5.首都、龍居(ロンジュ)にて
再び、新婚さん甘々警報発令中。
三人は、龍居の街に入ってから、馬を下り、歩いて章絢の家へと向かっていた。
瞳国の首都である龍居には、多くの人々が集まって来ていて、商店や露店が所狭しと並び、大変な賑わいを見せている。
「ここが、龍居か。……スゴいね……」
洸は感嘆の溜め息を吐き、キョロキョロと辺りを見回す。
「こらこら、そんなにキョロキョロしていると、ぶつかるぞ」
麒煉が言ったそばから、洸は前を歩いていた章絢の背中にぶつかった。
「おっと、洸。気をつけろよ。俺がいなかったらお前、あの馬車に轢かれているぞ」
章絢に言われ、通り過ぎる馬車に目をやった洸は、顔を青くする。
「洸。街にはいつでも来られるんだから、ちゃんと前を見て歩け」
「はい」
洸は肩を落として歩き出した。
その落ち込んだ様子に少し言い過ぎたかと、麒煉と章絢は苦笑する。
洸の元気を取り戻そうと、二人は彼を飴屋へ案内した。
所狭しと並べられた色とりどりの飴を眺め、洸は目を輝かせる。
章絢はその中の一つを購入して洸に手渡した。
「わぁー。いいの?」
「ああ。もちろん」
「嘗めてみろ」
洸は、恐る恐る嘗める。
「美味しい!」
「そうか!」
「良かったな!」
「うん!」
洸に笑顔が戻り、二人はホッとした。
宮城の近くまで来ると、街の喧噪は遠くなり、立派な門構えの邸宅が建ち並んでいる。
その中でも、一際門の高い一軒の前に来た章絢は、警備の男達に声を掛けた。
「戻ったぞ。留守中、変わりはなかったか?」
「はっ! お帰りなさいなせ、章絢先生。異常ありません」
「そうか。ああ、先に紹介しておこう。今日からここで暮らすことになった、洸だ。私の大切な弟のようなものだ。春風と雷雨も仲良くしてやってくれ」
紹介された洸は、男達へ向かって、ぺこりと頭を下げた。
それに男達も礼を返し、章絢に、「畏まりました」と笑顔で言った。
「ただいまー」
家の中へと声を掛け、ズンズンと奥へ入って行く章絢の後を、麒煉と洸は追い掛ける。
書房の前で止まり、部屋の中に愛しの妻の姿を認めた章絢は、犬が尻尾を振っているかのような喜色満面な様子で、彼女に声を掛けた。
「子淡! 戻ったよ!」
愛しい夫を心配して、筆が進まず、ボーッとしていた子淡は、呼びかけられた声にハッとする。
「まぁ! 章絢! お帰りなさい」
子淡もパッと花が咲いたような笑顔になり、章絢に走り寄った。
「子淡、会いたかったよ」
章絢はそう言って、愛しい妻を抱き締める。
「章絢、私もよ。寂しかったわ」
「ああ、子淡!」
二人の遣り取りを見ていた麒煉は、放っておくといつまでも続くことを知っていたため、咳払いをして、止めさせる。
「コホン。それくらいにしてもらえないかな。洸も驚いているだろう?」
「ああ。子淡、紹介するよ。この子は洸。君の弟子として、面倒を見てもらいたいんだ。洸、この天女が俺の妻で、君の師匠になる子淡だ」
「まあまあ。私に弟子が出来るなんて! どうかよろしくね、洸」
子淡は洸を歓迎した。
その様子に洸は安堵する。
「はい、師匠! よろしくお願いします」
頭を下げた洸に、子淡は余所余所しさを感じて、眉根を寄せた。
「うーん。なんだか師匠なんて堅苦しい呼び方だわ。子淡大姐って読んでもらおうかしら?」
子淡の提案に、麒煉も賛同する。
「そうだな。その方が色々と都合がいい。洸、これから子淡のことは大姐、章絢のことは大哥と呼ぶように」
「分かった。あんたのことは?」
洸は頷き、麒煉に尋ねた。
「俺のことは、この場では麒煉大哥でも良いが、畏まった場では天子様、または皇帝陛下と呼ぶように」
「えっ!? えっ? えっ! ウソだろ?」
驚いて挙動不審になった洸に、「まあ、そう言うことだ」と、ニヤつきながら麒煉は言った。
「というか、天子様のことは知っていたんだな?」
章絢は不思議に思って尋ねた。
「そりゃあ、妈妈が天子様には絶対に逆らったら駄目だって、言っていたから……。俺、殺されるのか?」
青い顔をした洸が、怯えながらそんなことを言い出した。
それに麒煉は、ショックを受ける。
「おいおい、俺はそんな暴君じゃないぞ」
「洸、大丈夫だよ。今のところ、逆らってないだろう?」
そう言って、章絢は洸を安心させた。
「そうか。良かった」と言って、洸はホッと息を吐く。
「ふふ。洸は素直な良い子ね。きっとご両親が素敵な方なのね」
「そうだな。なんせ母親は天女だからな」
微笑ましそうに見守っていた子淡の言葉に、章絢はそう返した。
「まぁ! そうなの?」
子淡は驚いて困惑する。
「そうだ、洸。お前の力を見るのに、母親の絵を描いて、子淡に見せてくれないか?」
麒煉の提案に、章絢も乗っかる。
「それは良いな。洸、今から描けるか?」
洸は戸惑いながらも、「うん」と頷いた。
「洸。ここにある道具を好きに使ってね」
「はい」
子淡からの好意に、洸は目を輝かせて道具に見入る。
洸は恐る恐る筆を取り、近くにあった墨を付け、白い紙に描き始めた。
三人は洸が描く様子に感心して、飽きることなく眺めていた。
−−一時後。
「まぁ! 本当に天女のように綺麗ね……」
子淡は目を丸くし、章絢は感嘆の声を上げる。
「おおー。本当に絵が上手いな。初めての道具でここまでの絵を描けるとは、大したものだ!」
「えへへ」
二人の言葉に、洸は照れた。
洸は、泥で顔を汚していた母親の姿ではなく、泥を落とした洸だけに見せていた本当の姿を絵に描いた。
その絵を見て、麒煉は唸った。
「うーん」
「どうした? 麒煉」
「改めてよく見ると、どこかで見たことがあるような気がするんだよな」
「えー? これほどの美人、お前なら早々忘れないだろ?」
章絢の言葉に、麒煉は思わず半目になる。
「お前、俺のことをなんだと思っているわけ?」
その横で、子淡も、「うーん」と唸り出した。
「でも、私も前にどこかで見たことがあるような気がする……」
子淡の言葉に、章絢は驚く。
「えっ! 子淡も見たことがあるの?」
「ええ。たぶん……」
「うーん。どこだったかなー?」
「本当にどこだったかしら?」
麒煉と子淡の言葉に、洸の目が輝く。
「二人共、妈妈に会ったことがあるの?」
「いやー、会ったと言うよりはどこかで見たって感じな気がする」
「そうねぇ」
ずっと悩んでいる二人の様子に、埒が明かないと思った章絢は、麒煉に帰宅を促す。
「まぁ、今はこれ以上考えても思い出せないようだし、そろそろ暗くなるから麒煉は帰った方が良いんじゃないか? 浩藍が待っているだろ? それに、喜と伸も」
章絢が喜と伸の名前を出すと、麒煉は苦笑した後、父親の顔になって、二人の姿を脳裏に思い浮かべた。
「そうだな。今日はこれで帰るとするよ。悪いが、明日は、子淡と洸も章絢と一緒に龍居城に来てくれ」
麒煉の言葉に、「分かったわ」と、子淡は頷き、緊張した面持ちで、「龍居城?」と呟いた洸に向かって微笑んだ。
麒煉が帰った後、子淡は夕食の準備に厨房へと向かった。
章絢は、洸をこれから寝起きすることになる部屋へと案内した。
「今日からここが、洸の部屋だ。好きに使ってくれて構わない」
「いいの?」
「ああ。もちろん。必要なものがあったら遠慮なく言うんだぞ」
「ありがとう」
「疲れただろう? 夕食になったら、呼びに来る。それまでここで、ゆっくり休んでいてくれ」
「うん」
家宰から留守中の報告を受けていた章絢は、料理が食卓に並び、用意が出来たと子淡に言われ、洸を呼びに行った。
「洸、用意が出来た。食堂へ行こう」
呼びかけに返事がなかったため、章絢は、「洸?」と声を掛けながら、扉を開けた。
洸は、椅子に座り寝入っていた。
章絢は寝台まで運んでそのまま寝かせてやるか悩んだが、やせ細っている洸に少しでも食べて欲しくて、躊躇った後、肩を揺すった。
「洸、ご飯が出来た。起きてくれ」
「うーん? あれ、俺……」
「目が覚めたか?」
「章絢大哥?」
「ご飯が出来たんだが、食べられるか?」
「えっ!? ごめん。俺、眠ってしまったみたいで……」
「謝る必要はないぞ。さあ、食堂に行こう」
「うん!」
「うわー! スゴい!」
食堂に入り、食卓に所狭しと並べられた多彩な料理に、洸は目を輝かせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
章絢は、洸を席に案内し、自分も席に着くと、子淡が着席するのを待って、「さあ、いただこうか」と、二人に声を掛けた。
「はい。洸、沢山食べてね」
「うん」
子淡は洸に、とりあえず作法は気にせず、好きなものを好きなだけ皿に取って食べるように言った。
その様子を横で見守っていた章絢は、早速、目の前にあった鶏肉に箸をつけ、口一杯に頬張る。
「うーん。久しぶりの子淡の手料理は格別だな」
「もう。大袈裟ね。私一人じゃなくて、花梨老娘と一緒に作ったのだから、美味しいのは当たり前だわ」
花梨老娘は、章絢の乳母の女性だ。
子淡と結婚してからも、章絢の世話をするため、この屋敷の使用人の宿舎で、家族と一緒に暮らしている。
ちなみに、乳母の夫と、章絢と同い年で乳兄弟の息子は、屋敷の管理や内向きのこと全てを取り仕切る家宰をしていて、息子の嫁は子育てで忙しくしていた。
夫婦二人の会話を聞きながら、洸は黙々と初めて食べる御馳走に舌鼓を打っていた。
「洸、どう?」
「もぐもぐもふほふ」
「ああ、ごめんなさい。飲み込んでからでいいのよ」
「すっごく美味しいよ! こんなに美味しいものは初めて食べたよ!」
それを聞いて、子淡はホッとし、笑顔になった。
満腹になるまで食べた洸は、「苦しい。こんなに苦しくなるまで食べたのは初めてだ」と言い、嬉しそうに笑った。
そんな洸に、章絢も子淡も、「良かった」と涙を流した。
洸は困まった顔で、泣いている二人を見る。
章絢は、「目に塵が入っただけだ。気にするな」と言って、洸の頭を撫でた。
「洸。今日はもう部屋に行って休むといい」
章絢の言葉に、洸は頷き、「おやすみなさい」と言って、食堂を出て行った。
洸が居なくなった後、夫婦二人だけになった章絢と子淡は、再び会えた喜びを噛み締め、抱擁していた。
そうして、暫くしてから章絢は言った。
「子淡。笛を」
「はい。少しお待ち下さい」
子淡は席を立ち、奥の部屋から笛を持って来て、章絢に手渡した。
「やっと奏でることが出来る」
「ええ」
「まるでこの笛は、子淡のようだね」
「どうして?」
「だって、私がいないと綺麗な音を奏でられないだろう?」
「まぁ!」
「この笛は私と言う奏者がいて、初めて綺麗な音色を奏でると思わないかい? 俺達夫婦もそう。子淡と俺、二人で一つだ」
「それで、置いて行かれたのですか?」
「ああ、大切なモノを危険に巻き込みたくはないからね」
「章絢……。でも、きっと、この笛も私と一緒で寂しかったのではないかしら?」
「うーん? そうか?」
「ええ。だから、二つが揃った今、とっても素敵な演奏を聴かせてもらえるわね!」
「ああ、もちろんさ」
章絢は、笛を口元にやり、息を吹き込んだ。
その音色に、子淡はうっとりと聞き入る。
少し離れた部屋では、布団に入った洸が、眠れずに寝返りを打っていた。
「はぁ。眠れない……。こんな、立派なところ落ち着かないよ……」
そんな洸の耳にも笛の音色が届いて来た。
「綺麗な音……」
その音を聞いているうちに、洸はいつの間にか深い眠りに落ちていた。