8.「雨塊を破らず(あめつちくれをやぶらず)」を目指し
章絢と共に、執務室に戻った麒煉は、早速、手に持っていた包みを開いた。
「章絢。この絵を見てくれ」
「これは……」
「ああ。洸の描いた母親の絵とそっくりだろう?」
「この絵はどうしたんだ?」
「今日、画院を訪れた時に、ふと、この絵のことを思い出して、そう言えば、昔、画院の倉庫に仕舞ったのではなかったかと。それで、探してみたら、やっぱりあった」
「誰が描いたんだ?」
「それは分からない。この絵は、飛燦国から俺に持ち込まれた、縁談相手だった王女の肖像画だからな」
麒煉の言葉に、章絢は目を見開いた。
「まさか! 洸の母親がその王女だって言うのか?」
「いいや。さすがにそれはない。王女との縁談を持ち込まれたのは八年前だからな。洸の年齢と合わない」
「なら、王女の血縁者か?」
「確か、俺のところに話が来たのは第三王女だったはずだから、その姉ってことは考えられるな。訳ありなことを考えると、その線が濃厚かもな。もしそうなら、これも頭が痛いな」
そう言って、麒煉は顔を顰める。
「そうだな。父親が誰かってことも気になるしな……」
章絢も相槌を打ちながら、「うーん」と唸る。
「ああ」
麒煉の眉間の皺が更に深くなった。
「一つ良いか?」
「なんだ?」
「あれほどの美人と何で結婚しなかったんだ?」
「お前……」
章絢のいつもの真面目なのか巫山戯ているのかよく分からない質問に、麒煉は微妙な顔になる。
「ん?」
章絢の催促に、麒煉は溜め息をついて、答える。
「はぁー。……出来なかったんだよ。王女が流行病で亡くなったからな」
「そうだったのか……。すまない」
肩を落とした章絢に、麒煉は苦笑する。
「別に……、気にするな」
「……そう言えば、どうして子淡が見たことがあったんだ?」
「うっ。それは……」
章絢の鋭い指摘に、麒煉は言葉に詰まり狼狽えた。
「なんだ?」
「子淡に描いてもらったことがあったんだ」
「ははーん。さては……」
流し目をして意味有りげに口角を上げた章絢に、麒煉は真っ赤になって、否定の言葉を発する。
「なっ! 絶対お前が今、考えたことは間違っているぞ! 断じて違う!」
「何も言ってないだろ?」
章絢はニヤニヤしたまま、そう言った。
その態度に、苛立った麒煉は唸る。
「んー。……ただ、結婚するかもしれなかった人に、偽物でもいいから会ってみたいと思っただけだ」
「分からないでもないけどな。権力者の特権をそんなことに使うなよ。子淡が可哀想だ」
「仕方ないだろ、あの頃はまだ、天子の力は授かっていたかったんだから。自分では実体化出来なかったんだ。それに、あの頃は子淡を男の子だと思っていたから、絶対喜ぶと思っていたし。まあ実際、子淡も美人の絵を描けて喜んでいたから良いじゃないか」
「おいおい」
麒煉の開き直ったような言い分に、章絢は呆れた。
「まさか、子淡が女の子で王女以上の美人になるなんて思わなかったよ。まあ、お前は見抜いていたわけだから、俺の観察力が足りなかっただけだが……」
「はは。お前が手のひらを返したように、子淡に婚姻を申し込んだときは驚いたな」
「ふん。皇后が亡くなって落ち込んでいたところを、天女に励まされれば誰だって恋に落ちるさ」
「まあ、俺は子淡以外に落ちることはないけどな」
麒煉はどこか悲しそうに、羨望の眼差しで章絢を見ていた。
「そうだろうな。元々俺と皇后の間には恋なんてなかったから、お前が羨ましいよ」
「それでも、情はあっただろ」
「ああ。同士のように思っていたさ」
「そうか。皇后様は中々に勇ましい人だったものな」
「ああ。かっこいい人だった。息子達が年々彼女に似ていってくれているようで、心から良かったと思うよ」
「そうだな」
皇后、武耀華は、当時、十六衛大将軍だった、武霜剣の末娘であった。
霜剣は、麒煉の第一子である、喜が生まれてからは、将軍の地位を返上した。
だが、当時の皇帝であった、麒煉の父、劉章の計らいで、その後は太保となった。
皇后亡き今も太保として、皇帝となった麒煉を陰から支えている。
ちなみに、三公の他の役職である、太師には師君が、太傅には麒煉の母方の祖父が就いている。
「陛下。趙中書令がお越しです」
二人が、武皇后との過去に思いを馳せていたところに、部屋の外から声が掛かった。
「入れ」
「失礼します」
「浩藍、戻ったか。……街道整備の件はどうなった?」
書類を持って入室した浩藍に、麒煉は為政者の顔に戻り、早速声を掛けた。
「先日土砂崩れのあった砦西の街道を優先的に整備し、他の街道も道幅を広く、平らになるよう草案をまとめましたが、予算が不足しています」
浩藍の指摘に、「まあ、そうだろうな」と、麒煉は当然のように言う。
その分かっていたという態度の麒煉に、浩藍は片眉を上げて尋ねた。
「何か資金確保の案がおありですか?」
「ああ。他国へ我が国の工芸品として、絹織物と陶器を売ろうと思う」
「それは……」
麒煉の提案に、浩藍は渋い顔をする。
「分かっている。今までは限られた商人からしか手に入らなかったために、他国での価値が高いということは。それを国が卸すということは、希少価値が減ると言いたいのだろう? そこでだ、今まで以上の一品を生み出して欲しい。それを国の専売としたい」
「また、無茶を」
「無茶ではない。特殊な顔料が発見されたと報告を受けている。それを使って、染め付けをおこなえば、今までにないものが出来ると踏んでいる」
「そんなに上手くいくかな……」
二人の会話に、章絢が口を挟んだ。
「あまり言いたくはないのですが、手っ取り早く資金を得るなら、塩の専売を行うか、後宮にしかるべき新たな妃を迎え入れ、援助を請うのがよろしいかと思います」
浩藍の官僚らしい言い分に、麒煉は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「分かっているさ。他の奴らもうるさいからな。だが、下手なものを後宮に入れて新たな火種になるのはごめんだ。それに塩の専売は民の反感を買ってしまう。生活必需品を専売にするのは愚策だ。贅沢品を専売にすることに意味がある。そこで、新たな工芸品を手土産に『皇帝とお見合いしませんか』と各国に訪問する」
「なるほどな。それで、飛燦国にも表から堂々と潜入するというわけか」
章絢は「うんうん」と頷く。
「そうだ。上手くいけば、資金を得られ、飛燦国との確執も改善し、洸のことも分かるかもしれない」
「そして、お前に新たな妃が出来る。一挙四得だな」
「妃はどうでも良い」
「どうでも良いはないだろ」
「と、いうわけで早急に準備してくれ」
章絢の茶茶を冷たく、一刀両断に切り捨て、麒煉は二人に命じた。
「はっ!」
「やれやれ、『言之易而行之難』だな。ああ、子淡との蜜月が遠のいていく……」
章絢は溜め息を吐き、天を仰ぐ。
「一週間もゆっくり出来たんだから、良かったじゃないか」と、麒煉は手に取った書類に目を通しながら話す。
「一週間しかだ! あんまり人使いが荒いと俺は隠居するからな!」
「分かった、分かった。この件が片付いたら、一ヶ月の休みをやるよ」
書類から顔を上げて、章絢を宥めるように、麒煉はそう言った。
「本当だな?」
「ああ。『窮鼠齧狸』になったら面倒だからな。追い詰めないようにしないと」
「言質は取ったからな! 約束破ったら絶交だからな」
「ぷっ。何だ、その子供みたいな言い草は」
「ふん!」
麒煉は笑い、章絢は踏ん反り返る。
そんな二人の大人気ない、いつものやり取りを浩藍は微笑ましく見守っていた。
一ヶ月の休みをもぎ取った章絢は、上機嫌で麒煉の御前を辞して、門下省の自室へと戻って来た。
暫くして、部屋の外から声が掛かる。
「李侍中。砦西の県令から書簡が届いております」
「そうか」
章絢は、自ら扉を開けて、廊下で待っていた使いの者から、書簡を直接受け取った。
「ご苦労」
「はっ!」
戸を閉め、席へと戻った章絢は、早速、書簡に目を通した。
「ほう。これは……」
そう言って、章絢は目を細める。
張県令からの書簡には、流れるような達筆な文字で次のようなことが書かれていた。
−−土砂崩れの件に関して、直接ご報告申し上げたきことがあり、陛下に拝謁の許可をいただきたく、是非に口添えをお願いしたい。
「と、来たもんだ。さてさて、麒煉はどう出るのやら……ククク」
まるで悪巧みをする悪人のような顔をして、章絢は笑う。
「この顔は、愛しの子淡には見せられないな」と、章絢は独り言ちるのだった。
※ 雨不破塊「雨塊を破らず(あめつちくれをやぶらず)」……降る雨が静かに土くれを壊すことなく地面にしみ込む意から、世の中が平穏でよく治まっているさまをたとえていう。[「塩鉄論」水旱
言之易而行之難「之を言うは易く、之を行うは難し」……口で言うのは簡単だが、実行するのは難しい[「塩鉄論」利議]
窮鼠齧狸「窮鼠狸(猫)を噛む」……弱者であっても、窮地に追い込まれれば反撃してくることをたとえていう[「塩鉄論」詔聖]