14-2 ばいばい
クラハは、空からジルが降ってくるのを見ていた。
凄まじい爆発だと、最初はそう思ったのだ。ジルが渾身で放った一撃。それは剣ごと熔解させるような一撃で、だから、それで間違いなく何かしらの決着がつくと、そう思った。
とんでもない。
ジルの未剣は〈銀の虹〉に傷ひとつ付けることができず、そして今、彼は全力の一振りの後の無防備のままに、宙を舞っている。
ただの魔法じゃダメだ、と思った。
思う、その一瞬前にはもう身体は動き出していた。
「〈斬り刻め〉!」
「〈吹け〉!」
呪文を唱えたのは、どっちが早かったかわからない。
〈銀の虹〉の上に立つロイレンが、風の魔法を放つ。ほんの短い詠唱だが、信じられないくらいの威力を持つ大魔法だ。全身を塵と変えるような裁断の剣。それが空中で身動きの取れないジルに向けられる。
それに対して、クラハが唱えた魔法はか弱いものだった。
ただ、投げ出されたジルの身体の向きを多少整えるだけの魔法。この距離で、この速度で唱えられるのはその程度のものが精いっぱい。
でも、咄嗟にそれが出たのは、もっとも練習を重ねている魔法だからで。
その理由を、ジルならわかってくれるはずだと思っていた。
「く、ォおおおおッ!」
迷いなく彼は、ただ己の正面に向かって手刀を放った。
内功で鋼鉄のごとく引き締められた腕が、ロイレンが放った魔法を引き裂く。宙に舞う身体を風の魔法で整えて、力を正しく刃に乗せる技。今は、ふたりで使う。
未剣〈追い風〉を、合わせ技として放つ。
ジルの無事を見届けたときには、すでにクラハは〈銀の虹〉の指のひとつに足を掛けていた。
彼のように、この垂直に聳え立つ柱を脚力のみで駆け上がることはできない。
けれど、クラハにはそれ以外の手札があるのだ。東の国での修行の間に、身に付けた技術。家を出てからの間に覚えた魔法と体術と、持ち合わせた天性とを掛け合わせた技。
「〈吹け、強く〉――」
風に背を押されるようにして、彼女は天へと昇っていく。
無謀な賭けだ、と自分でも思う。しかし、目の前のこの巨大な手を前にしてクラハは感じている。これを正面から打倒することはできない。だから『正面以外』からぶつかる必要がある。
〈銀の虹〉を暴れさせる前に、ロイレンを叩く。
速やかに、最速で――それ以外に、今の自分たちに勝機はないと。
「っ、なかなか、」
ロイレンが、こちらに気が付いた。
不意打ちにはならなかった。クラハはそれを諦める。ジルと自分が並んでいる光景を見てなお、彼はジルのみに集中することなく、こちらの動きまで注視していた。その戦闘における視野の広さに、背筋が凍る。
凍ったままで、走る。
あと二歩。使える技は、ひとつだけ。
「〈装填〉」
鞘の中、風の魔法が荒れ狂う。
目一杯だ。この夏の間、ユニスに少しだけ手解きを受けた。とても彼には及ばないけれど、それでも以前より出力は強い。制御はまだ未熟なもので、だからその風に自らの手を引き裂かれもする。
それでいい。
あと一歩。
「未剣、」
理想的な形だった。
クラハはあえて直線から逸れるようにして、最後から数えて二歩目のそれを、斜め前へと踏み込んだ。人の目は顎の裏にはついていない。真正面よりも真下を見る方がずっと視野は狭い。だからほんの一瞬、ロイレンの瞳が自分を見失ったのを確かめる。わずかに彼の頭が左右に揺れる。
もう一度見つかったときには、すでに加速は終わっている。
クラハは、それを抜き放った。
「〈追い風〉!」
「――魔鎚」
それでも届かないのだから、認めるしかない。
天性の才能か、それとも何らかの専門的な技術の応用か。いずれにせよロイレンの戦闘技能は、魔導師としては群を抜いているということを。
刃が、途中で止まった。
残りのたった一歩の間に、彼の手には外典魔鎚が握られている。しかしそれで受け止められたわけではない。魔鎚は彼の左の腕にあり、刃には触れていない。剣を止めたのは、何らかの見えない壁。
何かの魔法か、外典魔鎚が持つ何らかの能力によるものか。
わからないが、もはやクラハは引くほかない。
垂直に登った場所は、垂直に下るしか道はない。樹海の地面の上に降り立って、視線は外さないまま。クラハは鞘に剣を納めると、隣に立つその人の手を握った。
「失敗しました。剣を」
「ああ」
手渡したのは、さっきの全力の〈爆ぜる雷〉によってジルが剣を失ったから。
そして同時に、今の交錯で仕留められないようなら、自分には決め手がないとわかっていたから。
ふたりは、再びそれを見上げている。
「――さあ、」
ぶおん、と彼は風を切るように魔鎚を振るった。
「私が 〈天土自在〉を取るのが先か、あなたたちが私の喉元を斬り裂くのが先か」
鬼ごっこと行きましょうか、と。
不敵に笑った。
†
「お、落ち着いて! 落ち着いてください!」
教会服の誰かの叫びは恐慌の声に掻き消されて、その隣に立つデューイの耳に届くのがやっとだった。
避難と呼ぶよりは、逃走と呼ぶ方がふさわしい光景だったと思う。
一時は避難所となった教会からすら、人々は大慌てで出ていく。『空に一番近い町』と書かれたポスターすら破るようにして、そう広くはない通りに殺到していく。
「痛って! 押すなって!」
デューイもまた、そのひとりだ。
あの光景を見て――今も少し視線を上げれば目に入るあの『手』を目にして、そうせずにいられる人間など、どこにもいまい。
さっきまでの火事だの爆発だの、そんなものとは比べ物にならない。
本能的なものだ。遠くで起こった自然災害は、あくまで遠くで起こったもの。自分たちを見つけて、わざわざ狙いを定めて襲い掛かってきたりはしない。
しかし、魔獣は違う。
あれは、人を狙う。人を狙って、殺しにかかる。
聳え立つあの『手』は何らかの魔獣としか考えられず、そして、あれだけの高さがあるのだから、こちらを見つけることだって容易いはずだ。どこに目があるのだかわからないが、それでも、すでにその視界にこの町が入っていることは確かだろう。
あの空を割るような光がもう一度こちらに向けて放たれれば、自分のような人間はなすすべもなくそれに焼かれるしかない。
そうとわかれば、後はもう、どれだけ遠くに逃げられるかの話だ。
「落ち着いて、落ち着いて移動してください! 私たちが後ろを守りますから、あなたも隣にいる人を守ってあげて!」
若い聖職者が、声を張り上げている。
手伝ってやりたいとデューイは思うが、自分にもそんな余裕はない。人の流れはあまりにも激しくて、それに沿っているだけでも肩やら頭やらをぶつける羽目になっているのだ。足を止めれば圧し潰されかねない。
なのにそのとき、デューイはそれを見つけてしまった。
「――――」
見覚えのある姿と、『すれ違った』。
足を止めるわけにはいかなかった。それでもデューイは、首だけで振り返る。もう見えない。けれど、単なる見間違いではないと思った。
幸いにして、彼は人の流れの左端の方にいる。
爪先が、さらに左を向いた。
「――戻らないで、危険で――」
遠くに、心配する誰かの声を聞く。
それでもデューイは列からはぐれるように、細い裏路地に入り込んだ。
大通りから一本奥に入っただけで、もうすっかり寂れたような町並みだ。戸を開け放たれて、もぬけの殻になった家々。何事かと目を丸くする、夏影と同じ色をした黒猫。二階の窓から干しっぱなしの洗濯物が、すぐ近くの足音に呼応するように揺れている。
幾人か、大通りを避けて逃げようとする人々とすれ違う。
道に詳しい地元の人間なのだろう。彼らはすれ違いざま、必ず目を丸くする。そりゃそうだ、とデューイは思う。あのすっとぼけた三人と違って、自分は方向感覚がないわけじゃない。はっきりと、向かう先がわかっている。
混乱の元、南方樹海に向かって走っている。
わかっててやっているなら、なおひどい。
「何やってんだ、オレは!」
懸命に足を動かすけれど、人並外れた速度が出せるわけじゃない。研究所からこの町まで。町の教会から外に行こうとして、戻って。樹海の探索でも随分足を使わされたけれど、こう何度も全力疾走するようでは、ひょっとしたらジルたちに気を遣ってもらっていた分、あのときの方がマシだったかもしれない。
震える腿を誤魔化して、ようやくデューイは、それをもう一度見つけた。
「ネイ!」
後ろ姿が、ぴたりと足を止める。
何のことはない裏路地でのことだ。住宅や店の建物に囲まれて、見上げた空はあんなに眩しいのに、地上には薄く冷たい影しか差さない。彼女は薄手のフードを被っていて、この場所からでは背格好の他に判別する手段がない。
それでも、デューイにはわかった。
背格好があれば、それで十分だったからだ。
「何、してんだよ」
膝に手を突いて、息を切らしながらデューイは言う。
「そっち、逆、だろ。お前、オレと同じで、戦えねーんだから」
彼女は、ゆっくりと振り返る。
デューイは、それが自分の知る顔であることに驚かなかった。けれど当のネイは、信じられないものを見たかのように、目を見開いている。
彼女は何も言わない。
だから、デューイは続けた。
「避難するなら、一緒に行こーぜ。人、すげー多いから、お前じゃ苦しいかもしれないけど。オレがいたら、壁くらいにはなるだろ」
「……デューイ」
場違いなくらいに静かな声で、彼女は彼の名を呼んだ。
「読まなかったんですか?」
「……?」
手紙を、と呟く。
それでデューイは、そんなことをさっぱり忘れていた自分を見つけるのだ。
「あ、朝のあれ。もしかして、お前が置いといてくれたのか?」
「あの魔獣を起こしたのは、ロイレンですよ」
何を言われたのか、デューイは最初、まるでわからなかった。
言葉の意味を、言葉通りにゆっくりと理解する。理解した先で浮かんだのは、確固とした形をしていない想像だ。調査中に何かのアクシデントがあった、元からそこに眠っていた魔獣だった、火事を止めるためにあれを起こす必要があった――
「そんなわけないとか、友達だとか、そんなことを思ってますか?」
その想像をバラバラに崩すように、ネイは続けた。
「でも、事実です。あの人はお前を捨てました。『お前ではない方』を取ったんです」
続けながら、しかし彼女はきっぱりと踵を返してしまう。
遠ざかろうとする背を、おぼつかない足取りでデューイは追う。
「おい、待てよ。一体何言って――」
「知らないでしょう。あの人、もう十年以上前に死んだ友達のことが今でも忘れられないんだそうですよ。今まで得たものを全部捨ててでも、取り戻したいんだそうです」
ネイの足は、しかし樹海の方へは向かわなかった。
あんなのは自分には関係ないと言わんばかりの足取りだ。遠ざかるでもなければ、近付くでもない。町を横切るようにして彼女は行く。早足でデューイは、彼女を追い掛ける。隣に並ぼうとする。
「くっだらないですよねえ。もうとっくの昔にいなくなった人のことで、泣いたり、喚いたり。馬鹿馬鹿しいったら」
「ネイ、」
「でも、結局そんなものなんですよ。私たちなんて、人から見ればほんの取るに足らない、気まぐれで放り投げてしまえるような無価値なものなんです」
なのに、どうして追い付けないのか。
ふたりの距離は、どんどん離れていく。とうとうデューイは疲れ切った足で走り出して、それでも歩き続けるネイの方が、ずっと遠くに進んでいく。
怖くなった。
自分は今、どこに行こうとしているのだろう。このまま彼女についていくことは、自分をどこに導こうとしているのだろう?
恐怖が足を止めようとする、その直前。
ネイの方が先に、足を止めた。
「デューイ」
薄暗がりの、何でもない路地だ。
ここから先も、道はどこまでも続くだろう。誰が見たってそう疑わないような、曲がり角。彼女はそこに立っている。いつもみたいに、片足を上げて振り向く。
「ばいばい」
ほんの少しだけ、笑って見えた。
角を曲がる。
その先にもう、彼女の姿はなかった。