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10-1 良いことだよ



 と、張り切って旅立ってみたはいいものの。


「暇だね」

「暇ですねえ」

「……一応、俺はこうやって頑張って舟を漕いでるんだが」

「私たちも舟を漕いでみましょうか、ユニスくん」

「こっくり……こっくり……」


 平穏そのものの夏。

 樹海を横切る一本の水路の上で、ジルはユニスとロイレンとともに、ひどくのどかな旅路に身を置いていた。


 ぱしゃん、と櫂が水を押す音すらも柔らかい。

 少しずつ夏は終わりに近付き始めているけれど、それでも日中まだまだ日差しは強く、海水の温かさがそのまま伝わるような、そんな音だった。


 ぴー、と一際高い声を上げて、真っ赤な鳥が空を横切っていく。


「不思議だね」

 ちょっと口を開くような、呆けた顔でユニスが呟いた。


「どうしてあんなに真っ赤な鳥がいるんだろう。空が青いから、あれじゃ目立って仕方ないんじゃないか」

「普段は夕方に動いてるのが、たまたま寝ぼけて昼に出て来たんじゃないか?」

「それ名推理かも」

「あれは秋鳥ですね。樹海の中には紅葉する地帯があるので、北の方からこっちに渡ってくるときに体色が変化するんですが……少し、秋に先駆けてこっちまで来てしまったようです」

「全然ハズレだったね」

「推理って合ってるとか合ってないとかの問題なのか? 大事なのは仮説の検証プロセスで……」

「なんか研究者っぽいこと言ってる。影響しちゃったかな」


 学名は、とロイレンが言う。

 へー、とジルはユニスとふたり、大人しくそれを聞く。


「実際のところ自分で自分の体色を選べるわけでもないので、今の説明も少し順序が違ってしまっているんですけどね。冬を前に南の方に渡ってくる鳥のうち、たまたま体色と周辺環境の色が一致する一群がいる、というのがより正確な説明でしょう」

「へー……。そういうのもいるなら、じゃあ結構、夏が過ぎると樹海にいる生き物も様変わりするのか?」

「そうですね。渡り鳥が結構来るのもそうですが、海流の関係で水棲生物もかなり大きく変わりますよ。ジルさんは、クジラは見たことがありますか?」

「ある」

「えっ、あるの? いいな~」

「ユニスくんも冬まで粘れば見られ……ますかね。去年は群れが来ていたんですが」

「粘ろうかな」

「鳥と魚か。陸の生き物は流石にそんなに動かないのか?」

「素直に冬眠するのが多いんでしょうね。陸路の移動は人里への影響も大きいでしょうし、そういう渡り歩くような生き物は数を減らしたんじゃないでしょうか。小動物はともかく、私の知る限りでは大型の陸棲生物でそうした移動をするものはいませんね」


 へー、ともう一度頷けば、再び穏やかで、静かな旅が始まっていく。


 夏の盛りは、恐らく過ぎたのだと思う。

 まだ〈天土自在〉の存在も知らなかった頃――〈震え〉の正体もわからないまま、もしかしたら再び滅王に絡んだ恐ろしい事件が起こるのではないかと、内心では戦々恐々としていたあの頃。もっと森は賑やかで、やかましく、生命力に溢れていた。


 しかし、海を泳ぐ魚も。森の洞から洞へと渡る蜥蜴も。縄張りを争って尻尾をぶつけ合う鼠も。木の実を投げ合って遊ぶ鳥も。短い季節に焦がれるように羽を鳴らしていた虫たちも。


 今や、この季節の終わりを悟ったように。

 どこか落ち着き払った様子で、森の中で呼吸を続けるばかり。


 実際、とジルは思う。

 真っ赤な鳥が白い雲を縫うように飛び去って、その残像すらも見えなくなった青い空を見上げながら。


 少しは苦労するかと思ったが、あれだけわかりやすい目的地の目印があって、ロイレンの慣れた道案内があれば、自分たちにとってはそう大した道のりではない。


 時折現れる魔獣は斬って沈めて、海に浮かぶ間はただ舟を漕ぎ、海が途切れれば舟を少しばかり背負って、泥の中を踏み進むだけ。行って帰ってひょっとすると二週間と見込んでいたが、案外と片道なら三日やそこらで済んでしまうかもしれないとすら思う。


「そういえば、動物で思い出したんだけど」


 だからだろう。

 そんな他愛のない疑問が、頭を過った。


「竜って、本当にいたのか?」





「神聖魔法の真髄――それは、掃除」

「…………」

 そのころ研究所で、クラハはリリリアに適当なことを吹き込まれていた。


 朝食が終わって、ジルたち一行を送り出して、しばらく「すまん忘れ物」と慌てて帰ってきたときのために待機して、それからデューイと肩を並べて昼食の準備をして、食べ終えて――、


 今はリリリアとふたり、後片付けの時間で。

 その後片付けを瞬きの間に終わらせてしまった人の言葉だから、いまいちクラハは、「それ絶対嘘ですよね」とも言えずにいる。


「……それは、」


 間合いを測りながら、


「本当のことですか」

「最近クラハさん、ちょっとずつ私に対する信頼を失いつつあるよね」

「い、いえ! そんなことはないんですが!」

「良いことだよ」


 どういうことなんだろう。


 思っているとリリリアが意外にてきぱきと洗い上げた皿を棚に戻していくから、クラハも慌てて後に続く。


「真髄は言いすぎだけど、結構本質のひとつではあるんだよ」

「はあ……」

「神聖魔法って、防御と強化には確かに出力が要るけど、治療みたいな分野だと出力よりコントロールが問題になる場面が多いからね。掃除みたいな細かいことを神聖魔法でこなすのって、意外としっかりやってみると練習になったりするんだよ」

「……な、なるほど」


 理屈は通っている気がする。

 通っているが、通っているだけに若干怪しいのではないかという気持ちがないでもない。この夏を通してクラハがリリリアについて学んだのは、「この人はとても良い人だと思うけれど、本当のことを言っているときと冗談を言っているときでトーンが変わらないことがある」だ。


「というわけで、早速研究所の中を荒らしまわってみようか」

「え」

「出発!」


 勝手に出発した。


 食堂からふらふら出て行くリリリアを、クラハは慌てて追いかける。彼女の方が背が高いから歩幅も広い……が、気遣って歩いてくれているのか、案外あっさり追い付いた。


「荒らしまわるって、」

 隣に並んで、クラハは、


「掃除するってことですか」

「好意的に見るとそうなるね」

「…………」

「よし、人の気配があるからこの部屋からにしようか」


 悪意的に見るとどうなるんだろう、と考えている間もリリリアの動きは無駄に颯爽としており、全く他の制止を許さない。


 コンコンコン、とノックをすると、すぐに「はーい」と声が返ってきた。


「おす。どした、何か力仕事?」

 扉を開けて出てきたのは、デューイだった。


「ううん。ジルくんたちが戻ってくるのを待ってるあいだ暇だから、研究所の掃除でもしてみようかなって。ロイレンさんがいないから誰に許可取ればいいかなーと思ったんだけど」

「今リリリアさん、『暇だから』って言いませんでしたか?」

「言ってないよ」

「全然やってもらって大丈夫ですよー。ありがたいでーす」


 部屋の奥から返事をしたのは、ちょっとドアの向こうを覗き込めばわかる。

 ネイだ。


 あららお邪魔だった、とリリリアが訊ねる。

 いや全然、とネイがドアの方に寄ってくる。


 手には霧吹き。


「植物の世話をしてただけです。先生がいない間、任されてて。で、デューイはその横で冷やかして邪魔してただけ」

「おい。他に男手がいなくなっちまったから、なんか困ったことがないかと思って来てやったんだろーが」

「不要~」

「じゃあこっちで貰っちゃおうか。よかったね、デューイさん。明日には筋力が五倍になってるよ!」

「オレ今から何させられる?」


 不安そうな顔でこっちを見てくるデューイに、クラハは何も答えられないまま視線を逸らした。


 ロイレンたちと初めて会った、あの部屋だった。

 真っ白な薄いカーテンが引かれた、水槽とコンテナと鉢と……今になってはそれが何なのかわかる。ロイレンが研究の一環として樹海から採取してきた植物の、サンプルが保管されている部屋。


「ネイさん。これ、殺菌したらダメな場所ってどのくらいある?」

「えー……。どうだろ。基本的には植物自体に触れなければ大丈夫です。水槽の中の水とかは勘弁してほしいですけど。微生物とかまで死んじゃうんで」

「常識の範囲内ならオッケー?」

「常識の範囲内ならオッケーです」


 それじゃ、とリリリアが先に一歩踏み出した。

 植物のところからは少し離れて、薬品の並んだガラス棚に手を添えて、


「まずはこういうところからやってみようか」


 さっ、と何の力も込めていないような素振りで一撫でする。

 なのに、変化は劇的だった。


「うおっ」

「すご。こんな感じだったんですね。ここのガラスって」

「買ったときより綺麗になったかもね。って、買ったんじゃなくて作ったのか。デューイさんもいるし」

「いや、これはオレがここに来る前からあったから……マジか。これ、この後あっちの実験室の方もやってもらえたり?」

「私物はお代をいただきます」


 さあやってみよう、とリリリアが言う。

 どうやってだろう、とクラハはガラスの前で途方に暮れている。


 だって、まるきり違うのだ。

 自分の目からではそれほど掃除しても変わり映えはしないだろうなとすら思えた、よく手入れの行き届いたガラスが、リリリアの手が触れた後には全く別物になっている。過剰に装飾されたわけじゃない。ただ、ガラスそれ自体が自分の本当の姿を思い出したかのような、くすみのない状態に戻っている。


 神聖魔法の真髄は、掃除。

 もしかすると本当なのかもしれないとすら思えてきて――そして残念ながらクラハは、まだその真髄の欠片もわかっていない。


「よく見て、よく考えることだね。何にでも言えることだけど」


 悩んでいると、リリリアが言った。


「神聖魔法って、仲の良い人相手ほどかけやすいって知ってる?」

「あ。それは、はい」


 へえ、と隣でデューイが相槌を打つ。


「そうなんか」

「実際には違うんだけどね」

「え、そうなんですか」

「うん。そう見えやすいっていうだけ。特に治癒の魔法って、子どもの頃に『痛いの痛いのとんでいけ』が実際にできちゃった、で覚える子が多いんだけど、ああいうのって、何とも思ってない人相手にはあんまりやらないでしょ。その経験が最初にあるから、みんな『よく思っている相手にほど効きやすい』って思うんだよ」


 本当は、と彼女は、


「何をどんな風にすればいいのか、イメージができたときに使えるようになるだけ。魔法の中でも生体に働きかけをする種類のものは繊細な扱いが必要になることが多いから。デューイさんも、『これを直して』って言われてものすごく複雑な道具を渡されても、それが何に使うもので、どんな風に働くのかわからなかったら困っちゃうでしょ?」

「まあ、そうすね。先史文明のやつなんかは、結構そういうの手探りでやったりしますけど」

「生き物相手に手探りでやってると血管とか切っちゃって死んじゃうからね」


 こわ、とデューイが言う。

 怖いでしょ~、とリリリアが笑う。


「だから本当は結構、こういう種類のことってみんなできるんだよ。魔法を使うにしても、それ以外の方法を使うにしても、何かしらの形で。でもやっぱりそういう『死んじゃうかも』って怖さが色んな部分で無意識のセーブを掛けてる。だから神聖魔法を専門的に学ぶことで、『ここまではやっても大丈夫』を覚えていくんだ。最初からそういうの、やれちゃう人もいないではないけど」

「……もしかして、仲が良い人相手ほど効きやすいっていうのは、『よく知った対象だから限界を把握しやすい』ということですか」

「そのとーり。花丸をあげましょう」


 そして、とリリリアは人差し指を立てて、


「そういう練習をするには、物を相手に掃除を試みるのが一番! 何といっても量が積みやすいし、手順や手法は似てるし、人体の治癒前後に周辺の清潔を保持するのも重要なことだからね。それに、もちろん住環境の衛生管理は文明再興期における神聖魔法の果たした大きな役割のひとつだよ。さ、まずは私が掃除したところを見ながら、試行錯誤してみようか」

「――はい!」


 勢いよく返事をして、クラハはガラス棚にじっくりと向き合ってみる。

 恐らく時間はかかるだろうけれど、基本的ながらとても重要なことを教えてもらったと思う。ジルが帰ってくるまでの間、懸命に励んでみよう。そう決めた。


「あれ、その理屈だともしかして、」


 一方で、デューイが言う。


「オレみたいな技師も、教会の治療師とかに向いてたりすんすか。普段から物とか直すのに、多少は魔力使ってんすけど」

「向いてると思うよ。生体構造はかなり複雑だし流動的な面もあるから勝手が違ったりするけど、そういう経歴の人は結構すぐに慣れるし。魔法学園から教会に来た人なんかでも、そういう魔道具系の人は多いよ。後は水とか火とか、それこそ植物とか、具体的な自然物を専門にしてた人」

「へー。いざとなったら転職もアリか」

「ただ、治療師は一日に相当の数を見るし、集中力も使うからね。魔力量の多さか、それをカバーできる何かがないと本職にするのは厳しいかも」


 うーむ、とデューイが唸る。

 うーむ、とクラハも唸っている。それぞれ別の理由で。


「そうなると、まあ、微妙か」

「教会って、そういうとこありますよね」


 ネイが言った。


「結局専門技能過ぎて、人手が確保できてないっていうか」

「そうなんだよね。どうしても治療師と患者さんは一対一の対応になりがちだし、熟練した治療師をひとり輩出するのに必要な練習量もかなり要るし、難しい局面は技量問題になっちゃうから、住んでいる地域によって受けられる治療の水準に格差が出ないように、適宜人事配置の見直しも必要になってくるし」


 そういう意味だと、と。

 リリリアは別のガラスに指を添えて、その奥の薬壜を見つめると、


「ロイレンさんみたいに、薬学をやってくれる人がいると助かるよ。人手の問題とか、定型的な症状に対する処置とか、そういうところを上手くカバーしてくれるから」

「お、もしかしてこれを機にあいつ表彰とかされちゃう?」

「この調子でいくと名誉枢機卿の授与はあるかもね。あ、これ別に私が聖女だから内部リークしてるとかじゃなくて。今までの名誉枢機卿授与者の経歴を見ると薬学関連の人が結構いるから、ロイレンさんが嫌がらなければ――あ、でも大魔導師の肩書も目指してないらしいし、そういうの別にどうでもいい人なのかな。外部委員みたいな仕事も頼むようになっちゃうし」

「オレもそういうイメージだけど、どうなん、ネイ」

「まあ、そんな感じの人ですよね。欲がないっていうか」


 ウィラエさんもそんな感じだもんね、とリリリアがその指を離す。

 その一瞬を、クラハの目はしかと捉えている。


 泉からあらゆる穢れが失せていったような、現実に目の前で起こったとは思えないような、人間の手でそれが成されたことを到底信じられないような、素晴らしい技量。


 目に焼き付ける。

 そのほんの一端でもいいからと、思い切って真似してみる。


 ぽう、と指先が光って、



「うおっ!」

「えっ!」


 カシャカシャカシャ、と奇妙な音が、突然それに割り込んできた。



 驚く。驚きのあまりガラスを割って大惨事を起こしそうになって、クラハは暴走しかけた魔力を無理やり引っ込める。まだ音は鳴っている。日常ではあまり聞かない――けれど、冒険をしている間には何度も聞いたことのあるような音。


 金属の、擦れる音。


 デューイのポケットから銀色の、液体とも固体とも付かないような物体が顔を出していた。


「わり、入れっぱなしだったわ」

「びっくりさせないでくださいよ、デューイ」

「わりーって」

「何ですか、それ」


 訊ねれば、ああ、とデューイは答える。

 ポケットの中に押し戻そうとしていた手で、反対にそれを引き抜いて、


「覚えてねえ? あのほら、〈天土自在〉の人形部屋でさ」

「あ、あのときの魔合金……持って帰ってきてたんですか」

「そ。まあ、役得ってことで。でもまあこれがさ、」


 微妙で、とみょんみょんデューイはそれを両手で伸ばしながら、


「たぶん、あの収納スペースの鍵に使ってたんだと思うんだよな。魔力を込めて固定化するみたいな感じで。けど経年劣化してそういう性質がダメになったのか知らねえけど、ちょっと魔力を入れる……つか、今みたいに周りでちょっと魔法が使われただけでぐにょんぐにょん反応して、素材としちゃ使い物になんねーの」

「それ、いいね」


 リリリアが言った。

 ん、と彼女は片手を差し出して、


「デューイさん、それ使う? 使わなかったら借りていい?」

「いーすけど。何に使うんすか」

「クラハさんの修行」


 そんならどうぞ、とデューイが渡す。

 それならどうも、とリリリアが受け取る。


 そして、その魔合金はクラハのすぐ傍に置かれた。


「じゃ、クラハさん。今日から掃除中は常にこれを持っておいて、反応させないように気を付けながら神聖魔法を使ってみようか」

「…………はい」

「いやいやいやいや」


 デューイが割り込んでくれる。


「無理すよ。だってそれ、ちょっとした明かりの魔法とかでも全然ダメで、オレも夜中の作業とかは蝋燭持ち込んでやってたくらいで――」

「でも私が掃除してたときは反応してなかったよ」

「…………おお?」

「何事もコントロールだよ」


 デューイが、「そうなん?」という顔でこっちを見る。

 クラハは全然「そうなん?」なのかはわからない。


「が、」


 けれど。

 やってみなさいと言われたなら、返す言葉はひとつ。


「頑張り、ます……!」

「うむ。素直で可愛くて大変よろしい」


 がんばれー、と。

 あまり興味なさそうに、水やりを続けるネイがエールをくれた。



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