13-3 〈銀の虹〉
「すみません、かなり時間がかかってしまいました」
「いや、それでも助かった。さっきから全然鼻が利かないんだ」
すん、とジルが手の甲を押し付けるようにして鼻を動かす。樹海の奥。ふたりはしばらくの間を彷徨って、しかし今は一方向に向けて川を下っている。
ロイレンの逃走の痕跡は、確かにひどく追いにくいものだった。樹海の景色はとにかく移り変わりも激しく、植生が複雑なためにちょっとした足跡なんかも枝葉の中に紛れてしまう。しかもところどころに偽装工作までされていたものだから、途中でクラハは、純粋に痕跡から彼の後を追うことを諦めたくらいだ。
今は、その偽装工作のパターンから逆算して、彼の意図を読み取りながら動いている。
おそらくこの川を下ったはずだ、と当たりを付けていた。
「匂いですか。私は全然、いつもと同じようにしか感じないんですが」
「それがもうおかしいだろ。あれだけの血を流したんだから、絶対にその匂いが混じるはず……って、クラハは見てないからわからないか」
見ていてもきっとわからなかっただろう。これだけ花と水の香りが充満した空間で、人ひとりが流す血の臭いを自分が嗅げるとは、クラハは思わない。しかし同時に、あまりにも当然のことのようにそれを口にするジルは、偽りを述べているわけでもないのだろうともわかった。
そのくらいのことを、ジルはする。
ついさっきのあの燃え盛る炎を見て、わかっていた。
「さっきの発火は、ジルさんが起こしたんですよね」
足取りは早い。が、辿り着いたときに体力切れを起こしていて戦えませんではとても話にならない。だから多少の会話をするだけの余裕があって、その言葉はクラハの口を突いて出た。
ああ、とジルは頷いて、
「未剣に使ってるあの爆発と、手法はほとんど同じだ。クラハだったら、普通に自分に神聖魔法を使った方が近道だと思うけど」
「あ、いえ」
遮ったのは、まさかこの場で教えを請おうとしているわけではないからだ。どうせ教わったところでジルの言う通り、自分なら神聖魔法を使った方がよほど容易い対処法になるはずだし、そもそもあれほどの毒を自力でどうにかするほどの内功なんか、自分にはない。チカノだってできるか怪しいはずだと思う。
訊きたいのは、
「もう一度ロイレンさんが毒を使ってきたときに、対処可能なのかと思って」
そういう、とジルは頷いた。
「使われる前にどうにかする、って言い切れたらいいんだけどな。さっきも結局、神経毒のせいでトドメを刺し損ねたし、念を入れて損もなさそうだな」
クラハ、と名を呼ばれて、
「戦闘中のサポートを頼む。上手く立ち回るつもりでも、ロイレンがどのくらい奥の手を隠してるかわからないし、今はこれだから」
とんとん、と彼が裸眼の目元を叩くのに、はい、とクラハは返事をした。
想像の付くことだ。一夏をかけてまで毒を盛る周到さもそうだけれど、相手は外典魔装の二本持ち。そもそもが自分より遥かに格上の魔導師であることを思えば、何が出てきたっておかしくはない。
「わかりました。私では魔導師としては見劣りしてしまうとは思いますが、できる限りジルさんが有利になるように援護します。特に視覚面で何か察知できれば、それを報せる役も」
「ああ、それと――」
す、と後ろをついてきていたジルが、一歩前に出てくる。肩のあたりで、こちらに手のひらを向けている。
「さっきは、迎えに来てくれてありがとう」
その手のひらが、クラハにはとても大切なものに見えた。
言葉を返すまでは、ほんのわずかな時間だ。そのわずかの間に、クラハの頭の中では、心の中では、様々な記憶と思いが巡る。あの日、地下深くへと落ちていく彼に何もできなかったこと。そのままどこにも行けずに過ごしたばかりの一年。結局、迎えに来てくれたのは彼だったこと。
それから過ごした、春と夏。
自分は変わったなんて簡単に言えるほど、器用ではないけれど。
「――はい。頑張りましょう!」
何も変わっていないなんてことも、とても口にはできないから。
ぱちんとクラハはその手のひらに、自分の手のひらを合わせた。
近い、とジルが呟いたのは、それから大して間も空けずのことだ。
†
「あんた、博士のとこの技術屋さんじゃないかい?」
「お、」
振り向けばそれなりに知った顔がいて、デューイは眉を上げた。
逃げ込んだ先の、教会でのことだ。小さな町だけれど、こういうときのためだろう、礼拝堂にはそれなりの広さがある。避難してきた人々が外の様子を眺めながら不安のままに言葉を交わす中、デューイも同じくして、窓辺に立って町並みの向こう、聳え立つように碧く広がる樹海を見つめていた。
声を掛けてきたのは、中年の男だ。
知ってはいるはずなのだけど、咄嗟に名前が出てこない。デューイは不自然でない程度に溜めの時間を作る。思い出そうとする。結局、姿からじゃわからなくて、声から連想した。
「肉屋の、」
店主だ、と。
頷いた男は、どことなく安心したような顔に見えた。その顔を見れば見るほど、どうして一目見てわからなかったのだろうとデューイは不思議な気持ちになる。トレードマークのエプロンも帽子もないからか。あるいは最近は、買い出し当番が回ってくる機会が減って、彼を目にする回数が少なくなっていたからか。
いずれにせよ、安心したのはこっちも同じだった。
「ようやく知ってる顔に会ったぜ。大丈夫だったか?」
「いやいや、こっちもだよ。あの塔が出てきてからは知らない人ばっかりでねえ。教会に来ても同じだったから、心細かったんだ」
男は相好を崩して、愛嬌のある顔でふにゃりと笑う。おかげさまで、と手を広げた先には、中年の女と若い娘が一人ずつ。家族だろう。目が合えば、男と似た表情でぺこりとお辞儀をされる。
会釈を返していると、男が、
「そっちこそ、大丈夫なのかい。あの薬屋の先生は?」
心配そうに、そう言って訊ねてくる。
薬屋というのはロイレンのことだ。薬学の研究をしているだけではなく、彼は実際の取り扱いにも詳しい。単なる樹海研究者というだけではなく、時には森のほとりのよく効く薬屋として働いているということもデューイは知っているから、戸惑うこともなくすぐに頷いて、
「それがわかんねーのよ。ほら、今度もっと本格的な調査隊がこっちに来るって話してたろ。あの塔の関係で」
「ああ、うん」
「その前にこう……なんつーんだろ。そこまで行ける魔法の橋みたいなのを建てようって話になっててさ。ロイレンとか、何人かで最後に潜っていったわけ。オレは留守番組だったから、起きたらこんなんで、何がなんだか」
さっぱり、と頭を掻くと、そうかあ、と溜息のように男は言った。
「事故とか、そういうのかもわかんないか」
「いや、全然。オレが最後に行ったときはそんなのが起こる感じにも見えなかったし、そもそもあの塔のせいなのかもよくわかんないからな」
巻き込まれてなきゃいいんだけど、と呟いて、しかしデューイの頭の中には今朝見たあの文字が浮かんでいる。寝ている間に部屋の中に差し込まれていた、あの手紙。それに火の手が収まった後に起こった〈天土自在〉での爆発まで踏まえれば、一体どうして「巻き込まれていなければ」なんて楽観的なことが言えるだろう?
たぶん、とデューイは思っている。
自分たちは――少なくともあの研究所にいたうちの誰かは、今のこの事態に、すでに巻き込まれているのだ。
「あの助手の子なんかは? ほら、茶色い髪の。先生の親戚だっていう子」
男が言った。
「あの子は先生と一緒に樹海に?」
「それがさあ、オレと同じで留守番組なのに朝から姿が見えねーんだよ。こっちに来たら見つかるかと思ったんだけど、」
いねーし、と教会を改めて見渡す。
そうだねえ、と相槌を打つからには、男もまたネイのことを見かけてはいないらしい。
妙な胸騒ぎが、ずっと止まない。
「あ、でも、」
それを無理やり掻き消すように、デューイは口を開いた。
「さっき、ウィラエ先生っていう……その薬屋の先生の、そのまた先生。魔導師のエラい先生が陣頭指揮を取るとか言ってたから、何とかなるんじゃねえかな。多分」
そうかい、それならいいんだけど、と。その気休めが効いたのか効かなかったのか、何にせよ男は頷いた。うん、とデューイも頷いて返せば、樹海の空にあれだけ燻っていた煙は、いつの間にか消えている。
しかし、不穏な空気が消えたわけではない。一度『そこでは何かが起こる』とわかった以上、風のない森も、雲のない空も、今では嵐の前の静けさにしか映らない。
ぎい、と教会の扉が開いて、新たに避難民が入ってくる。教会で働く聖職者たちが、右へ左へと大慌てで走る。その急かされるような雰囲気に押されてか、どことなく、人々が口にする言葉も焦りに満ちて、落ち着かない空気を生み出している。
しみじみと、男が言った。
「なんだか、物騒な世の中になっちゃったねえ」
滅王だの、先史文明だのと。
デューイも、同じことを思った。もちろん魔獣の脅威がある以上、今までだって完全無欠に平和というわけではなかったけれど、それにしたって。
それにしたって、何だか最近は。
蓋をしていた何かが、どんどんその蓋を開けて溢れ出てくるような、そんな気がして、
「――おい。あれ、何だ?」
誰かが呟いた。
声の方に目をやれば、数人が窓辺に集まって、デューイたちと同じように外を見ていた。声に反応して、さらに人が立ち上がる。窓に寄る。怪訝な声で、何かを言い合う。
だからデューイも、すぐに同じことをした。
隣の男と一緒に、もう一度外の風景に目を凝らす。何だ、と呼ばれる何かを、そこに探す。
そうしたら、
樹海の、奥の方から、
†
最後の一筆を描いてから空を眺めていたのは、一種の惰性でもあったのだと思う。
「――来ましたか」
けれどその惰性は、足音が耳に届いて終わる。
樹海の中、開けた空間。青空を臨むその場所で、ロイレンは笑って振り向いた。
立っていたのは、ジルとクラハだ。
当然のように、とロイレンは本気で笑ってしまう。拙いなりに撒き散らしたフェイクの痕跡も、それからこのあたり一帯を取り巻くように展開していた毒霧も、このふたりは平然と越えてきた。
しかし、それも思えば当然のことなのだろう。
かつてはふたりの友人を葬ったこの場所を――あれほど難なく踏破してみせたメンバーのうち、ふたりもがそこにいるのだから。
「できればもう会いたくなかったんですけどね。特にジルさん、あなたのように優れた剣士と対面するのは、魔導師としては恐ろしくて堪りません」
「…………」
「本当ですよ。たとえそれぞれの分野で同じ程度の力量を持っていたとしても、魔導師は戦闘方面だけを鍛えているわけじゃありませんから。ユニスくんみたいな子は、大魔導師の中でも例外中の例外です。我々は基本的にただの学者であって、戦士ではないんですよ」
言葉を重ねても、ジルは口を開こうとはしなかった。
用心深いことだ、とロイレンは思う。恐らく彼は今、悠長に構えているわけではない。すでに戦闘行動に入っている。今はただ静止しているのではなく、先ほどの交錯を念頭に置いて、入念にこちらの準備を見極めようとしているだけなのだろう。もう逃げられないように。何かの秘策があっても、それを上から押し潰せるように。
しかし、もしも彼が今でも呪い破りの眼鏡とともにあったなら、すでにその視線は一所に留まっていたはずである。
何せ、隣に立つ彼女はもう、気が付いているのだから。
「だから、これから代役を出します」
それでもその言葉の含意に気が付いたのは、きっとジルの方が先だった。
彼の動きには、何の迷いもなかった。何度見ても、とロイレンは思う。見えることが奇跡だ。到底同じ生き物の動きとは思えない。『もっとも警戒される』に足るだけの説得力がある。自ら身体に打ち込んだ神経剤の効果がなければ、反応した瞬間には首を断たれていたって、何もおかしくない。
しかしもちろん、そんな相手と何の勝算もなく対峙することはないのだ。
「〈起きろ〉」
言葉にする方が、ずっと遅い。
大陸最強の剣士が、地面を抉るようにして迫る。剣が弧を描く。その初速ですらも風を切り裂いて、刃の切っ先を向けられた樹々が次々に断裂していく。
それでも魔法陣に残りのたった一滴、魔力を注ぎ込む方が早い。
それは、銀色に光り輝いた。
「――ッ」
「じ、」
反射のように彼が引いたのは、その光に反応して身を躱そうとしたからか。あるいはこれから呼び出されるそれの脅威を、本能的に肌で感じ取ったのか。いずれにせよ、それはロイレンにとっては非常に残念なことだ。
もしも彼が、ただ自分を仕留めることだけを優先して迫ってきていたなら。
呼び出した瞬間の衝突で、確実に仕留められたのだから。
樹海が揺れる。木々が、大地が、海が覆されていく。
とてもではないが、陸地の切っ先には収まらないのだ。初めに敷かれていた魔法陣など、それこそ最初の一秒ほどしか役に立たなかったに違いない。
始まりは、巨大な柱のように見えたことだろう。
やがて、それが五本あることに気が付く。
ロイレンは、そのうちのひとつに飛び乗る。呆然とするジルとクラハを眼下に収めながら、魔法陣から飛び出す『それ』の上で、ひたすらに痛みに耐え続ける。著しい動悸と発汗。震える右手をもう片方の手で握って、これだけはと、枯れ木のような杖を固く握る。
五本の柱が、繋がっていく。
それぞれの柱の長さは違う。もっとも西にあるものがもっとも短く、もっとも東にあるものがもっとも細い。真ん中に行くにつれて柱の背は伸び、しかし根元は丸みを持って膨らんで、そこから根元にかけて再び細くなっていく。
おそらく、それを目にしたものであれば誰もが同じ言葉を思い浮かべただろう。
〈天土自在〉の高さすら超えて、もっとも空に近い場所。夏陽の熱に頭を焼かれながら、
「――外典魔獣、上位種」
ロイレンは、その名を口にする。
「〈銀の虹〉」
それは空を掴み取るような、巨大な手だ。
魔力が充填される。
一撃目の指先は、ユニスとリリリアが占拠する〈天土自在〉へ向けて。