4.虎穴に入らずんば虎子を得ず
一時も歩くと、洸は息が上がっていた。
それでも、弱音を吐かずに付いてくる洸が心配になり、章絢は声をかける。
「洸、大丈夫か? 疲れたら、遠慮なく言うんだぞ」
「大、丈夫。はぁ、麓の街までなら、はぁ、何回か、はぁ、行ったことが、あるから、はぁ」
息を弾ませながらも懸命に答え、足を止めない洸に、二人は胸を打たれた。
「でもお前、あまり食べていなかったんだろう? ガリガリにやせ細って……」
章絢は、洸の骨と皮だけの身体を見て、沈痛な面持ちになった。
「携帯食で良ければ、食べるといい」
麒煉は背負っていた袋から干し杏を取り出して、洸に差し出した。
「いいの?」
「ああ。少し、休憩しよう」
三人は近くの岩に腰掛けて、携帯食と水を口に入れた。
「そういえば、洸はあっちの村には行ったことがあるか?」
章絢は昨日行った村の方を指差して、洸に尋ねた。
その問いに、洸は首を横に振る。
「ないよ。あの村は、なんかおかしかった。妈妈も、絶対に近づくなって言っていたし」
「そうか」
途中から、麒煉と章絢が交代で洸を背負って歩いたため、日が暮れ、完全に闇に包まれる前には街に着くことが出来た。
疲労困憊の三人は、夕食を食べると、宿でそのまま一泊した。
——翌朝。
「いやー。昨日の晩飯の肉は、久しぶりだったからか、格別に旨かったな」
麒煉はご満悦な様子で朝食を食べながら、そう言った。
章絢も恍惚とした表情を浮かべ、粥を飲み込む。
「そうだな。この朝飯の粥も旨いな」
「ああ」
「だけど、早く子淡の手料理が食べたいよ」
麒煉と章絢の会話を横で聞きながら、洸は黙々と口に粥を運んでいた。
「ここから、都までは馬で行くから、直に着くだろ?」
「まぁ、そうだけど。洸は馬に乗るのは初めてか?」
「うん……」
訊かれて初めて、洸は不安になり、手が止まる。
「お前が怖がると馬も怯えるから、怖がるなよ。あいつらは賢いから、直ぐに馴れるさ。心配するな」
そう言って、麒煉は励まし、洸の頭を撫でる。
「洸。大丈夫だ。俺達と相乗りするんだから、大船に乗ったつもりでいろ」
章絢は胸を反らして、ドンと叩いた。
それを見て、洸が笑う。
「おっと、そうだった。砦西の庁舎だけ寄って行く。土砂崩れがあったことだけは伝えておきたい」
「分かった」
麒煉の言葉に章絢は頷いた。
「じゃあ。行くか!」
「おう!」
「うん!」
庁舎が一里程先に見えるところまで来て、麒煉は立ち止まり様子を窺っていた。
「で、どうするんだ?」
章絢は麒煉に問い掛けた。
洸は慣れない馬に乗ったため、気分が悪くなり、地面に蹲っていた。
「よし、章絢。お前が一人で行って来てくれ」
「えっ!? お前が行くんじゃないのか?」
「ここはお前の方がいい。いいか、今から俺の言う通りに行動してくれ」
「分かった」
「それじゃあ、………………————」
「なるほどな……」
章絢は、麒煉の指示に頷いた。
「俺と洸はここで待つ」
「そんじゃあ、ちょっくら行ってくるわ」
「ああ、頼んだ」
軽い調子で右手を振った章絢に、麒煉も右手を上げて答えた。
庁舎に入った章絢は、近くにいた役人に印綬を見せ、県令への取り次ぎと面会を求めた。
だが、暫く待っても、県令はもちろん、案内の役人すら現れず、何やら奥の方で揉めている気配がしてきた。
章絢は、ついにしびれを切らして、ずかずかと奥の方へ入って行った。
「失礼する!」
章絢が中に入ると、額に汗を浮かべて、焦った様子の男が一人立っていた。
「これは、大変お待たせして申し訳ありません」
男は額の汗を拭き、顔を取り繕って章絢に謝辞を述べた。
「あなたが県令か?」
「いえ。私は、県丞の揚羅文と申します。実は県令は本日、関の方へ趣いておりまして……」
「そうなのか? いつ戻るんだ?」
「予定では、明日になるかと思います」
「そうか」
「失礼ですが、貴方様は?」
「私は侍中の李章絢という」
章絢の名を聞いた瞬間、糸目の羅文の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
「なぜ、李侍中がこちらに!?」
「突然来て悪いな。陛下が街道の整備を進めたいと考えておられて、龍居(首都の名前)を離れられない陛下の代わりに各地を転々と回って、調査しているんだ。それで悪いんだが、砦西の街道の資料を見せてもらえないだろうか?」
「分かりました。急ぎ、ご用意いたしますので、こちらでお待ち下さい」
羅文はそう言って、部下達に指示をしだした。
下級の役人にお茶を出され、待っていた章絢は、部屋の様子をずっと観察していた。
「大変お待たせいたしまして、申し訳ありません。こちらでよろしいでしょうか?」
そう言って、羅文は数冊の冊子と巻子本を差し出した。
「ああ。有り難う。助かるよ」
章絢の言葉に、羅文はホッと肩の力が抜ける。
「揚県丞。そういえば、ここに来る前に山中の村の方へ向かう街道を歩いていたんだが、途中の崖が崩れていてね、それ以上進めなかったんだよ」
「それは知りませんでした。早急に対処します」
「頼むよ。ここだけでは復旧が難しければ、私の方でも力を貸すから、その時は書簡を送ってくれ」
「有り難き幸せ」
「それじゃあ、見させてもらうよ。君達は私に構わず、いつもの業務に戻ってくれ」
「はっ!」
−−一時後。
「見終わったよ。ありがとう。参考になった」
章絢は、近くで資料の整理をしていた役人に、声を掛けた。
「それは良かったです」
「ところで、県令は君から見てどんな人物かな?」
「そうですね。とても仕事熱心で、尊敬しております」
「そうか」
「今、揚県丞を呼んで参りますので、少しだけお待ち下さい」
「ああ、頼むよ」
「李侍中。お待たせいたしました」
羅文は、汗を流しながら急いでやって来た。
「揚県丞。とても参考になったよ。有り難う」
「いいえ。当然のことをしただけです」
「ところで、県令はどんな方なのかな?」
「どんなと言われましても……。とても、真面目な方だと思いますが……」
羅文は迷いながらも答えたが、言葉尻は声が小さくなった。
それにつられて、章絢の声も小さくなる。
「思いますが?」
「少し頑固で、人の話を聞かないところもお持ちで……」
「そうか。それは苦労するな。実はな、陛下も似たようなものだ」
「そうでございますか」
「内緒だぞ」
「もちろんでございます」
「お互い苦労するな。ははは……」
「ははは……」
小声で話すうちに、いつの間にか顔が近くなっていた二人は、空笑いをした後、「はぁ」と溜め息を零した。
「それじゃあ、失礼するよ。土砂崩れの件、くれぐれも頼んだよ」
真面目な顔に戻り、そう言った章絢に、羅文も真面目に「はい」と返事をした。
役人達は庁舎の表まで出て来て、章絢の姿が見えなくなるまで見送っていた。
一里程先の建物の影にいた麒煉達と合流した章絢は、「お待たせ」と声を掛けた。
「どうだった?」
麒煉は早速、問い掛けた。
「そうだな。見た感じ、黒に近い灰色だな」
「どういうことだ?」
「県令が不在だったんだけど、何かを隠している感じだった。県令が関わっているかどうかで、他の見方もちょっと変わってくる」
「県令はどこにいるんだ?」
「明日まで関の方にいるらしい」
「そうか。流石に、洸を連れて関までは行けないな」
「別行動するか?」
「いや。洸を無事に都まで連れて行くのが優先だ。これ以上は離れない方がいいだろう」
「そうだな」
麒煉は悪巧みをするかのようにニヤリと口角を上げ、それから言った。
「種は蒔いた。あとは、龍居に戻って様子を見よう」と。
章絢は、「ああ」と、頬を引きつらせながら答え、洸の方に目を向けた。
「洸。気分はどうだ?」
「もう大丈夫だよ」
「じゃあ、馬を飛ばしてもいいな」
「それは無理!」
「ははは」
軽口に反応出来るくらい元気になった様子の洸に、章絢は笑いながら、安堵する。
* * *
羅文が執務室に戻ると、飄々とした一人の男が待っていた。
「行ったか?」
「張県令! 何で隠れるんですか! 居ないって嘘までついて。胃に穴が空くかと思いましたよ」
「いや、急に来るからさ。向こうが探る気なら、こっちも探らせてもらおうかと」
「何ですか、それ。李侍中が関まで行ったらどうするんですか?」
「それはそれで、予定を変更して他のところへ視察に行ったことにすれば、問題ないだろう?」
「勘弁して下さいよ。私は、嘘がバレないかと冷や汗が止まりませんでしたよ」
そう言って、羅文は手巾を額に当てる。
「悪かったな」と言いながらも、全く悪いと思っていない様子の張県令に、羅文は溜め息を零す。
「はぁ。それで、探れたんですか?」
「ああ。李章絢。噂以上に面白い男だったな。気が合いそうだ。そんな男を扱き使う皇帝にも、俄然興味が湧いた」
「そうですか」
「とりあえず、言っていた土砂崩れの調査に行くか?」
「そうですね」
「これに何の意図があるのか。ワクワクして来たわ」
「うわー」
子供のようにはしゃぐ張県令に、羅文は辟易する。
「そういえば、俺は『頑固で、人の話を聞かない』んだったな」
「何で、それを聞いているんですか! ……地獄耳」
「そうさ。俺は地獄耳なんでな。人の話はよく聞いているぞ。聞く価値がないと判断した話は聞かないことにしているだけでな」
極小の音量で囁いた「地獄耳」を拾う張県令の聴力に、羅文はドン引きし、頬を引きつらせる。
「うわー。横暴」
「さて、どんな話が聞けるか。調査のついでに、住民に話を聞きに行きますか。揚県丞。留守を頼んだ」
「はぁ。分かりました。行ってらっしゃいませ」
ルンルンと鼻歌を口遊みながら出て行った張県令に、羅文は苦笑しながら、額から流れて来た汗を手巾で拭いた。
* * *
三人は今日も途中の街で宿を取った。
洸は慣れない騎乗のため、筋肉痛と疲労で限界だったのだろう、早々に眠りについた。
麒煉と章絢は、今日のことを話していた。
「洸を襲った男達を追っていた狗が、戻って来た」
「何か分かったか?」
「いや、予想通り、あの三人は末端も末端だったようで、助ける間もなく口封じされてしまった」
「そうか……」
章絢は目線を下げて、それだけ言った。
「どうやら、飛燦国の商人と繋がっていたみたいだが、それ以上のことは分からなかった」
「その商人のことは分からなかったのか?」
「それが、あいつらのやり口は巧妙で、国境を越えられてしまってからは、打つ手がなくてな」
麒煉は悔しそうに歯嚙みする。
「やはり飛燦国に潜入しないと、これ以上の情報は得られないか……」
「そうだな。やはり、飛燦国の中枢が絡んでいると思うか?」
「まぁ、これだけ尻尾を掴んでも、掴んでも切られて、足さえ掴ませてもらえないんだ。そう考えるのが妥当だろうな」
「ああ、頭が痛い」
そう言って、麒煉は頭を抱え込んだ。
県令……県の長官。
県丞……県の次官。
この話では、「国>州>県」の設定です。
※ 一時は、二時間程。