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10-3 叶うときは叶っちゃうんだなあ



「本当にギリギリでしたね。すごい雨だ」


 樹海の奥深く。

 木と蔦に隠された洞穴の中から、ジルたちは外を見ていた。


 バケツをひっくり返し続けているような雨だった。

 滝のような音を立てて、天から水が降り注ぐ。地にぶつかれば土を抉って、辺り一面を泥まみれにして、ほんの一瞬のうちにその泥すらも溶かして海へと流れ込む。


 それなりに奥行きのある洞窟なのだと思う。

 入り込んできた雨音が遠く、反響しながら遠ざかっていった。


「ね。ジルって漁師なんかにも向いてるんじゃない? 嵐の気配もわかるし、パッと行ってパッと魚も獲って帰ってこられるし」

「素潜りと手掴みしかできなくてもか?」

「そこはほら、文明人として道具の使い方を覚えてもらってさ」


 入り込んですぐに、ロイレンがその場を整地した。

 今は彼は、雨が入り込んでこないように洞穴の入り口に土壁を築いていて、一方でジルはユニスとふたり、すでに整地の終わったその場所で火を囲んでいる。


 火はもちろん、ユニスが点けて。

 ジルはその上で、ついさっき取ってきた魚を炙っている。


「ていうかそれ、魚の肉が炙られてるってことはそれを持ってるジルの手も炙られてない? 炙りジルになっちゃうよ」

「大丈夫だろ。肌強いし」

「これってそんな『肌強いから日差しも平気』みたいなトーンの話?」

「ユニスくん、これ。使ってあげてください」


 入り口の方から、ロイレンが何かを投げる。

 わ、とユニスが危なっかしい動きで手を広げるから、ジルは横から手を出して、それを代わりに受け取ってやる。


 数本の木串。

 どこかでこうなることを見越して作っておいてくれたのか。準備のいいことだ、と感心しながらジルは魚に串を通そうとして、どこをどう通したものかと凝視して、それに危機感を覚えたのか、「僕がやる」と横からユニスが入ってきて、凝視して、


「やっぱり私がやりますよ」


 結局、苦笑するロイレンがやってくれた。


 火の、ぱちぱちと弾ける音。

 魚の、じりじりと焼けていく匂い。


 これ他の動物とか寄ってこないのかな。火もありますし、大丈夫じゃないですか。寄ってきたらそいつも焼いて食おう。怖いよ……そんな会話を交わしながら、数尾の魚を平らげる。


 それでも、まるで雨勢に衰えはなかった。


「今日は流石に、これで終わりか?」

「ですね。ここから上がっても、ぬかるんで厳しいでしょうから。早めに寝て、早めに動き出しましょうか」

「なかなか厳しいよ。朝型の生活は」


 えーっと、と。

 ユニスがバッグから地図を取り出して、


「今日は……このあたりまで進んだのか。ハプニングだったけど、やっぱり日中の進みが良いから全然余裕だね」

「そうですね。明日には着きそうだ。あ、おふたりとも。コーヒーは飲みますか?」

「ココアがいいな。眠れなくなっちゃうし」

「俺もそれで。ロイレンは大丈夫なのか?」

「ご心配なく。私は普段から飲みすぎて、もう眠気覚ましが効かなくなっちゃってるんですよ」


 身体に悪いぞ、とジルは言う。

 はは、とロイレンは笑うと、指を鳴らして焚火の上に薄い土の網を作る。さらにそこに、水を注いだ金属のポットを置いた。


 ことことと、それが熱されていく。

 夕方くらいの時間だろうに、すっかり洞穴の中は夜だった。


 火の明かりばかりが煌々と眩く、三人の影をそれぞれ壁に落とす。

 手持無沙汰のジルはそれをぼんやりと見つめて――、


「あ、」


 そういえば、と思い出した。


「『遠ざかるほど、大きくなるもの』」


 ずっと昔のようにすら感じる、そのフレーズ。

 この南の国での夏の始まり――あの港で投げかけられた、あの言葉のことを。


 ユニスがこっちを見た。


「どうしたの、ジル。急に」

「そういえばあれ、結局答えを聞いてなかったなと思って。忙しいから忘れてた」

「え、そうだっけ?」

「なんで覚えてないんだ。自分で出した問題だろ」

「ね。作るときはウキウキだったんだけど……って、あれはジルが全然謎解きしない道で解いちゃったからでしょ?」

「……ああ、そうだっけ」

「絶対覚えてるでしょ、その言い方。あれ、本当はもっと街中をぐるぐるスタンプラリーみたいに歩かせるつもりだったんだよ」


 言い合えば、不思議そうな顔でロイレンがこっちを見ている。

 ああ、とジルは、


「ここに来たときの話なんだけど――」


 かいつまんで、その話をする。

 船を降りて港で待っているうちに、謎解きのような一文がパラソルに書かれているのを見つけた。それが『遠ざかるほど、大きくなるもの』。


 てっきり、影のことだと思ったのだけど。


「実際に太陽の下でやってみたら全然そんなことにはならなくてさ。今、その影を見てたら思い出した」

「……ああ」


 ロイレンが、薄く微笑む。

 面白いことをしてるなあ、と彼は言って、


「こういうことですよね」


 少しだけ腰を浮かせて、自分の影から遠ざかる。

 すると当たり前のように、岩壁に映り込む影は、さらに大きくなった。


「……あれ?」

「ユニスくんは、ウィラエ先生に教わったんですか?」

「うん」

「懐かしいですね。これ、私も学園の初等物理でやりましたよ」


 そんなに不思議なことじゃないんですよ、とロイレンは言った。


「点光源と面光源では、光の当たり方が違うんです。斜めに入る光と、平行に入る光を想像してみてください」


 カリカリと、地面の上に簡単な図を描く。


「斜めに入るなら、こうして壁から遠ざかればその分こうして影が大きくなるんですが、平行に入るなら影の大きさは壁との距離では変わりません。太陽はとても遠いので、光源としてはこの平行に入る光を生み出す面光源に近いんですよ」

「……ほう!」

「本当にわかってる?」

「何となくは。太陽のものすごく近くまで行けば、メンコウゲン?じゃなくてその逆になるってことだろ」

「……うん。合ってはいるんだけど、わかってるかどうかは判断しがたい言葉だね」

「そんなに難しく考えなくても平気ですよ。壁との距離によって影の大きさが変わる光と、変わらない光があるってことです」


 なるほどなるほど、とジルは頷いて、


「じゃあ、『遠ざかるほど、大きくなるもの』ってやっぱり影のことでよかったのか」

「一応。だけどやっぱりその感じだと、そもそもジルってそのフレーズも知らないんだね」

「ん?」


 有名なのか、と聞くよりも先に、ロイレンの顔を見てジルは理解する。


「何か別のメッセージがあったのか」

「まあね。ジルって教会周りの話も全然知らないから、予想はできないでもなかったけど。でも童話まで共通してないとなると、僕が想像してるよりもジルって北の奥の方の出身なのかな」

「かもな。オレの生まれたところより北に誰かが住んでるって聞いたことないし」

「へえ、そうなんですね」


 ロイレンが興味深げに言った。


「全く知らないんですか。『竜の空』という題名も」

「知ら……ああいや。リリリアから名前だけ聞いたかも。有名なのか?」


 そうですね、と頷いて、


「学園でさっきの話をするのも、有名なフレーズを使って覚えやすくしようという趣旨ですから。こんな話です――」


 ロイレンは、語り出す。





「昔々、あるところに鳥の群れがありました。

 けれどその中に一羽、毛もなく、鱗もなく、飛べもしない鳥がおりました。


 彼はいつも、鳥たちが空を飛んで交わるのを遠くから見ていました。

 そして、孤独に思うのです。


 ああ、あんな風に僕も、大空を飛ぶことができたなら――」





 そこで物語が途切れたのは、ロイレンが、こっちの表情をよく観察していたからだったのだと思う。


「なんだか心当たりがありそうな顔ですね。聞いたことがありましたか?」

「ある……けどそれ、最後にその竜って死なないか?」

「え?」

「し、死なないよ! 何その悲しいストーリー!」


 ジルの趣味なの、と訊かれる。

 別に趣味ではないけど、と答える。


「じゃあ、違う話かな。似たような導入は知ってるんだ。狼の群れからはぐれて雪原に出て行く一匹の……で」

「死ぬんですか?」

「死ぬパターンもある。……と思うんだけど。聞いたのが昔すぎるから、本当のところは知らないな。適当吹き込まれてたのかもしれないし」

「へえ。ユニスくん、知ってます? あ、お湯が沸いたので、ふたりともココアからどうぞ」

「ども」

「ありがとう。僕も聞いたことないな。というか、ジルの地元の話をどうこう言うつもりじゃないけど、悲しすぎるでしょその話」

「どうこう言ってないか?」

「言ってないことにしてよ」


 こっちの話はね、とユニスはココアに口を付けて、


「もっと明るい話なんだよ。最後には竜が仲間を見つけて飛び立って、自分が飛ぶ空を見つけられました。めでたしめでたし、って」

「全然違うな」

「違うんだよ」

「違いますね。ジルさんの言う通り、ベースにある類型は何となく似通っている気もしますが」


 うん、とジルも頷いて、ユニスとほとんど同じタイミング、カップを口に運ぶ。


 雷の音も、それと同時に鳴り響いた。


「うお、すごいな今の」

 ごどど、と洞穴ごと震えるような地響きに、思わずジルは顔を上げた。


「近くに落ちたかな?」

「どうでしょう……と。すみません。私、ちょっと外しますね」

「何か問題がありそうか?」

「いえ。さっき、どうせいつものようにすぐに雨脚は弱まるだろうと思って、土嚢に手を抜いてしまったんですよ。どうもこの調子だと一晩中降り続きそうですし、少し補強してきます」


 手伝おうか、とユニスが腰を上げる。

 いえ、とロイレンはそれを断った。


「代わりにお湯を沸かしておいてもらえますか。そのポット、小さいからふたり分が限界なんです。私のコーヒーの分と、あと、おかわりがしたければその分も」


 了解、とユニスが答えればロイレンはいつもの落ち着いた足取りで、火から遠ざかっていく。


「ジル、おかわり要る?」

「飲んでおくか。これで海が氾濫でもしたら、しばらく落ち着いて飲み食いできなくなるかもしれないし」

「怖いこと言わないでよ……僕も飲みたくなってきた」

「ならロイレンとユニスの分が先でいいぞ」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」


 ポットに水が入る。

 土網の上に乗せられて、再び少しずつ、その中身が熱されていく。


 あ、とジルは思い出した。


「さっきの」

「ん、何?」

「途中で話が逸れたけど、結局なんでその『竜の空』ってやつが『遠ざかるほど、大きくなるもの』に繋がるんだ?」


 ああ、とユニスが頷く。


「肝心のそこを説明してなかったね。有名なフレーズなんだよ。主人公……まあ、自分を鳥だと思い込んでる竜なんだけど、その子がじっと、群れの鳥たちを見つめながら思うんだ。『普段はあれだけ近くにいる群れの仲間たちが、あんなにも遠くの空を飛んでいる』」


 しかし、と。


「『普段傍にいるときは、あれだけ小さな仲間たちなのに、どうしてだろう。今ばかりはあの空に飛んでいる彼らを見るだけで、こんなにも心が圧し潰される。あの遥かな空に、ああして点のように飛び交う姿の、何と大きなことか』……それで、『遠ざかるほど、大きくなるもの』」

「……『友達』?」

「そ。子ども向けのなぞなぞなんかにもよく使われるんだ。『なーんだ?』ってね」


 大正解、とユニスが笑う。


「じゃあもしかして、俺がその『竜の空』を知ってたら、あの暗号を見た瞬間に『ユニスからか』ってわかったってことか」

「それ、『友達』と僕が君の中で結び付いてるってこと?」

「そうだけど」


 頷けば、


「…………僕、」


 ユニスが少し声の調子を落として、


「子どもの頃から、この話が好きでね」

 うっかりすれば、雨音に紛れて聞き落としてしまうような声。


 ジルは少し、ユニスの方に肩を寄せる。

 焚火の明かりが、ふたりの頬をあかく照らしていた。


「いつか、そういう結末が自分にも来てほしいって思ってたんだ。変わり者で、周りと上手くやれなくて、それでもいつか、自分を受け入れてくれる場所と、友達になってくれる誰かが目の前に現れて――そんなの都合の良い、寂しい子ども向けのおとぎ話だって、今ならわかるけど」


 でも、とユニスが顔を上げる。

 ぱち、と目が合う。揺れる炎に、瞳も揺らめく。



「そんな夢物語も、叶うときは叶っちゃうんだなあ」



 屈託のない表情で。

 これ以上ないくらい無防備な顔で、ユニスは笑った。


 そうか、と一言、ジルは応えた。

 もう少し何かを言うべきだろうか――言葉を探し、けれど何も見つからない。無性に頭を撫でてやりたいような気もしたけれど、大人と子どもじゃあるまいし、そんなこともできない。


 だから、ただ。

 ただ何も言わずに、隣に座り続けていた。


「ロイレン博士、遅いね」

「な」

「博士が戻ってくる前に恥ずかしい話は終わらせちゃおうと思って、ちょっと早口にしたんだけど。全然時間が余っちゃった」

「そんな計算してたのか?」

「嘘。全然してないよ。でも、ちょっと気になるな。何かやってるのかも」

「様子、見てくるか」

「うん。あ、でも。ポットを火にかけたままだから、どっちかは……ジル、残っててよ。土嚢に手こずってるなら、僕の方が適任でしょ」

「了解。ひとりで行けるか?」

「入り口まで何歩だと思ってるのさ。一本道だよ?」

「全然迷う余地はあるだろ」


 ないって、とユニスが笑う。腰を浮かせて立ち上がる。

 倒れる。





 倒れた。





「――は、」

 一瞬、ジルは何が起こったのかわからなかった。


 反応が遅れた。

 それでも常人からすれば十分迅速と言って差し支えないだろう――そんな素早さでジルも立ち上がる。屈み込む。


 ユニスが倒れている。


 さっきまで普通に会話して、笑い合ったりしていたのに。

 今は物も言わずにうつ伏せに、力なく突っ伏している。


「おい、」


 肩に手を添える。

 ひくり、とそれが震えた感触がしたから、まだ意識があるはずだと思って、頭を揺らさないように丁寧にひっくり返す。


「どうした、しっかりしろ!」

「…………」


 瞳が、上手く視線を使えていない。

 意識はある――が、明らかに混濁している。


「ロイレン! ロイレン、こっちに来てくれ!!」

「――――どうしました!?」


 大声で叫べば、慌てた様子でロイレンが入り口の方から現れる。

 彼は一目こっちを見るや、顔を引きつらせて、


「何があったんです」

「わからない! 突然倒れて――」

「どいてください。見てみます」


 ロイレンと位置を交換する。

 彼は慣れた手際でユニスの瞳を覗き込むと、


「――毒か」

「毒?」

「ええ。南方樹海を原産とする植物毒です。どこかで肌に傷を付けてそこから入り込んだのか……かなり珍しいですが、幸い、中毒症状にはそれほどの即効性はありません。神経麻痺による臓器急不全を避けながら適切な処置を施せば――そうだ、表の入り口」


 振り向いて、


「ジルさん。この洞窟から出てすぐのところに、毒下しの原料に使える植物があります。六角形の葉の植物なんですが、頼めますか」

「わかった。どのくらい必要だ?」

「取れるだけ――いや、片手に余るくらい取ってきてもらえれば」


 そこまで聞いたら、ジルはもう走り出していた。

 ユニスの言ったとおり、焚火の場所から洞窟の入り口までは一本道だった。ほんの数歩とはいかず、十数歩はかかったけれど、それでも迷ったわけではない。


 夏の夜の、しかしぞっとするほど冷たい雨が降っている。

 ジルは洞窟の屋根の下から、その雨の下に身を晒した。


「くそ、暗いな……!」


 もう、完全な夜になっていたのだろうか。

 分厚い黒雲はいつまでも滝のような雨を落とし、煙のように視界を遮る。星明かりも月明かりも、まるでこの夜には届かない。自分の腕の形すらも怪しくなってしまうような闇の中。


 六角形の葉を、必死に探す。



 不意に上体が傾いだ。



「――――っ!?」


 手を突いて、咄嗟に支える。

 一瞬の動揺。それからすぐに、ジルは自分の身体の状態を確かめ始める。


 泥に足を取られたわけじゃない。


 腕と足に、痺れ。

 三半規管の乱れ。


 呼吸が荒くなっている。身体が熱を持ったように、怠く感じ始めている。小刻みに筋肉が震えている。神経が奇妙に昂って、今にも叫び出しそうになる。


 身体が腐るような、抉り取られるような、強烈な痛み。


 毒だ、と気付いた瞬間に、違う、とも気付いた。


 ありえない。

 だって、ユニスならともかく、自分が『植物程度で肌を切る』なんて、起こりえない。


 護衛の任に就いている以上、樹海の探索中に気を抜くなんてことはしない。

 常に不意打ちに警戒し続けているなんて、気分の問題だけじゃない。十分な内功を行使している。よほどのことが――それこそ金属の鋸で肌を削られない限りは、植物毒が体内に入るなんてことは起こらないし、そんなことがあったらどれだけ鈍感でも気付く。


 空気、水、それ以外。

 体内に取り込むものを数え上げて、それで、


 ジルは、






「――――驚きですよ。

 あの毒の量で、ユニスくんの方が先に倒れるとは思いませんでした」






 歩いてきた答えと、向き合わされることになる。


 降りしきる雨と、煙る視界の中、シルエットは朧だった。

 しかしわかる――わかってしまう。この夏を過ごした相手だから。それなりに、見知ったつもりでいた相手だから。


「遠くから失礼しますね。あなたと正々堂々向き合うだけの無謀さは、私にはありませんから」


 ロイレンが。

 ユニスを抱いて、そこに立っている。


「な、にを――」

「盛った毒でしたら、ユニスくんについてはさっき伝えたとおりです。基本的には麻痺毒ですし、扱いも熟知していますから。そんなに心配しなくても平気ですよ」


 ただ、と。

 ロイレンは、普段と全く変わらない声色で言う。


「ジルさんに盛ったのは、致死毒です。この夏、あなたの規格外ぶりは間近で見てましたから。象だろうが鯨の群れだろうが問答無用の致死毒を、致死量の千倍ほど入れせてもらいました」

「――――お、っ、」

「色はともかく風味まで完全に消せたとは言い難いので、雨の匂いがわかるその鼻で嗅ぎ付けられないか、少し不安だったんですが。ココアが塗り潰してくれたから助かった――しかし、調合には苦労したんですよ。当然、解毒方法なんて私の他に誰も知りません」


 ジルは、とうとう支えをなくした。

 べしゃり、と身体が思い切り地面に倒れ込む。泥が跳ねる。ぬかるんだ土の中に、顔の半分が埋まる。鼻と口が覆われて呼吸が――と心配するより先に、もうほとんど、気管が開こうとしない。


 ロイレンは、決してそれ以上近付いてこない。

 あとほんの数歩も距離が詰まれば、その足を噛み砕くつもりでいるのを、見透かしているかのように。


「とどめを刺した方が確実なんでしょうが、残念ながら私には、あなたの間合いに踏み入る勇気がありません」


 ぱちん、とロイレンが指を鳴らす。

 降り注ぐ雨が、槍となってジルの背中に突き刺さる。


「――――ッ!!!」

「まあ、専門でない魔法ではこんなものでしょうね。土と木では、下手をすればあなたに投擲物を与えてしまう結果になるでしょうし」


 ここまでです、と。

 霞む視界の中で、ロイレンが踵を返すのが見えた。


「ま、て――……」

「ああ、そうだ。ひとつだけ」


 振り向きもしないまま。

 遠ざかる足を止めることもしないまま。


 ロイレンは、言った。




「友情なんて、こんなものですよ」




 泥の上に残された足跡が、雨に流されて消えていく。


 洞窟の中に灯っていた明かりも、やがて、消えた。



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