9.張県令の報告
章絢は、再び麒煉の元を訪ねていた。
「そうだな。先ずは、章絢が話を聞いて来てくれ。それから、会うかどうか決める」
張県令からの書状の話を、章絢から聞いた麒煉は、頬杖をつきながらそう答えた。
「まっ、それが妥当だな。国境が重要な場所だとは言え、砦西だけ特別扱いは出来ないからな」
そう言って、章絢は肩を竦める。
麒煉の指示を受けた章絢は、門下省に戻り、書状をしたためた。
−−先ずは、私が話を聞こう。いつでも、門下省を訪ねるが良い。
さて、これでやって来るか、否か。
来るとして、県令が来るか、県丞が来るか、将又別の者が来るか。
「クク、楽しみだ」
−−およそ十日後。
「遠路遥遥、よくぞ来られた。私が侍中の李章絢だ」
「お初にお目にかかります。砦西の県令、張聲卓と申します。この度は、過分なご配慮を賜り、恐悦至極に存じます」
門下省を訪れた聲卓の挨拶に、章絢は目を細め、椅子に座るよう促す。
「県令自ら、わざわざの御出座、何か問題があったのか?」
章絢の言葉の小さな棘には気付かぬ振りをして、聲卓は答えた。
「はっ。土砂崩れのありました崖を調査いたしましたところ、地盤が緩んでいる様子もなく、また、街道の先にあった村の住人が一人も居なくなっていたため、故意に起こされたものだと判断いたしました」
「そうか。それで、どうした?」
「はっ。現在、村の住人がどこに消えたのか調査中ですが、無関係の者が村へ行くのを防ぐために、土砂はそのままにしてあります」
「ふーん」
章絢は、聲卓の人柄を見極めようと、じっと見つめる。
聲卓はそれに怯むことなく、飄々としていた。
「それで、今後、村の住人が戻らなかった場合、村をどうするかご相談したく、拝謁を求めました」
「フッ。それならば書簡で済むであろう? 何か、他にあるのではないか?」
「ハハ、流石は李侍中、その通りでございます」
「なんだ?」
「あの村は、元々鉱石を発掘する者達が住んでいた村でした。鉱石が採掘し尽くされた後は、林業を営み、細々と生計を立てていたようです。ですが、五年前、青都の官吏達が飛燦国と繋がっていたため、一掃されましたよね? その時の官吏の身内や末端の者達も、どうやらこの村に逃れて、隠れ住んでいたようです」
「なるほどな……」
−−あの隧道は、昔の坑道後を更に掘り進めたものだったのか……。
章絢は心の中で、独り言ちる。
「まだ調査中のため、ここからは推測になりますが、その残党が元の住人達を唆して、飛燦国へと連れて行ったのではないかと愚考いたします。あの村には、鉄匠もおりましたので」
「その推測が当たっているならば、村に人が戻ることはないであろうな」
推測が実際の事柄であろうことは、あの村を訪れた章絢には分かっていたが、それを聲卓に話すことはない。
「ところで、張県令はどこの出身かな?」
「私は元々、龍居の隣、守璧で生まれ育ちました」
突然の話題転換に、一瞬片眉が上がったが、聲卓は淡々と答えた。
「そうか。それで、砦西の前は、守璧の隣、陽河の県丞をしていたのか」
そう言いながらも、章絢は聲卓の顔をじっと見続けている。
その間、聲卓は目を逸らさずに、じっと章絢の目を見返していた。
「よし。張県令。麒煉に会わせてやろう」
そう言って、章絢はニヤリと口角を上げた。
聲卓は少しだけ驚き、目を見開く。
「宜しいのですか?」
「ああ。ただし、正式な謁見ではなく、我が家でな」
「それは!?」
飄々としていた聲卓も、これには流石に動揺する。
「ふふ、気に入ったよ、君。それに、正式な謁見だと、色々と手続きとか面倒だから、家に来てくれ。その時に、もっと詳しい話をさせてもらおう」
「はっ! 有り難き幸せ」
「早速で悪いが、今晩で良いかな?」
「もちろんにございます!」
聲卓は、ついつい興奮気味に、鼻息を荒くして答えてしまう。
そんな様子に満足して、「じゃあ今晩、酉の刻(十七時〜十九時)に芙蓉宮を訪ねてくれ」と、章絢は満面の笑みで言った。
「はっ!」
章絢と約束を交わした聲卓は、足取りも軽く、門下省を後にした。
「と、いうわけで、今晩家に来てくれ」
「何が、『と、いうわけで』だ。はぁ。まぁ、いつものことだがな」
毎度のことながら、章絢がやって来て、開口一番に言ったことに、麒煉は呆れて溜め息を零す。
「張県令。ヤツは、使えるぞ。まぁ、一筋縄では行かなそうではあったがな。そこは、お前がヤツの手綱をしっかりと握っていれば問題ないからな」
章絢は、聲卓との遣り取りを上機嫌に話し出した。
その様子で、麒煉にも章絢が彼のことを随分と気に入ったことが伝わって来た。
「ふむ。まだ、断定は出来ないが、劉太傅の助言で砦西の県令にしたが、どうやら間違ってはいなかったようだな」
「そうだな。狸親父の言うことだから、半信半疑だったが」
章絢は、「狸親父」と呼んでいる、苦手な劉太傅の顔を思い浮かべて、うんざりした顔をする。
「それにしても、五年前の青都が絡んでいたとは、厄介だな。あの時、砦西の県令だった、前県令も関わっているのではないかと、言われていたが……。十分な証拠がなくて捕縛には至らず、現在は弓州別駕となっていたな。今でも、裏から手助けしているのではないかと思われているが、証拠がな……」
「そうだな。恐らく、今回の一件に関わっていそうだが……。まぁ、張県令が前県令とは繋がっていないのは間違いない。俺の勘がそう言っている。だから、張県令の働きに期待しよう」
「お前の勘は俺の勘と違って、外れることもあるから全ては信用出来ないが、今回は当たっていることを心の底から願うよ」
そう言って、麒煉は息を吐いた。
−−酉の刻になる少し前。
「芙蓉宮。まさか、前皇后がお暮らしだった宮に足を踏み入れる日が来ようとは……」
章絢の住まい近くまでやって来た聲卓は、立ち止まって宮を眺め、感慨深気に呟いた。
「よし。行きますか」
聲卓は頬を叩いて気合いを入れ、歩き出す。
門の前で、警備の兵に伝言を頼み、やって来た家宰に中まで案内された。
「よく来てくれた。この方が、皇帝陛下だ」
「李麒煉だ。よろしく頼む」
「はっ! 御尊顔を拝する機会を賜り、恐悦至極に存じます。砦西県令、張聲卓と申します」
「堅苦しい挨拶はそれくらいにして、食事にしよう」
「張県令。ここは公の場ではないから、肩の力を抜いて我が愛する妻の手料理を存分に味わってくれ」
章絢の言葉に、麒煉は苦笑し、肩を竦める。
「家主がこう言っているんだ、私のことはこの場では家主の兄として接してくれ」
「恐れ多いことながら、そのように努めます」
聲卓は皇帝である麒煉の言葉に、そう返すことしか出来ない。
それから麒煉が座ったのを確認し、勧められた席に腰を下ろした。
「それにしても、随分書簡が届くのが早かったが、迂回してあの村まで行くのに半日はかかるんじゃないか? もしや、俺が教える前に、すでに土砂崩れのことを知っていたのか?」
食事が始まると同時に、章絢は聲卓に質問した。
「いえ。お恥ずかしい話ですが、李侍中からのお話を聞くまで、そのことは全く存じ上げておりませんでした。ただ、あの村に行くのに土砂崩れのあった街道と、山からの迂回路、その他にも道がございまして。私はその道を通って村に行きましたので、早くお知らせすることが出来たのです」
「そんな道があったのか!? それは知らなかった」
聲卓の返答に、二人は驚く。
「ええ。『貘の道』と呼ばれておりまして、この道で惑うものが多いので、道のことを知っている者でも、ここは通りません」
麒煉は聲卓を訝しげに見る。
「だが、そなたはそこを通った。そして、惑ってはいない。ということは、ただの迷信ではないか?」
「そんな道があったなら、教えてもらいたかったよ」
章絢も聲卓に恨めしげな視線を送った。
「いえ、実はこの道は、大熊猫の住処を通る道なのです。なので、彼らの生活を脅かさないためにも、本来は通ることは避けるべきです」
「なのに、県令自らその住処を脅かしたのか?」
険のある麒煉の言葉に、聲卓は肩を竦める。
「お叱りはごもっともですが、私は彼らを避けることが出来るので、脅かすことはありません」
「どうやって?」
「あまり手の内を明かしたくはないのですが、痛くもない腹を探られるのは割に合いませんから、言います」
聲卓は一息を吸ってから、話し出した。
「私は少々、人よりも耳目鼻が良いんですよ。ですので、少し離れていてもその存在に気付いて避けることが出来ます」
それを聞いた二人は、間抜けにもぽかんとした表情を浮かべた。
「それはまた、便利だな」と、麒煉は一言だけ発する。
聲卓はぽりぽりと頬を掻きながら言った。
「いいえ。良いことばかりではありません。耳元で普通に話されても、うるさく感じますし、汚い者の汚いものがはっきりと見え、臭い匂いも人一倍臭く感じます。鈍感な人が羨ましいですよ」
「ハハハ。確かにそうだな。いやー、張県令は面白い!」
章絢は腹を抱えて笑う。
聲卓は口元に笑みを浮かべて、「恐縮です」と言った。
「それで、相談というのは?」
場が和んだところで、麒煉が本題を切り出した。
「村の住人が戻らなかった場合、村をどうするかご相談したいと申しておりましたが、戻りましても、飛燦国と繋がりのある者を野放しにするわけにも行きません。それで、崩れた土砂を更に積み上げて、あの村を湖の底に沈めてしまおうかと考えております」
「ほう、それは面白いな」
聲卓の斬新な提案に、麒煉は目を細め、口角を上げる。
「なるほどな。あそこに湖があれば、旱魃にも備えられるし、名案だな。ただ、大熊猫の住処は大丈夫なのか?」
「はい。その手前と、村の間が崖になっておりますので、そちらが沈む心配はありません。ですので、色々と手間も省けて、良いのではないかと」
章絢の心配にも聲卓は淡々と答える。
「本当にちょうどいいな。説得する住人のいないうちにさっさと進めてしまおう。張県令。早々に灌漑工事の技術者と人足、資材の方もこちらから送るとしよう。存分に役立ててくれ」
「はっ! 有り難う存じます」
麒煉は聲卓の案を採用することに決め、次々と段取りを考える。
「あと、完全に沈めてしまう前に、村中を隈無く調査して欲しい。人手がいるようなら、調査する人員も別に送る」
「そうしていただけると、大変助かります」
聲卓は、思っていた以上の成果に、ついつい口元が緩んだ。
「そうだ。一つだけ注告がある。知っていると思うが、そなたの前の県令であった、姜佑篤。今は弓州別駕だが、彼には気をつけるように」
「証拠はないが、恐らく飛燦国と繋がっている」
「こちらから、御使台の者も送っているが尻尾をつかんでも、直に切られてしまい、未だに掴み取ることが出来ない」
麒煉と章絢の注告に、聲卓は緩んでしまっていた口元を引き締める。
「そうですか……。では、私の方でも掴めるように動いてみましょう」
「それは心強い」
「期待している」
二人は聲卓に笑顔でお酒を勧めた。
それから、更に話が弾み、お酒の量を過ごした三人は、酔い潰れて、その場で朝まで過ごしたのだった。
州牧……州の長官。
別駕……州の次官。
三公……太師(皇帝の師)、太傅(皇帝の守り役)、太保(皇帝の補佐)は名誉職。
御史台……官吏を監察する機関。