11-1 信頼できないから
それは奇跡のように精巧なノックだったから、初めクラハは応答するのも忘れて、ただ茫然としてしまった。
夜のことだった。
いつまでも途切れることなく降り注ぐ雨の夜。夕食が終わって解散してからも随分長い時間が経って、もうすっかり昼行性の生き物は深い眠りに就いたような時刻。
眠っていたクラハを起こしたその音は、極端な方向性を持っていた。
真っ直ぐに、自分の耳だけに向かってくる音。自分の鼓膜の他には何も震わせなかったとしか思えない、あまりにも完璧なコントロール。
魔力による、何らかの技法のように思えるけれど。
こんなの、一体何十年かかればできるようになるのだろう。
そう思った次の瞬間に、「出迎えなければならない」と思い付いた。
そっとクラハは、暗闇の中でベッドから降りる。
できるだけ音は出さないようにしたのは、その精巧なノックの理由がわからなかったから。何か、自分だけにしか存在を報せたくない理由があるのかもしれないと、そう思ったから。
ドアスコープから外を覗き見る。
それから慎重に、音を立てないようにドアを開ける。招き入れて、閉じ切って、それから対面する。
「ありがと」
「……いえ」
リリリアだった。
確かに彼女ならあれだけの魔力コントロールができたことにも納得がいく。しかしその一方で、彼女がそうした理由をクラハはまだ掴めていない。自分から言葉を出すべきなのかどうかもわからなくて、少しのあいだ黙っていると、
「クラハさん」
リリリアが、普通の声で話し始めた。
大丈夫なのかと不安に思うよりも、彼女の変化の理由に気付く方が早かった。
音を消す神聖魔法。
目の前にいた自分ですら気付かないほどの速さで、あまりにも巧みに、この部屋の内壁にぴったりと寄り添うように展開されている。
「申し訳ないんだけど、今から付き合ってくれないかな。私ひとりじゃダメだから」
「は、はい。何にですか?」
「樹海に行く」
思考の空白。
「――今からですか?」
「そう、今から。すぐに準備できる?」
「できますけど、ふたりでですか? どこまで?」
「ふたりで。ユニスくんたちがいるところまで」
クラハは、リリリアの言っていることがわからない。
が、これはきっと冗談ではない。そのことはわかるから、
「先に行った三人に、何かあったんですか?」
「わからない。私にも確証はないから、行った先で何も起こってなくて取り越し苦労になるかもしれない――でも、条件が揃ってることに気付いちゃったから、取り返しが付かなくなる前に動かなくちゃいけない。そのために、クラハさんには道案内をしてほしい」
「……わかりました」
クラハは。
混乱しながらも、迷いなく答えた。
「最低限の荷造りなら、すぐにでも。ただその場合、道中でリリリアさんにかなりの負担を強いることになってしまいますが」
「大丈夫。クラハさんにもだいぶ私の魔法で無理してもらうことになっちゃうけど」
「構いません。いくつか下の階に置いている必需品もあるので、最後に研究所から出るとき、音消しの魔法をお願いしてもいいですか」
「わかった。他にも手伝えることがあったら言って」
それから慌ただしくクラハは動き出す。
クローゼットから上着を出す。バッグをベッドの上に引き出して、中身を確かめる。剣を腰に提げて、それから窓辺に干してある瓶もいくつか手に取って――、
「ひとつだけ、先に訊いてもいいですか」
それでも、どうしても気になったから。
うん、とリリリアが答えてくれたのを受けて、作業の手を止めないようにしながら、クラハは口にする。
「どうして、デューイさんたちから隠れるように私のところに?」
「信頼できないから」
リリリアの返答には、何の迷いもなかった。
驚いて、思わずクラハは彼女を見る。
いつものあのやわらかい笑顔ではない。ひどく真剣な表情。
樹海のほとりの、暗い夜。
淡々と、リリリアは答える。
「ロイレンさんが、滅王の側についてるかもしれない。
だから、クラハさんしか信じられない。
ロイレンさんと確実に繋がっていないのは、あなたしかいないから」
†
「起きましたか」
深い海の底から、心が少しだけ浮き上がる。
そんな風にして、ユニスは眠りから意識を覚ました。
「仮眠室からベッドでも持ってこられたらよかったんですが、すみませんね。私もまだ、ここの構造を完璧には把握できていないんです。簡素ですが、蔦のベッドで許してください」
仮眠。
ここ。
構造、蔦、簡素、ベッド。
言葉がふわふわと浮いている。音はわかるのに、それに伴うイメージが湧かない。自分で自分の頭を動かせない。
だから代わりに、身体を動かす。
じくり、と腕に痛みが走った。
「ああ、動かないで」
ユニスは、痛みの元に目をやろうとする。
が、その動きすらも許されない。首にちくりと針のような痛みがあって、本能的に身を固める。
「茨のベッドです。逃げられては困りますから、動けないようにさせてもらいました。それにも麻痺毒はありますから、あまり無茶しようと思わないでくださいね」
茨。ベッド。痛み。逃げる。動けない。
毒。
ぴた、とその言葉が記憶にハマった。
「――ジルっ、」
「あまり、今のは忠告らしく聞こえませんか」
起き上がろうとした瞬間を、強く締め付けられる。
それでようやくユニスはわかる。今、自分が仰向けになっていること。棘のついた蔦に身体をぐるりと巻き取られて、身動きできなくされていること。
「ロイレン、博士」
そして聞こえてくる男の声に、思い出している。
あのとき、朦朧とする意識の中で自分は見た。
ジルが倒れているところ。
力なく雨の中に突っ伏して、動かなくなっているところ。
「何を……」
「しかし一応、これはちゃんとした忠告なんですよ。あまり動かないでください。毒の量は調整できますが、一度発生した影響を完全に除去できるわけではありませんから。身体には確かに悪いんですよ」
答えては、くれないのだろう。
そう思ったからユニスは、少しでも自分にできることを――これまでの人生において自分を常に守り続けてくれた、あの馴染み深いものに頼ることを決めた。
魔法。
秘かに、知られないように、小さく魔力を練る。
「当然、君を動けないようにするための手立ては十全に施しています。よほど画期的な方法が思いついたなら別ですが、安易なものを試してもお互いにとって時間と労力の無駄ですから、事前に諦めてもらうと助かります」
毒が相当回っているのだと思う。
上手く思考がまとまらない。思考がまとまらないから、上手く魔法の完成形が構想できない。
そうなると、当然単純な魔法を使うことになる。
ほんの数滴の水を、空に浮かべた。
反射と拡大の組み合わせだ。
水滴を鏡とレンズの二つの役割で使用する。どこを見るかが上手く定まらない。けれどいつでも自分に応えてくれた技術だから、手探りだって調整できる。
見える。
部屋だ。
見覚えがある。思い出す。思い出そうとする。記憶に当たる。ものすごく最近のことだ。一度見たことがあるし、忘れてもいない。後は名前を付けるだけ。
迷宮。
違う、人が作ったもの。古いもの。古いのに、今ある最新のものよりもずっと優れたもの。遺跡。違う。もっと何か、特殊な。
先史遺跡、と思い出した瞬間に、
「具体的には、そういうものですね」
ぱちん、と音が鳴って、水滴が消えた。
「――――、」
「確かに君は他の大魔導師たちの追随も許さないほどの天才だとは思いますが、流石にこの状況で張り合われるほど私も魔法が下手ではありません。と言って、いちいち対応するのも面倒ですから」
ぱちん、ともう一度音が鳴る。
「私が折れましょう。これで一旦、満足してもらえませんか」
するすると、蔦が動き始めた。
どこをどう動かしても刺さるはずだった棘が、ひとつも刺さらない。ユニスの身体はどこにも力を入れないまま、自身の意思とは反して体勢を変えられていく。
仰向けから、少しだけ上体が持ち上がる。
水滴を用いずとも、肉眼で見えた。
先史遺跡〈天土自在〉。
その制御室。
ロイレンは、その白い壁の前――古代文字の浮かび上がった制御機構の前に立っている。
「今、私が取り組んでいるのはこの〈天土自在〉の制御です。なかなか全てを把握するには時間がかかりそうですが、まあ、目的は魔力を引き出すことですから。最悪、機構を起動できなくても絞り出すことさえできれば構いません。怪しまれるような時間はかけないつもりです」
「……何の、ために?」
「もちろん、魔法を使うためですよ」
元々古代言語に関する素養を隠し持っていたのだろうか。それとも今この瞬間も学び続けているのだろうか。ロイレンは次々と壁に現れる情報を処理しては、淀みなく何らかの操作と探索を繰り返している。
その姿がユニスには、見えている。
だから、まだ魔力を練っていた。
「僕を、こ、こまで……」
「ええ。お察しのとおり、君をここまで連れてきたのもそのためです。どうしても私の実力では扱えない魔法がありまして」
少しずつ、意識が覚めてきている。
魔力は、元々枯れ切ったりしたわけじゃない。あるものを、思うように使えなくなっているだけ。大規模な力は使えない。だから、ほんの一掬いでいい。
研ぐ。
刺し貫くのに、十分な鋭さまで。
「できればユニスくんにも、協力してもらえるとありがたいんですが」
何がどうなっているのか、ユニスには全くわかっていない。
ロイレンにどういう背景があって、どういう目的があって、今自分が何のため、どういう進行過程の中に身を置いているのか、全く理解できていない。
けれど。
友達を迎えに行かなければならないと、それだけは強く、強く思えたから。
ロイレンの身体が動く。
右足が一歩下がる。踵の向きが変わる。肩が下がる。髪が揺れる。脚に力が入って、腰がねじれて、それに追い付くように上半身が回り出して、輪郭が、頬が、瞳が、
ゆっくりと、
ゆっくりとロイレンが振り向く、その瞬間、
「〈貫――」
「〈食らえ〉」
放たれるはずの魔法が。
ロイレンの手に、奪い取られた。
「本当に恐ろしいな、君は。その状態から、これだけの攻撃魔法を用意できるのか」
「っ、今、」
水の槍は、完成していたはずだった。
確かに、費やした魔力は乏しい。けれどユニスには、自信があった。あれだけ練り込んだものなら、自分の技術で作り上げたものなら、発射速度や威力の不足がありえたとしても、唯一存在しない『失敗の形』がある。
消失。
崩壊。
「魔法が、きえた――?」
そもそも自分は。
生まれてこの方一度も、そんな形で魔法を失敗したことなどないのだから。
「もう一度、改めて言っておきましょう」
ロイレンは。
ユニスの兄弟子に当たる存在であり、師であるウィラエと同様に大魔導師に匹敵する力量を持ち、魔法薬学の若き権威として数々の業績を持つ、優れた魔導師は。
「君をここに連れてくるに当たって、私は十全たる対策をしています」
幼い子どもに言い聞かせるように、語る。
「ひょっとすると自覚はないかもしれませんが、最高難度迷宮攻略後――滅王を再封印した後の君は、まず間違いなくこの世で一、二を争う魔法の使い手です。魔法技術の発展の歴史を思えば、有史以来一、二と言い換えてもいいでしょう。私はその事実を過小評価するつもりはありませんし、当然、それを念頭に置いて対策を練っています」
彼は、悠然として歩み寄ってくる。
冷静そのもの、この夏ユニスが見て取ったとおりの、穏やかな、風のない日の樹木のような、凪いだ足取り。
「その上で、こう断言します」
けれど。
その手には、
「君は何もできません。
この魔杖が――滅王が遺した外典魔装が、私の手にある限り」
†
その頃、乾いた泥の中で、
ぱき、と微かに、倒れた剣士の指が動いた。