29.棺を蓋いて事定まる
毎朝の日課である、天迎宮での天帝への祈りの為に外へと出た麒煉は、ずっと降り続いていた雨が止み、蒼穹が広がっている事に驚いた。
そうして、空を見上げていると、視界に飛翔している龍が飛び込んで来た。
その龍が、段々と近づいて来ている事に気付き、天迎宮の前庭へと急ぎ足で向かう。
麒煉が辿り着くのとほぼ同時に、その場に龍が降り立った。
その背から、目的の人物が降りて来たのを確認して、麒麟はその名を呼ぶ。
「章絢!」
呼ばれた章絢は、声が聞こえた方を見て、顔を綻ばせた。
「麒煉!」
「師君。無事に章絢を連れ帰って下さり、有り難うございます」
麒煉の謝辞に、師君は鷹揚に言葉を返す。
「何、儂はちょっと飛燦国まで、龍を翔ただけじゃ」
章絢が泰潔を示し、麒煉に声を掛ける。
「麒煉。飛燦国の牢に囚われていたこの者を、一緒に連れて来た」
「この者は?」
麒煉の問いに、師君が答える。
「覚えておらんかのう? 昔、画院にいた儂の弟子の張泰潔じゃ」
「ああ。肖像画の得意だった、あの……」
麒煉は、泰潔へと青眼を向けた。
「思い出したか?」
「ええ。でも何故、飛燦国に?」
師君に訊かれ、答えた麒煉は、新たに問い掛けた。
それに、困った表情を浮かべた泰潔が答える。
「それは……。少し長くなるのですが……」
「そうか。では、立ち話もなんだ。俺の室で話そう」
そう言って、麒煉が誘導するように歩き出した。
「その前に、何か食べさせてくれないか?」
章絢はお腹を摩りながら、懇願した。
相変わらずな章絢の様子に安堵し、麒煉は笑みを零す。
「ああ。俺も朝食はまだなんだ。皆の分も、用意するように伝えよう」
そうして麒煉は、自分の室ではなく客間の方に皆を案内した。
朝食は半時も経たぬうちに運び込まれ、麒煉の合図で皆、食べ始める。
泰潔は、蓴羹鱸膾に胸が一杯になり、涙を流しながらそれを味わった。
食事が終わると、徐都事は引き継ぎをする為、尚書省へと行き、それ以外は麒煉の室へと移動した。
中に入ると、浩藍が麒煉を待っていた。
「陛下……」
「ああ。浩藍、おはよう」
麒煉が浩藍に挨拶すると、その後ろにいた章絢が脇から顔を覗かせる。
「浩藍? おお、浩藍! ただいま!」
「章絢! 師君! 善くぞご無事で……」
麒煉の後に続いて中へと入って来た二人を見て、普段、神色自若な浩藍も泣きそうな顔になった。
更にその後に続いた泰潔に目を留めて、先程の麒煉と同じような質問をする。
「ところで、こちらは?」
それに、師君が答える。
「ああ。儂の弟子の張泰潔だ」
浩藍は、頭の中にある人物一覧を捲る。
「張泰潔? ……ああ、あの肖像画が得意な……」
「彼はずっと飛燦国に囚われていて、今回、章絢と一緒に、師君に救出されたようだ」
麒煉が先程聞いた事を伝えた。
「そうですか……」
「今から詳しい話を聞くつもりでいるのだが、何か話が有ったのではないか?」
麒煉は、待っていた浩藍にそう問い掛けた。
「ええ。まぁ。こちらの案件は今日中で大丈夫ですので、先にそちらの話を伺いましょう」
浩藍はそう言って、持っていた書類を一旦、麒煉の机の上に置いた。
「分かった。さぁ、皆、あちらに座ってくれ」
麒煉は、コの字型に並べられた椅子の方を指し示した。
それに従い、席に着く。
「早速だが、何故、飛燦国に囚われていたのか、説明してもらえるか?」
泰潔を見据えた麒煉は、そう発した。
泰潔は麒煉と視線を合わせた後、遠い目をして語り出す。
「私は、自らに課した使命を果たす為、南方へと向かっていました。その途中、青都辺りで、飛燦国の密偵に捕まり、飛燦国の城へ連れて行かれました」
「青都か。確かにあそこは飛燦国と繋がっていたな」
麒煉も過去に思いを馳せた。
「そうですね。でも何故、あなたが連れ去られたのですか? 官僚でもない画家の貴方が」
麒煉同様に思考していた浩藍が、泰潔に問い掛けた。
「それは、その時に前右羽林軍将軍の郭先生を訪ねたからだと思います。近くまで来たからと懐かしく思って、父の旧友をただ訪ねただけでした。それで、きっと関係者だと思われたのでしょう」
「父の旧友?」と、章絢が疑問を口にする。
それに泰潔が、「今は分かりませんが、十数年前、父は右羽林軍の将軍でした」と、答えた。
「ふむ。確かに郭将軍と張将軍は竹馬の友であった」
師君は、懐かしそうにそう呟いた。
「ええ」
「それで、城に連れて行かれた後は?」
麒煉が先を促す。
「牢に入れられ、命令に従うように言われました。私は使命を果たすまで、死ぬわけにはいかないと、仕方なく従いました。奴らは持ち物から、私が画家だと分かったようで、私に絵を描くように言いました。私の描いた絵は、殊の外、王に気に入られたようで、ご自身以外にも王妃様や王太子様、その他の王族の方々の絵を描くように命令されました。そして私は、ニマ王女の肖像画を描きながら話すうちに美しい王女の虜となりました。私は想いに耐えきれず、王女に思いを伝えました。すると、彼女も私のことを思っていると……。ですが、囚われの身ではどうすることも出来ず、このまま、絵を描き上げてしまえば会うことも叶わなくなる。そして、彼女は政略結婚させられる。私達は、二人で駆け落ちすることにしました」
泰潔は、一息にそこまで話した。
「駆け落ち……」
誰ともなく呟かれた。
「はい。私達は、何とか瞳国まで逃げ延びる事が出来ました。ですが……」
言葉に詰まった泰潔に、浩藍が問い掛ける。
「貴方は捕まってしまったのか?」
「はい……。私は、再び飛燦国で牢に入れられ、彼女とは離れ離れになってしまいました」
声涙俱に下る泰潔に、皆、言葉が出ない。
「そうか……」
辛うじて麒煉がそう呟いた後、部屋には泰潔の鼻を啜る音だけが響く。
暫くして、章絢が口を開いた。
「それで、その使命というのは?」
「それは……」
泰潔は、言葉を濁す。
「もしや、昔、儂が頼んだ事と関係があるのではないか?」
師君が、泰潔の反応を窺うようにそう尋ねた。
泰潔は沈黙で答えを返そうとしたが、師君の燃犀のような視線に耐えきれず、貝のように閉じていた口を開いた。
「そうです」
「そうか。ずっと天迎宮の龍を昇天させる方法を探してくれていたのか……」
「どういう事ですか?」
章絢が師君に尋ねた。
「泰潔はな、張僧繇の子孫なのだ。それで、何か家の方に昇天の方法などが伝わっていないか尋ねたのだ。泰潔の父親も祖父も曾祖父も武人であったから、半ば諦めていたのだが……」
「師君。泰潔は何処まで天迎宮の龍の事を知っているのですか?」
麒麟が困惑した様子でそう尋ねた。
「恐らく、民衆に伝わっておる部分のみではないかのう? 儂からは、機密のところは話しておらぬ」
師君の言葉に、今度は泰潔が戸惑う。
「機密とは?」
「張泰潔。恐らく、そなたの使命と機密は関係がある事だと思う。ここにいる者達は皆、機密の事を知っている。張泰潔、そなたを信用して機密を話す事にする。その代わりに、使命を話しては貰えないか?」
「陛下……」
泰潔は、麒煉の余りに真剣な様子に怯み、話す事を躊躇する。
その様子に焦れた師君が、口を挟んだ。
「泰潔。結局、何も話してはくれずに旅立ってしまったが、何か伝承があったのではないか?」
「……確かに、信じられないような話が伝わっていました。余りに現実離れした話だったので、師君に話す前に、実在するのか確かめようと、言い伝えにあった南の地へと向かったのです」
泰潔は、当時を思い出しながら、師君の問いに答えた。
「その話とは?」と、麒煉が問う。
「我が家に伝わっていた書物に、張僧繇は龍を描いた時、鳳凰の羽、連理の梧桐の枝で作られた筆と玉の粉、麒麟の膠から作られた塗料、霊亀の硯を用いていたと、そう書かれていたのです」
「それは、確かに、俄には信じられぬ話であるな」
そう言って、麒煉は顔を顰めた。
それに浩藍も同意する。
「ええ。それこそ、伝説のような話です。そのような道具を手に入れる事が、先ず困難です」
「はい。私もそう思っておりました。我が家にもそのような道具自体は全く伝わっておりませんでしたから。ですが……」
泰潔の言を章絢が次ぐ。
「そうだな。実際、我々は鳳凰と会った」
その言葉に、麒煉が疑いの眼差しを章絢へと向ける。
「何?」
「ええ。ここに確かに、鳳凰の羽があります」
泰潔はそう言って、懐から出した羽を皆に見せた。
「これが?」
麒煉と浩藍は、半信半疑な様子で羽を見詰めた。
「はい。それに、ここにはありませんが、連理の梧桐の枝も、彼女と逃げている途中で手に入れたのです」
泰潔は強い眼差しで、信じて欲しいと願うように真摯に話した。
麒煉は、洸が洞穴で使っていた枝を思い出し、納得する。
「ああ。あれがそうだったのか」
「あれとは?」
浩藍は、訝しげに麒煉を見遣った。
その横で、章絢が泰潔に向けて話をする。
「王女から連理の梧桐の枝を預かっている者がいる。その者に会わせてやりたいが、その者の都合もあるだろうから、少し時間を貰いたい」
「そうですか……。牢でも話されていましたが、やはり彼女はもう……?」
泰潔は、沈痛な面持ちで、何とかそれに耐えるように尋ねた。
「ああ。埋玉してしまった」
章絢は、感情を殺したような声音で淡々とそう告げた。
「そうですか……」
泰潔は瞑目し、黙祷を捧げる。
その様は余りに儚げで、彼女の後を追っていなくなってしまいそうな危うさがあった。
それを引き止めるべく、師君が声を掛ける。
「泰潔。亡くなった彼女の分もそなたは生きねばならぬ」
目を開いた泰潔の表情から、先程まであった翳りはすっかり消えていた。
師君を見るその目には、力強い意志が宿り、鋭く光っているように感じられる。
「そうですね。以前は、偉大な師のお役に立つ事が、ひいてはこの国の為になると思い、それを使命として来ました。ですが、彼女と出会って、それだけではない想いが生まれました。彼女は私の絵をとても好んでくれていました。そんな彼女の為にも、画家として師を、それから張僧繇をも超えたいと、そう思ったのです。ですから、私は彼女に誇れる自分になるまで彼女には会えません」
「そうか」
師君は、泰潔の言葉に満足そうに頷いた。
「張泰潔。龍を昇天させる為に、特別な道具が必要だと分かった今、そなたの協力を仰がざるを得ない。その為、国の機密を話す事にする。だが、この事は決して、ここに居る者以外には話さないで欲しい」
泰潔は、麒煉の言葉に神妙に頷く。
「分かっております。私もこの国のお役に立ちたいのです。この国に不利益になるような事は決していたしません。どうかお話し下さい」
麒煉は、造士の事や守護龍の事を泰潔に話した。
「成る程。そう言う事だったのですね。では、造士ではない私には龍を昇天させる事は出来ないのですね……」
泰潔はそう言って、肩を落とした。
「恐らくは。だが、そう落ち込むな。こうして、道具の材料を集めて来たのはそなたなのだ。造士が目を描き入れて、昇天させようとも、そなたの功績は消えぬ」
麒煉の言葉に同意するように章絢は頷き、励ますように泰潔の肩を軽く叩いた。
それに泰潔も、「はい」と、頷いて答える。
決意を新たに、精一杯自分に出来る事をしようと、泰潔は拳を強く握り締めたのだった。
※ 棺を蓋いて事定まる……人は死んでから、その真価が決まる。
青眼……訪れた人を喜んで迎え入れる目つき。
蓴羹鱸膾……故郷の味。故郷を懐かしく思う気持ち。
神色自若……大事に直面しても顔色を変えず、平然としているさま。
声涙俱に下る……悲しみ憤って嘆き、涙ながらに話すさま。
燃犀……物事を鋭く見抜くこと。
埋玉……惜しい英才や美人の死をいう。