があって、そこから少し離れたところに一羽の鳥がいる。その鳥が竜に向けて飛び立つところが、何度も何度も、信号としてこちらに発信されている。
気付いた。
迷わなかったのは、その人のことを信じていたからだ。
「待って、ユニスくん――」
慌てたリリリアが口にしたその言葉の意味が、ユニスには少しだけわかる。でも、だからこそ言う必要がある。
「大丈夫」
リリリアは、きっと知らないだろうから。
一番よく知る自分が、保証する必要がある。
「絶対、一生、僕の味方だから」
それは、〈天土自在〉を操作するよりはずっと簡単な仕事だった。
何せ、そもそもはこれこそがここまで来る目的だったはずなのだから。
速やかにユニスは、その魔法を展開する。自分の魔力を節約するために、必要な分の一部を〈天土自在〉に負担してもらう。こうなるともう、失敗のしようがない。向こうの魔力だけが心配で、しかし当然、その信号を送ってくる以上、彼女もまたその準備を終えている。
あの夏の始まりの日と同じように、魔法陣が輝く。
そうしてその人は、姿を現した。
「すまない、遅くなった。状況は?」
「――先生!」
転移魔法。
それがあの南の町からウィラエを――この場所を代わりに任せることができる、魔法の師を呼び出した。