7.殷鑑(いんかん)遠からず
麒煉は洸を案内するため、画院へとやって来た。
章絢と子淡、護衛の武官達も一緒だ。
浩藍は、中書省へと戻って行った。
元々画院は、造士を探しやすくするために設けられたものだった。
だが、今は画家だけではなく、書法家、彫刻家、陶芸や染織、刺繍などの工芸家など、様々な芸術家が召し抱えられ、皇帝陛下のため、国の発展のために仕えている。
「画院では、この国の誇る最高技術を持った芸術家達が切磋琢磨している。子淡もここの一員だ。その中でも最高位、待詔の称号を持っている。今その称号を持っている者は、子淡も含めて八人だけだ」
「へー」
麒煉の説明に、感嘆し、物珍しい画院の様子に洸は目を輝かせる。
「先程も言ったが、造士であることは絶対、誰にも話すんじゃないぞ。いいな」
興奮気味の洸に、麒煉は耳元へ顔を寄せて囁き、もう一度釘を刺した。
「大丈夫。分かってる」
洸は気を引き締めて、頷いた。
「皆、ご苦労。忙しいところ、手を止めさせて悪いが、新しく画院に入る者を紹介したい」
麒煉は大きく息を吸い込んでから、画院中に響き渡るような大声で、そう言い、洸を自分の前へと引き寄せた。
「この者は、『洸』という。まだ、九歳だが、中々の絵を描く。呉待詔の従兄弟で、弟子でもある。暫くは、呉待詔が個別で指導する。ここに来ることは少ないかもしれないが、よろしく頼む。さぁ、洸」
「フゥ、洸、です。よっ、よろ、しく、お願いします」
生まれて初めて、大勢に注目された洸は、頭の中が真っ白になり、緊張で声が震えたが、なんとか自己紹介した。
章絢は小さな声で、「よく頑張った」と言い、洸の肩を軽く叩いた。
それに洸はホッとして、肩の力が抜け極度の緊張から解放された。
「それでは、皆、元の作業に戻ってくれ」
麒煉がそう言うなり、一人の男がとても興奮した様子で、話し掛けて来た。
「陛下! 前にお話しさせていただいていた顔料、大分いい感じになりましたよ!」
「そうか! 今、見ることは出来るか?」
「構いませんが、他の方にはまだ、ご遠慮いただきたいのですが……」
そう言って男は、言葉尻を濁す。
「分かった。章絢。すまないが……」
「ああ。いいぞ」
「洸、子淡。悪いが少し外す。また後でな」
「はい」
子淡はそう言って頷き、洸は、ただその様子を眺めていた。
その直ぐ後、今度は画院を取り仕切っている、李待詔が話し掛けて来た。
「呉待詔。少々よろしいでしょうか?」
「何でしょうか?」
「申し訳ありませんが、こちらまでお運びいただけますか?」
「章絢……」
「大丈夫だ。行っておいで」
「洸。ごめんなさいね。少し離れるわね」
子淡もそう言って、離れて行った。
「俺では役不足だが、案内するよ」
章絢は洸を連れて、画院の奥へと入って行った。
書法、彫刻、工芸の部屋を案内し、絵画の部屋へと戻って来たところで、今度は章絢に声が掛かった。
「李侍中。少々、お手をお借り出来ないでしょうか?」
「すまないが、ここを離れるわけにはいかないんだ」
「そうですか」
「章絢大哥。大丈夫だよ。俺、ここで待っているから、お手伝いして来て」
「しかしな……」
「直に済みますので、お願いします!」
「はぁ、分かったよ。悪いな、洸。ここで少しだけ待っていてくれ」
「うん」
一人になった洸は、絵を描く様子を見て回ろうと、歩き出した。
「うわっ」
すると、何かに躓いて転び、思わず床に手をついた。
「フッ。ざまーみろ」
意地悪そうな顔をした青年が、少し後ろの方で椅子に座ったまま、洸に言った。
どうやら、洸は足を引っ掛けられたようだ。
「大丈夫かい?」
今度は優しそうな顔をした別の青年が、洸に手を差し伸べた。
「うん」
洸は、その青年の手を借りて立ち上がる。
「ごめんね。あいつ、ずっと呉待詔に憧れていて、弟子にしてくれって、お願いしていたんだけど、呉待詔は、自分に弟子なんてまだ早いからと言って断っていたんだよ。それなのに、君が弟子だと言って突然現れたんだよね。だから、嫉妬してあんなことをしたんだよ。許してくれとは言わないけど、君に嫉妬している人間は他にも沢山いるから、気をつけた方がいいよ」
「嫉妬?」
「ああ。あと、僕もその一人だから」
そう言って、洸を思いっきり突き飛ばした。
「何、するんだよ!」
転んで、尻餅をついたままの洸を取り囲むようにして、今度はまた別の少年達が立ち塞がった。
「なあ、お前。どうやって呉待詔に取り入ったんだ?」
「その技をぜひ教えてくれよ」
「それとも、従兄弟だから特別扱いされただけか?」
「くすくす」
顔を真っ赤にした洸は、怒髪、天を衝くばかりの勢いで立ち上がった。
「あんた達。ここで何を学んでいるの? 見たところ、俺より絵が下手みたいだけど? 俺の方が上手いから、弟子にしてもらえたんじゃないか?」
「何だって?」
「生意気だな」
「こいつ!」
一人が洸を殴ろうと、手を上げたところで、その手を章絢が掴んだ。
「やめろ! 寄って集って、自分よりも年下の者を甚振って、楽しいか? お前の手は、人を殴るためにあるのか、それだったらここに居る必要はないな。軍に入る試験を受けたらどうだ?」
「李侍中! 申し訳ありません! どうかお許しを!」
「許しを請うのは、俺じゃないだろう?」
「あっ、どうか許してくれ。この通りだ!」
「俺は別に、気にしてないよ。嫉妬は醜いものだってことと、画院には、美しい絵が描けても、心は汚い人間がいるってことを教えてもらえたからね。勉強になったよ」
「ハハハ。流石だな! 洸。お前は大物だよ! クックク……」
一頻り笑った後、章絢はまだ洸を睨んでいる顔があることに気がついた。
「まぁ、君達の顔を見ていると、まだ納得出来ないみたいだから、洸の実力を見てもらおうか。洸、悪いが今ここで絵を描いてくれ」
「俺はいいけど、道具は?」
「そこの君、君が使っている物を貸してくれ」
章絢は、一番、最初に洸に足を引っ掛けた青年に声を掛けた。
「お言葉ですが、この道具は私の命と同じです。他人には貸したくありません」
「まぁ、その気持ちは分かるが、君がこの中で一番、洸のことを納得していないように感じるんだが、違うかな?」
「くっ」
「その君と全く同じ道具を使って描くことで、君との実力を比べるのに一番良いと思ったのだが、もしかして、洸に負けるのが怖いのかな?」
「クソっ。使えば良いだろ! それで描いてみれば良い」
「そうか。じゃあ、遠慮なく借りるよ。洸。そう言うわけだから、これを使って、何か描いてくれ」
「何か? 何でも良いの?」
「俺の道具を使うんだから、俺から指定しても良いか?」
青年は不貞腐れながらも、そう言った。
「いいよ」
「洸がそう言うなら良いんじゃないか?」
「じゃあ。陛下を描いてくれ」
「それは麒煉のことで良いのか?」
「そうです」
「分かった」
洸は周りが見えなくなるくらい、絵に集中していた。
そのため、青年が凄まじい形相で洸の絵を睨んでいることに気付かなかった。
「出来た!」
洸が描いた麒煉は、本人以上に威厳があり、皇帝と呼ぶに相応しい風格が備わった素晴らしい出来映えだった。
「はぁー、流石だな。お前ら、どうだ? これでもまだ、洸に文句があるのか? ん?」
章絢がそう言って、周りを見ると、ばつが悪そうな顔をして、少年達は去って行った。
だが、道具を貸した青年は、洸の胸倉を掴み、殴ろうと腕を振り上げた。
思わず章絢は、その手を掴む。
手を掴まれた青年は、泣きながら叫んだ。
「クソ! お前に! お前なんかに、俺の気持ちは分からない!」
相手が激昂したため、逆に落ち着いた洸は、冷たく言い放った。
「ああ、分からないよ。俺はお前じゃないからな。お前だって、俺の気持ちが分からないだろう? そんなの当たり前のことだ。分かるわけがない。それでも分かって欲しいと思うなら、口に出して伝えるしかない。そうだろう? 黙っていて分かってもらおうなんて、図々しいんじゃないか? お前、随分偉いんだな?」
「くそっ! 俺だって、上手になるために沢山努力して来た。寝る間も惜しんで描いて来た。それでも、子供のお前に敵わない。こんな惨めな気持ちが、お前なんかに分かってたまるか! 俺は、まだ描ける! もっともっと上手くなれる! お前なんかに負けない!」
「そうだ。その意気だ。お前はまだまだ上手くなる。それだけの努力をしている。だから、洸に嫉妬する必要はない。だってそうだろう? お前の作品は、お前にしか描けないんだから。それはこの世で、唯一無二のものだ。違うか?」
章絢は、手を掴んだまま青年の顔を覗き込んで言った。
青年は、洸の胸倉を掴んでいた手を離し、涙を拭って、章絢を睨んだ。
「違わない。俺は、俺だけの絵を描く。描いてみせる。師だっていらない」
「はは。強いなお前。気に入った! お前が納得いく絵が描けたら、俺に一枚買わせてくれ。お前が良ければだがな」
「もちろん、良いですよ。ぜひ高値で買って下さいね」
青年はそう言って、口角を上げた。
「ああ」
章絢は青年の様子を見て、もう大丈夫だと思い、掴んでいた手を放した。
「では、私は絵に集中させてもらいます」
そう言って彼は、机に向かい、先程まで妬んでいた洸の存在すら忘れ、自分の世界の中へと入ってしまった。
章絢がやれやれと、溜め息を吐いたところで、麒煉が戻って来た。
「章絢、どうした? 何かあったのか?」
「フッ。大したことじゃないさ。なっ、洸?」
「うん」
「そうか?」
「それより、麒煉。お前こそ、それは何だ?」
章絢は、麒煉が手に持っていた、布に包まれた物を指差して訊いた。
「これか? まあ、後で見せるよ。ここでは、な……」
麒煉は意味有りげに、言葉尻を濁した。
「分かった」
章絢は自分以外には見せられない物なのだろうと判断し、頷いた。
「それより、子淡は?」
「先程、李待詔に呼ばれて、出て行った」
「そうか」
丁度、入り口に子淡の姿が見え、「あっ、戻って来た」と、章絢が言った。
「離れてごめんなさい、洸」
「ううん」
「子淡。用事は済んだのか?」と、麒煉が尋ねる。
「ええ。もう大丈夫よ」
「そうか。それなら、子淡と洸は家まで送らせよう。章絢はまだ、仕事があるからな」
「わざわざ、すみません」
「いや、呼んだのは俺だからな。馬丹管。二人を家まで送って行ってくれ」
「はっ!」
麒煉の命令に従い、護衛武官の一人である馬丹管は二人を家まで送って行った。
※ 殷鑑不遠……戒めとする手本は、遠い昔に求めなくても、ごく身近にあるということのたとえ。また、身近にある他者の失敗を、自分への戒めにせよということ。[詩経]