1-1 俺でよければ
「そういうのはやめてくれないか」
ジルがリーダーのゴダッハの腕を掴んで言ったのは、まさにこれから彼らの冒険者パーティ〈次の頂点〉が最高難度迷宮〈二度と空には出会えない〉に初めて挑もうとするその朝のことだった。
「……あぁ?」
「新参だから黙ってたけど、同じパーティのメンバーだろ。荷物持ちとか関係なく。そういう当たり方はやめてくれ。見ていて不愉快だ」
殴るなんて尚更、と。
ジルはゴダッハの手首を、強く握った。
パーティ宿舎のエントランスでの出来事だった。
〈次の頂点〉のメンバー数十人が勢ぞろいしている。その真ん中にいたのがゴダッハとジルのふたり。
ミスリル鎧を着込んだ巨躯の男――このSランクパーティを纏める四十絡みの剛腕の男、ゴダッハがぎろりと睨みつける。
一方で、それに比べると流石に体格は見劣りするが、それでも長身の、いかにも研ぎ澄まされたような立ち姿の黒髪眼鏡の青年――ジルはその視線を、怯むでもなく受け止める。
「私のやり方に文句をつける気か」
「悪いがそうなる。何も俺は、あなたのやることなすこと全てを肯定するなんて契約を結んだわけじゃない」
「あの、ジルさん。私は気にしてませんから……」
その間に挟まれるようにして立っているのが、灰色の髪に水色の瞳の少女。このパーティのサポーター――迷宮のマッピングや荷運び等の雑事を担当する役職――の一人であるクラハだった。
「だ、そうだが?」
「別に本人がどう思ってるとか、そういう話じゃない。ただ、俺が気に入らないって言ってるんだ。まさか迷宮の中に入っても、サポーターみんなに向かって『足手まとい』だの『役立たず』だのネチネチやるつもりか? ……これから挑むのがこの国で一番きつい、Sランクだけが挑戦できる迷宮なんだろ。気持ちよくやらせてくれ」
ゴダッハは、それからたっぷり十秒、ジルを睨みつけた。
しかしそれでもジルが一歩も引かないのを見て取ると――チッ、と舌打ちをひとつして、その腕を振り払った。
「図に乗るなよ、剣自慢の若造風情が……。迷宮の中に入ったら、私の命令には絶対に従ってもらうぞ」
「肝に銘じておく」
ふん、と鼻を鳴らしてゴダッハは視線を周囲に向けた。
「何をぐずぐずしている、お前たち。行くぞ!」
慌ただしくメンバーたちが動き始める。ゴダッハが宿舎の正面から大股で出て行けば、それにドタバタと続いていく。
その背を見つめながら、ジルがふう、と溜息を吐けば、
「あ、あの……」
と遠慮がちに、クラハが話しかけてくる。
「すみません、私なんかが庇ってもらって……」
「ああいや、気にしないでくれ」
彼女が頭を下げるのに、ジルは軽く手を振って、
「さっきも言ったとおり、俺が我慢できなくなっただけだ。むしろ、あれでかえって目をつけられたら申し訳ない」
「いえ、そんなこと!」
ふたりもまた、他のメンバーたちに続いていく。
宿舎の前にはすでに移動用の馬車が停まっていて、準備のできた者から中へと乗り込んでいく。ジルとクラハは自然と一番最後に、ふたりで乗り込むことになる。
あの、とそれに揺られながら、クラハが言った。
「ジルさんって、このパーティにはスカウトされてきたんですよね」
ああ、とジルは頷いて、
「今までは冒険者登録もしてなかったんだけどな。誰も踏破できてない迷宮に挑戦、っていうのも面白そうだったから」
「高名な剣の流派の正統後継者だとか」
「正統……。正統か……」
ジルはバツの悪そうな顔をして、
「そんなに大したもんじゃないぞ。別に、そこまで確固とした型があるわけでもないし。剣のコツを教えてもらったと言えば、確かにその通りだけど」
「でも、東の国で竜殺しを達成したって。ゴダッハさん……リーダーが、ジルさんのスカウトが決まったときに言ってました」
「あれは師匠と二人で仕留めたやつだよ。今はそれが一人でできるようになるまで諸国漫遊修行中……っと、」
ガタリ、と敷石の段差に馬車が大きく揺れた。
ジルが身体を浮かす一方で、クラハは縛り上げた荷物が崩れ落ちないよう、手で支えている。
しかし、その動きも念のため以上は意味のない、無用のこと。
「びくともしてないな」
やや驚きを込めて、ジルは言った。
「このくらいは、誰でも……」
「そんなことないさ。……って、俺ができないからなんだが」
少しはにかむようにして。
「俺は紐を縛るのが苦手で、防具なんかも全然つけられないんだ。靴もほら、こういうベルトで留めるやつじゃないとダメで」
「よければ予備の防具を使いますか? 付けるのなら、私が手伝いますけど……」
いやそれは大丈夫、とジルは断って、
「クラハはこの仕事、長いのか?」
「二年になります。十五から始めて……あの、訊いてもいいですか」
「ああ」
「どうすれば、強くなれますか」
きょとん、とジルは目を丸くした。
それに意気を挫かれたのか、クラハは俯いて、
「あ、あの。私ごときがこんなこと訊くのは大それてるって、わかってるんですけど」
「いや、そんなことはないが……どうして俺に?」
所属のパーティの先輩じゃなくて、と訊ねれば。
その、と彼女は話し始める。
「私、冒険者に憧れていて。子どもの頃から英雄譚が大好きで……いつかあんな風に、誰も知らないところを旅してみたい。そう思ってたんです。だから、冒険者になれる年齢まではこういう……荷造りとか、それから地図作りとか、地道なことを勉強していて」
ああ、とジルは頷いた。
道理で同じサポーターたちの中でも、クラハのする仕事だけは群を抜いて出来が良いわけだ、と。
「それで、冒険者になってからは戦闘の腕を上げたくなった、と」
「はい。冒険するにはサバイバルの技術だけじゃなく、魔獣を相手にする力も重要ですから。……でも、」
教えてもらえないんです、と彼女は言った。
「〈次の頂点〉に所属するとき、サポーターからメインへのステップアップ研修があるって話だったんですけど……実際には、『見て覚えろ』『それでできないなら才能がないということだから諦めろ』ばかりで……」
なるほどな、とジルは頷いた。
「内部で人を育てる仕組みがないわけだ。それで、俺みたいな人間を外から連れてくることで戦力は補強してる、と」
合理的なやり口ではあるな、と心の内では思う。
ただし、それを続けた場合……あるいは冒険者という業界全体にその仕組みが蔓延した場合に発生する問題や、採用時に実際とは異なる条件を提示することの不誠実を思えば、ジル個人としてはあまり手放しには賛同しにくい手法ではあるが。
このパーティに所属するのもこの迷宮攻略が最初で最後かもな、とひっそり考えている。
「その、こんなことをお願いするのは図々しいとわかってはいるんですが、授業料など後からでもできる限りお渡ししますので、」
「何でもだ」
「え?」
「何をしても、基本的には強くなる」
クラハの申し出を最後まで聞かないままで、ジルは言った。
「怪我をするとか病気をするとか、そういうのがなければ基本的には何をしても強くなる。戦闘は……というか戦闘に限らず、全ての行動は総合的なものだから」
「総合的なもの、ですか」
難しい話になるんだけど、とジルは前置きをして、
「たとえば目の前から……まあ、レッドウルフでもなんでもいい。それが突っ込んでくる。どうする?」
「え。……それは、カウンターを狙って……」
「たぶんあなただったら、あらかじめそいつが突っ込んでくるのを見越して罠を設置しておいた方が強い」
質問の意地が悪かったけど、とジルは言いながら、
「戦闘においては、どこから始めるとか、これはやっていいけどこれはダメとか、そういうルールがあるわけじゃない。持ってる手札は人によって違うし、その手札をどのタイミングで使うべきなのかも違う。大事なのは、自分が何の手札を持っているのかをよく把握すること。それから、手札を上手く使うこと。……どんなに使えないと思ってる手札も、どこかでは使う場面がある」
「何をしても強くなるっていうのは……」
「手札が多ければ多いに越したことはないから。何かをすれば、絶対に総合値としての強さは高くなる。……あとはまあ、その手札の汎用性じゃないか。鍛え上げた手札なら、状況に適してなくてもゴリ押せる場合が増えるし、対応範囲が広い手札は、総合値に対する影響がその分高くなる」
ええと、とクラハは戸惑ったように、
「り、理論派なんですね。ジルさん……」
「理屈屋なだけだよ」
ジルは少しだけ恥じるように、
「偉そうなことを言ったけど、俺は剣だけなんだ。他のことはてんでダメで……。ゴリ押しの手札一枚型って言ったらいいかな。人のことを見て羨む気持ちを、こうして理屈に変えてるだけだよ」
「そうなんですか?」
「そう」
頷いたジルは、コツコツと自分の眼鏡を叩いて、
「たとえば、俺はすごく視力が悪い。……しかも竜殺しのときに目に呪いを食らって、身体強化系の影響も『硬度上昇』しか受け付けなくなってる。……だから迷宮の罠を見分けるとか、そういうのが咄嗟にできない可能性が結構ある」
クラハが反応できずにいる間に、
「そのうえ、度を超した方向音痴だ。……実はここに来る前も、この国と反対方向に旅し始めたつもりだった」
「え、」
「だからさ……」
仮定の話だけど、とジルは前置きして、
「俺なんて剣を振るしか能がないから、ひとりで迷宮に突っ込んだりしたら、二度と出てこられないかもしれないぞ」
眼鏡が割れたらもう終わりだ、と笑って言った。
はあ、とかろうじてクラハが相槌を打って、「だから予備の眼鏡を持ってもらっていいか」「これがなくなると本当に困る」と小さなケースを渡されたタイミングで、馬車は止まる。
「お、着いたか」
「あっ、急がなきゃ……」
自分の身体よりも背の高いような荷物をクラハが背負い込む姿を見ながら、「まあでも、」とジルは少しだけ、話を続けた。
「そういうややこしい話はともかく、単に戦闘用の汎用手札が一枚欲しいって話だったら、この迷宮攻略が終わったら、教えてもいい」
「……え」
「剣術」
何を言われたかわからない、というようにクラハの動きが止まった。
そしてかろうじて、「いいんですか」という言葉が、唇の間から吐息のように漏れ出した。
いいさ、とジルはそれに軽く答える。
「弟子を取る……と言えるほど大した人間じゃないが、別に一子相伝の秘剣ってわけでもないし、師匠も大師匠も色んな人間に教えてるらしいから」
けれど最後に、少しだけはにかんで、
「俺でよければ、だけど」
信じられない、という顔をクラハはしていた。
よろしくお願いします、と九十度以上に頭を下げるまでの間に、彼女の手はほとんど自動的に動いて馬車から降りる準備を終えていた。
十九と十七。まだ若い彼と彼女は、これから挑む最高難度の迷宮を前に、小さな約束をした。
ところで、その二時間後には彼――ジルは、眼鏡がバッキバキに割れた状態で迷宮の中層にひとり取り残されることになる。