3.天女の正体
「疲れた」
「そうだな」
二人の顔には、疲労が色濃く表れていた。
「造士のことも気になるが、今日はもうこの村に泊まるか」
「そうさせてくれ。あの山を登る元気はもうない」
麒煉の提案に、章絢は一も二もなく頷いた。
「なら、食料の調達でもするか。携帯食も残り少ないからな」
「そうだな。さっき見てない家に少しでも残っていれば良いが……」
「それは、あまり期待しない方がいいな。覗いた家は全部、綺麗に何も残っていなかったからな。他もそうだと考えた方がいい」
「まぁな」
「それよりも、この蔓は山芋のものだと思うから、掘るのを手伝ってくれ」
「分かった」
山芋を数本掘った二人は、小川へ洗いに行き、ついでに水浴びをする。
「麒煉。魚も捕まえたぞ!」
「流石、野生児」
「おい。それは褒めてないだろ?」
「そんなことはないぞ? だが、獣の肉も食いたいな」
「わがまま言うなよ。もう日も沈みそうだし、そろそろ家の方へ戻ろう」
「そうだな。肉は街に戻るまで我慢だな」
二人は小ぢんまりした家のかまどを借り、火をおこし、芋と魚を焼いた。
それに持っていた塩をつけて食べる。
警戒して、調理後直に火は灰を掛け、消した。
それから、離れた別の家の馬小屋に移動し、藁の上に寝そべった。
「腹が膨れたら眠くなって来た」
章絢は欠伸をしながらそう言った。
気の抜けた様子の章絢に、麒煉は眉を顰める。
「ちょっと緊張感が足りないんじゃないか? もしかしたら、戻って来る村人がいるかもしれないからな。まだ警戒は解くなよ」
「分かっているさ。けど、先に寝させてもらってもいいか? もう目を開けているのが辛い」
「仕様が無いな。今日は、布団はいいのか?」
「山の中程寒くないから、大丈夫だ。藁もあるしな」
「そうか」
「じゃあ。頼んだ」
そう言って、章絢は目を閉じた。
その夜、村に現れる者はなく、蛙の鳴き声だけが響いていた。
——翌朝、二人は芋の残りを食べ、早々に村を後にした。
行きに付けていた目印を辿って、山を歩く。
そのお陰か、思ったよりも早く、昨日、天女を目撃した場所に辿り着いた。
泉に目を向けると、一人の少年が水を汲んでいた。
「なぁ、あの子供は影じゃないよな?」
章絢が目を眇めて少年を見ながら、麒煉に問いかけた。
それに麒煉は淡々と答える。
「俺には、人間の子供に見えるな」
「だよな。あの村の子供か?」
「さあな」
「天女はあの子供が描いたと思うか?」
「見たところ他に人はいないみたいだしな。とりあえず、あの子供を見張るか」
「そうだな」
その場の変化は、直に訪れた。
「おい」
「ああ」
章絢の小さな呼びかけに、麒煉も小声で答える。
少年が桶に水を汲み終わり、運ぼうとしていた時だった。
三人の男達が、少年に掴み掛かり、麻袋に入れようとした。
少年は必死に抗う。
「この餓鬼が! 大人しくしないと痛い目にあうぞ!」
「いやだ! 離せ!」
麒煉と章絢は、気配を消して四人に近付く。
「ぷぷっ。『大人しくしないと痛い目にあうぞ!』って、小悪党みたいな台詞だな」
章絢は小馬鹿にするように、挑発するようなことを男達に向かって言った。
「では、こちらも定番の台詞を。『嫌がっているじゃないか。さっさとその薄汚い手を離せ!』」
珍しく、麒煉も茶番に乗っかる。
剣を構えようとした二人の厳つい風貌と気迫に圧された男達は、少年を離し、あっという間に去って行った。
「クソっ! 覚えていろよ!」と、いう言葉を残して。
男達を追って、一つの影が消えた。
あまりの呆気なさに、章絢の口から笑いが漏れる。
「あはは。『覚えていろよ!』だって! 最後まで小悪党だったな?」
「ああ。定番の負け犬の遠吠えだな」
麒煉も呆れた顔をする。
地面に座り込んだまま、身動き出来ずにいた少年は、おそらく二人は自分のことを助けてくれたのだろうと思い、安堵の息を吐き出した。
そして、二人に顔を向けて、とりあえず疑問に思ったことを尋ねることにした。
「あんた達は、誰だ?」
麒煉は、ゴツい顔を出来る限り柔和にして、少年に答える。
「俺は麒煉。こっちは章絢。坊主は?」
「俺は、洸だ」
「そうか。ところで洸、ここで何をしていたんだ? さっきの奴らは?」
「知らないよ! 水を汲みに来たら、いきなり連れて行かれそうになったんだ」
「そうか。それは災難だったな。ところで、お前一人か?」
「どういう意味?」
警戒した洸は、立ち上がり足を一歩後ろにやる。
その様子を見て、章絢は洸の腕を掴んだ。
「おっと、逃げるなよ。俺達はこの国の役人だ。悪いようにはしないから、詳しく話を聞かせて欲しい」
「さっきの奴らが戻ってくると面倒だ。お前の家に案内してくれないか?」
「はぁ。分かったよ」
二人に印綬を見せられた洸は、それが役人の証であることは知らなかったが、逆らっても無駄だと思い、諦めた。
「こっちだよ」
章絢は洸の代わりに水桶を持ってやり、二人の後について行った。
「随分、森の中なんだな」
二里程(約一キロメートル)歩いたところで、麒煉が言った。
洸が立ち止まり、指を指す。
「ここだよ」
「ここか?」
「ただの洞穴じゃないか」
洞穴は、章絢の背より少しだけ高い程度で、広さは四、五人が寝そべることが出来そうだった。
物はほとんどなく、木の台、桶、器、布地、藁と薪、あとは石ころがあるくらいだった。
「ご家族は?」
「いない。妈妈は二月程前に死んだ。あとは知らない」
「そうか……」
母親を失って、まだそんなに経っていない子供に、二人はそれ以上、掛ける言葉が見つからなかった。
いつもは軽口を叩く章絢も、口を開けては閉じを繰り返し、どうしようかと迷っている。
洸はその時のことを思い出したのか、俯いて涙を零す。
それを見て、章絢は言葉の代わりに、洸を包み込み、背中を優しく撫でてやった。
ホッとして、今までの緊張が解けたのか、洸は慟哭する。
麒煉はその様子を、慈しむような眼差しで見つめていた。
洸が泣き止むと、章絢は手巾で涙を拭い、それを渡した。
有り難く受け取った洸は、それで鼻をかむ。
落ち着きを取り戻した洸は、前方の壁に視線を向けた。
そこには、農村で暮らしていそうな、平凡な顔の女性の絵が描かれていた。
「あの絵はお前が描いたのか?」
麒煉は、洞窟に入った時、真っ先に目に飛び込んで来て気になっていた、この壁画について洸に尋ねた。
その問いに、洸は一つ頷く。
「そうか。噂の天女もお前が?」
「噂の天女?」
章絢の問いの意味が分からず、洸は首をかしげる。
「昨日の朝、泉にいた女性だよ」
「ああ。あれも死んだ妈妈だ」
麒煉の補足で、何のことかは分かったが、天女ではないと即座に否定する。
「本当か!? スゴい美人だったんだな、お前の母親」
「そうなのか?」
興奮気味に褒める章絢に、母親以外の女性を知らない洸は、有耶無耶に答えることしか出来ない。
「ここには、いつから住んでいるんだ?」
「分からないけど、たぶん生まれた時からずっとだと思う」
「お前は、幾つなんだ?」
「たぶん九歳」
麒煉の問いに、洸は淡々と答える。
「そうか。おそらくお前の母親は訳ありだな。よく今まで見つからなかったものだ……」
「そうだな。あんだけの美人だ、見つかったら人買いに攫われていただろうな」
麒煉と章絢の言葉に洸は驚き、納得する。
「そっか。それで母ちゃん、顔に泥を塗って、髪もぐしゃぐしゃにしていたのか……」
「母親の名前は分かるか?」
「妈妈は妈妈だよ」
「洸、それはたぶん、本当の名前ではないと思うぞ」
章絢にそう言われて、洸は不思議そうな顔をする。
「そうなの?」
そんな洸の様子に、麒煉は遣る瀬ない思いが込み上げて来たが、ぐっとそれを押し込んで、告げる。
「洸。悪いが、ここでの生活は今日で終わりだ」
「なんで?」
「洸の力は特別なものなんだ。この力を持っているものは、国で保護することになっている。例外は認められない。それ程、貴重な力なんだ」
「……俺はこれからどうなるんだ?」
「そうだな。この力は、矛にも盾にもなる。時として危険なものでもある。使いこなすには正しい知識が必要だ。だから、都で師について学んで欲しいと思う」
麒煉の言葉に息を呑んだ洸は、神妙に頷いて言った。
「……分かった」と。
「直に出発すると言いたいところだが、何かやり残したことはあるか?」
「妈妈に挨拶したら、直に行けるよ」
「そうか」
洸は洞穴の奥の石が積まれ、盛り上がっている場所に向かって話す。
「妈妈。俺、都に行くね。どうなるか分からないけど、きっと立派になって戻ってくるから、心配しないで、ここでゆっくり待っていてくれよ」
「洸……」
「洸のことは私共にお任せ下さい。どうか、心安らかにお休み下さい。」
麒煉がそう言うと、壁画の女性が微笑んだような気がした。
「お前の思いは、きっと母親に届いているよ」
章絢はそう言って、洸の頭を撫でた。
「それじゃあ、出発するか」
「あの、これを持って行ってもいい?」
洸は、おずおずと二人にそれを見せる。
「何だ? その棒は」
「これは、唯一、妈妈が爸爸から託された物なんだ。これを肌身離さず持っていなさいって、言っていたから……」
「他には何か言っていなかったか?」
「連理の梧桐の枝だって言ってた」
「連理の梧桐の枝?」
「うん。これで絵を描くと、描いたものが浮き出て来るんだ!」
洸が目を輝かせて、そう言った。
「もしや、これを使えば、誰でも造の力が使えるのか?」
「いや、それはないだろう。天帝もそんなことは、仰っていなかったからな。たぶんだが、これを使うことによって、未熟な洸の力が制御されて、発現したのだろう」
「そうか」
「ほら、石を使って描いた壁画は、実体化されずにそのまま残っているだろう?」
「そうだな」
「力を制御出来るようになれば、俺のようにただの石で描いても実体化出来るようになる。子淡は出来るだろう?」
「さあな。子淡がただの石ころで描いているのを見たことがない」
「そう言われると、そうだな」
麒煉は肩を竦める。
洸は不思議そうな顔をして、二人の会話が終わるのを大人しく待っていた。
「悪い。待たせたな、洸。それは持って行っていいぞ」
麒煉の言葉に洸は「良かった」と、安堵の息を吐く。
「ただし、人前でそれを使って絵を描いたら駄目だ。どうしてかは、分かるな?」
「うん。危険になるかもしれないからでしょ?」
「まぁ、そう言うことだ。詳しいことは、都に行ってから話すよ」
「分かった」
洸は梧桐の枝をギュッと抱き締め、頷いた。
「それじゃあ、行きますか」
「ああ」
三人は最後にもう一度、壁画に目を向けたあと、洞穴を出て、馬を預けてある麓の街まで歩き出した。
※ 唐では、資料によってばらつきがありますが、約320m、約453m、454m、441m、559.80mを一里としていたとか。
現在の中国では、500m。
日本では、約3.9km。
ちなみに、朝鮮では約400mに相当するそうです。
本作ではアバウトに約500mということにしています。