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11-2 できる限り



「クラハさん、漕ぐの代わるよ」

「だいっ、じょうぶ……です。まだっ……」


 ジルが顔色ひとつ変えずにやっていたことが、リリリアの助けがあってなお、自分にはこれほど厳しいものなのか。


 無力感すら掻き消すほどの疲労と戦いながら、クラハは樹海を流れる一本の水路に乗って、たったふたりだけが乗る舟をひたすらに漕ぎ続けていた。


「でも、」

「外典の、事件が待っているなら……私では、力不足です。辿り着いた、ときに、リリリアさんの体、力が、残ってないと……」


 一夜、ひたすら休むことなくそうしている。


 漕ぐための腕力をリリリアが付与してくれる。出力することすらままならないような力を何とか扱い続けて、疲労で動かなくなればそれをリリリアが癒して、また漕ぎ出すだけの燃料をくれる。


 背中から腕にかけて、全ての部位がもう、自分のものとは思えない。

 擦り切れるまで同じ動きを繰り返す木製細工――ジルとの稽古で培ったはずの忍耐力をひとつ残らず、金やすりで削り崩されるような時間だった。


 それでも、汗のひとつもかいていない。

 発汗による脱水を防ぐために、リリリアが直接体温に作用し続けて、身体の機能を保ってくれているから。


「――わかった、クラハさんの言う通りだね」


 言うと、彼女は、


「それなら中盤を私がやるから、その後もう一度クラハさんが漕いで。二回交代しよう」

「それは、」

「帰り道の方が難しいんだよ。行きと違って、あんなに高い目印がないから。クラハさんには道を覚えてもらわなきゃいけないし、そのために精神的な余裕を多少残してもらわなきゃいけない」


 代わって、と言いながらも。

 しかしもう、リリリアの言葉は『頼みごと』ではなく『決定』だった。


「……わかりました、すみません。お願いします」

「いいよ。たぶん、この感じだとクラハさんにはいざっていうときに前衛を張ってもらうから。そのつもりで身体を休めてて」


 オールを渡せば、リリリアは迷いなく身体強化の対象を自分に切り替えた。

 流石に一度もやったことがないのだろう、漕ぎ方は怪しい。しかし他者強化よりも自己強化の方が出力は大きくなりやすいという一般的な傾向のためか、あるいはこちらにかけるときは手加減してくれていたのか。リリリアは、その拙い漕ぎ方を上から塗り潰すような力で、舟を進めていく。


 休めと言われたから、クラハは腕から力を抜いている。

 しかし同時に、何もかも投げ出して休んでいられるほど余裕のある状況でもない。


「だいぶ、進みました」


 舟の上、ふたりの座る位置の間に置いた地図を見つめながら、クラハは頭の中で点を打つ。


 ふー、と深く息を吸って、吐いて、吸って、


「雨のおかげで発生していた濁流が、大きく助けになってくれています」


 リリリアの理不尽なまでの防護能力がなければ、どんな人間でも死に至るようなルートだったと思う。


 あの夜の真っ暗な――どこまでが陸で、どこまでが海なのかもわからないような樹海の中、彼女が舟ごと張った防護壁だけを頼りに突き進んだあの時間は、きっとこの世に生まれ落ちた瞬間の次くらいには、身動きも何もできない、恐ろしい一夜だったのだと思う。


 きっと、もう少し時間が経って落ち着いて振り返ることができるようになれば、その無謀に青褪めることもあるのだろう。


 が、今はそうする余裕も持たないから、


「ジルさんが舟を操った際の平均移動速度から考えると、昨夜の雨が降り出す段階で辿り着けただろう地点は、もうそれほど遠くはありません」

「そっか。でも、向こうも私たちみたいに移動した可能性があるよね」

「……昨日の雨量からすると、ありえない選択だと思いますが、」


 確かに、と。

 これが外典関連の出来事なら――というより、自分より遥かに優れた力を持つ先行隊なら、その程度のことをやってのけてしまってもおかしくないという気持ちで、


「そこまで考慮に入れるとして」


 クラハは、地図を指でなぞる。


「どうしますか。先行隊に問題が発生していないようなら、ジルさんたちがいるのはこの付近になると思います。捜索を主目的にするなら、もう少し先からは単なる前進以外の行動をとる余地もあります」

「捜索するなら、クラハさんは三人を見つけられる自信はある?」

「ありません」


 潔く、首を横に振った。


「南方樹海は〈魔力スポット〉として元々地形変化が頻繁に起こる土地ですし、昨日の大雨が思った以上に影響を残しています。捜索範囲は広大になりますし、向こうの状況と行動が読めない以上、短時間で探し当てることは難しいと思います。ただ、何かしらリリリアさんの方でその範囲を絞れる程度の手掛かりがあるなら、それに従います」

「…………」


 じっ、とリリリアは考え込む。

 真剣な――そう、かつてクラハが思い描いていたとおりの、いかにも聖女らしい静謐な表情で、


「〈天土自在〉に向かうしかない、か」


 彼女は決めた。


「ロイレンさんの裏切りがあるなら、最終目的地かはわからないけど、少なくとも中継地点としてそこには絶対に行くと思う。最悪なのは私たちが介入する前に目的を達成されることだから、先回りするにしろ追いかける形になるにしろ、できる限り最速で向かおう。ただ、」

「ただ?」

「私がロイレンさんだったら、〈天土自在〉までジルくんを連れてはいかない。この形の場合、申し訳ないんだけどジルくんとの合流は――」


 その先に続いただろう冷静な、しかし現実的な言葉が途切れたのは。

 ふたりが同時に、目を奪われたためだった。


 蛇行する海の上を行く舟。

 その進行方向から、西に三十度。


 それは、いまだ晴れ渡ることのない空を背景に現れた。


 ああ、とクラハは思う。



 狼煙だ。





「どぅおわぁっ!?」


 凄まじい音が研究所の中で響いている。

 そのためにデューイは、自分の部屋で飛び起きた。


 凄まじい音と言っても、爆発音のような物騒なものではない。

 何かのベルだ。目覚ましに使うようなそれが、どこかの部屋で鳴っているのだ。


 窓の外、カーテンの隙間から窺える空の色は、まだ暗い。


「んだよ、誰だ一体……」


 爆発音でこそないものの、音量自体は爆発と呼んで差し支えないようなものだ。何せ、そうして呟いた自分のひとりごとすら聞こえない。


 誰かがうっかり、目覚ましでも誤作動させたか。

 残っている面々を考えるとおそらくやったのはネイだけれど――リリリアはたぶん目覚ましをそもそも手元に置かないと思う――もちろん、自分がうっかり何かのブザーを放置して、実験室に置いてきてしまった可能性もあるから、


「ねっみ……」

 眉を寄せて呟いて、渋々デューイはベッドから降りる。


 音はどっから、と耳を澄ませようとした矢先のことだった。


「――何だこりゃ。紙?」


 デューイは、それを見つける。

 暗闇の中でも見えたのは、それが真っ白だったからだ。


 床の色が、一部分だけ変わっている。

 浮き上がるようにぼうっとした色で、ほんの手のひら程度のそれが、扉の前に落ちている。


 寝る前にこんなものがあった記憶はない。

 机から落ちたか、それとも。寝ぼけた頭で考えながら、鳴り響く音に眉間に皺を寄せながら、デューイは屈み込む。


 紙を取って、そのままでは読めないからと、窓際の方まで移動する。


 カーテンを開けても、大して明るくならなかった。昨日の凄まじい雨は止んでいたが、いまだに空にはいくらか雲がかかって、顔を出したばかりの朝日は頼りない。しかし今更わざわざ灯りを点けるのも面倒で、じっと目を細めて、




『これを読んで、もし心当たりがないなら。

 他の二人とは決して顔を合わせないようにして、研究所から逃げてください。』




「――はあ?」

 意味がわからなかった。


 寝起きで頭が悪くなっているのか、それとも現実のようで現実でない、変な夢の中にいるのか。試しに思い切り身をよじってみれば、実は自分がこうして窓辺に立っているのは幻想なのだとあっという間にわかって、ベッドの上でいつもの一日が始まるのか。


 わからないが、とりあえず。

 誰の字なのかを確かめるために、デューイは紙に顔を近付ける。


 次の瞬間、太陽が昇ったように視界が明るくなった。


「…………」

 咄嗟には、驚きの声も上げられなかった。

 ただ茫然と、デューイは窓越しにその明るさの正体を見る。


 他に似たものを見つけられないから、デューイは目の前に現れたその現象を、頭の中で正しく言葉にして認識することができた。




 火だ。


 樹海が、燃えている。




「なん――はあっ!?」

 遅れて、デューイは叫んだ。

 窓を開けて、まだ黒雲の立ち込める夜明けすぐの空にかじりつくようにして、それを見る。


 どう見たって燃えている。

 南方樹海の奥の方。〈天土自在〉からそう遠くない場所が、あかあかと炎に焼かれている。


「んなっ、な、……なん、つー」


 開いた口が塞がらないとはこのことで、樹海から焼け出した黒い煤が喉に張り付いてむせるまで、デューイはその場を動けなかった。


 げほ、ごほ、と窓枠に縋りつくようにして咳をする。あー、と喉からその煤を追い出そうと喉を震わせて、そのとき、手の中でさっきの紙がぐしゃりと潰れていることに気付く。


 もう一度読む。

 これを読んで、もし心当たりがないなら――。


「これか?」


 今まさに、その心当たりはできた。

 この手紙の主はこういう事態が起こることを見越していて、今も鳴り響いているこの音は警告のつもりで……いや、本当にそうか? 昨日の夜にこの手紙が置かれたとして、いくらなんでもあの場所の火事と関われる人間はいないんじゃ――


 悩む。

 が、とにかく、


「じっとしてる場合じゃねえ!」


 そこからのデューイは、速やかに行動を始めた。

 最低限の荷物を入れたバッグを手に取る。それからもしものために簡易な上着と丈夫な靴を。壁に肩をぶつけて、慌ただしく廊下に転がり出ていく。


「おい、火事だ! 逃げるぞ!」


 鳴り響くベルの音のせいで、張り上げた声が届いた自信はない。

 だからすぐに――もちろんデューイは、誰がどこの部屋に寝ているかくらい覚え切っている――自分以外の四人の部屋の前に行く。


 最初は、ネイから。


「ネイ! 起きてるか! 起きてなきゃ起きろ、樹海が燃えて――すまん! 後で死ぬほど謝る!!」


 呼びかけを早々に諦めて、デューイはドアノブを握った。

 手は、無意識に動いていた。どうせ鍵をかけているだろうから、このあと扉をぶち破るようなタックルを披露する羽目になるとわかっていたけれど、それでも一応、もっとも簡単な解決手段を頭が勝手に判断して、ほとんど自動的にその行動に移っていた。


 がちゃり、と。

 しかし何の引っ掛かりもなく、そのたったの一捻りでドアは開いた。


「……ネイ?」


 デューイは呼びかける。

 意味がないとわかっていたけれど、それでも。


 誰の姿もない。

 呼びかけには、誰も応えない。




 燃え盛る樹海に面したその部屋は――いや、その部屋だけではない。

 デューイはこの後、研究所の中に自分以外の人間を見つけることはできなかった。



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