26.天性は猶お命のごとし
「俺はどのくらい眠っていた?」
章絢は頭を振って、現実へと意識を向けた。
「二、三時程だと思う」
牢の中は薄暗く、時間の感覚は曖昧になるが、昇月は自らの腹の空き具合などから時間を算出した。
「そうか……。その間、何か変化はあったか?」
「ここには変化は無いが、城内はザワザワしているようだ」
「王が倒れたのだから、大騒ぎであろうな」
「ああ」
まだまだ知りたいことは山程あるが、この隙に逃げ出すべきかと、章絢達は思案していた。
そんな中、一人の男が牢にやって来た。
男は章絢達に近づき、小声で話す。
「王妃様のご指示で参りました」
男は、前に王妃が王に突き飛ばされた時、駆け寄っていた官吏であった。
その顔を見て、信用に足ると章絢は判断し、名を尋ねた。
「あんたは?」
「私は王妃様の専属武官です。言付けをお伝えします」
男は名乗ることなく、用件を手早く済ませようとした。
檻の外にいる自分の傍に来るように、章絢達を手招く。
それに応えて、彼らは男に近づき、耳を寄せた。
男は彼らにそっと囁く。
「『王は恐らく保たないだろう。もう数日、辛抱して欲しい。時が来たら、抜け出せるように計らう』とのことです」
「そうか」
章絢は静かに頷いた。
「何か入り用なものはありますか?」
「大丈夫だ。食事の量は足りないが、そんな贅沢を言っては他の捕虜達に悪いからな」
「左様ですか。出来る限りは、配慮しましょう」
「ああ」
男はスッと気配を消し、あっという間に去って行った。
それから、彼らに与えられる食事の量は多少増え、待遇も良くなったように感じられた。
王妃からの言葉を信じることにした章絢はその時をじっと待ち、いつでも脱獄出来るように英気を養った。
−−六日が経った。
簡素な喪服を纏った王妃が、牢へと遣って来た。
「王の天命は尽きたわ。やはり、天は王の為さり様をお許しにはならなかったのよ」
王妃は、やはり夫を亡くし、辛いのであろう。
その顔には翳りが見え、憔悴しているように感じられた。
だが、表向きは王妃としての職務を果たそうと、毅然とした態度で彼らに対面している。
「そう、ですか……」
その様子を見て、章絢はそれ以外の言葉が出なかった。
「今、城内は荒れているわ。馬鹿な臣下が王の弔いだと言って戦をし、王太子の力を削ごうと画策しているけれど、そんなことはさせない。こんなことを頼めた義理ではないけれど、どうかこの国へ攻め込まないで。息子がきっとこの国を掌握し、瞳国へと友好の使者を送るから、それまで待っていて。お願いよ」
王妃はそう言いながら、章絢達の檻の鍵を開けた。
「王妃様……」
章絢は返答に迷いながら、檻から出た。
「少ないけれど、これを持って行って」
彼女は、ずっしりと重みのある革袋を章絢の手に持たせた。
「これは?」
「玉よ」
「玉!?」
「私が嫁入りした時に頂いたものなの。僅かだけれど、これは私の気持ちだから……」
章絢は革袋を開けて、中を覗いた。
数は少ないが、透明度の高い希少な翡翠が入っていた。
「このような貴重なものを……。王妃様の誠意は分かりました。戦にはならぬよう、最大限の努力はします」
章絢は大事そうに、革袋を懐へとしまった。
「それには儂も尽力しましょう」
突然、二人の会話に割り込む声がした。
「師君!?」
章絢は驚き、目を見開く。
「貴方は、もしや、李太師?」
「左様です、王妃様。王太子様の婚礼振りですな」
「ええ。その節は、ありがとうございました。貴方が来て下さったなら、もう大丈夫ね」
彼女はそう言って、師君に微笑んだ。
そして、章絢の手を取って、「どうか、フルの分まで長生きしてちょうだい」と、懇願した。
章絢は彼女の手を軽く握り返す。
「ありがとうございます、王妃様。どうか、お元気で」
「ええ、貴方も……」
二人は名残惜しそうにしながらも手を離し、笑顔で別れの挨拶をした。
そうして、章絢達が牢から立ち去ろうとしていたところで、別の檻から声を掛けられた。
「どうか私も連れて行って下さい!」
「お主は!?」
男の顔を見た師君は、瞠目する。
「師君! またお会い出来るとは……」
「それは儂の台詞だ。泰潔。お主が旅立った後、連絡が途絶えて十年以上経ち、もう生きてはおらんかもしれんと思っておった」
「積もる話は後に。早くしないと牢番が戻って来ます」
「おお、そうじゃな」
章絢の指摘を受けて、師君は何処からか取り出した金属の棒で、器用に鍵を開けた。
「ありがとうございます」
「さっ、行くぞ」
無事に牢から脱出した章絢達は城にある裏の林を抜け、その先の森にまで辿り着いたところで、一旦歩を休めた。
「師君。瞳国へと戻る前に、一カ所寄っていただきたいのですが、宜しいでしょうか?」
「どこへ?」
「この機に、少しでも戦の可能性を減らしたいので、砦を一つ潰して行こうと思います」
章絢の発言を聞いた昇月が、目を輝かせてポキポキと首を鳴らし、肩を回す。
「おっ、そりゃ良いな。腕が鳴るぜ」
「おいおい、昇月。事を荒立てたら台無しだからな。密やかに潰すんだ。瞳国が関わっているとバレないように、な。最低限、砦の機能を麻痺させるだけでも良い」
「なーんだ」
章絢に言い聞かせられるように睨まれた昇月は、ガックリと肩を落とす。
「はぁ、残念がるなよ」
章絢は呆れて、溜め息を吐いた。
二人の遣り取りを見て、師君は楽しそうに笑う。
「ほほ。取り敢えず、そこまで偵察に向かうかのう。場所は、何処じゃ?」
「国境を挟んで砦西の対面の方です。そこの山中に砦があります」
「そうか。ここからだと、ちと距離があるのう」
「そうですね」
「時間が惜しい。儂が龍を出す。その背に乗って行こう」
「師君。宜しいのですか?」
造の力を味方とは言え、多数に見せても良いものかと、心配になった章絢が師君にそう尋ねた。
「ああ。ここに居る者は、皆、信用に足る者達であろう?」
「そうですね」
「それに、時代は移り変わって行く。この力も、いずれ秘匿する必要が無くなっていくことであろう」
「師君……」
師君は、巻物を懐から出し、広げた。
「出よ」
師君がそう発すると、巻物から龍が現れ、地に伏した。
師君が描いた龍は、天迎宮の龍よりも小振りであったが、十分に大きかった。
それでも、天迎宮のものより親しみやすそうな風体をしており、師君の人柄を現しているように感じられた。
章絢以外の者達は、目の前の光景が信じられず、呆然としていた。
「お前達、大丈夫か? この力は、瞳国の機密だ。他言は無用だぞ」
「はっ!」
章絢の鬼気迫る脅しで我に返った昇月達は、神妙に畏まった。
「さあ、その背に跨がれ」
師君の指示に従って、皆、おっかなびっくりで龍に跨がった。
「では、出発するぞ。しっかりと掴まっておれよ」
師君はそう言って、龍を翔けさせた。
「うわ」
「こりゃー、すげーな!」
文官達は、必死にその背に掴まり、昇月達武官は、興奮気味に楽しそうな声を上げた。
龍の翔る速度は想像以上に早く、半時後には眼前の山中に砦らしきものが見えて来た。
師君は少しだけ速度を落とす。
「あれかの?」
「ええ。恐らく」
師君の問いに章絢が答える。
「ならば、この辺りで一旦下ろすかのう?」
「はい」
師君は、砦から四里程(二キロメートル程)の森の中に龍を着地させた。
全員が龍から下りると、師君は巻物の中へ影を戻す。
「龍が見られた可能性があるから、念の為、見つからないように六里程(三キロメートル程)移動するぞ」
「はっ!」
章絢の指示に従い、皆、砦からの距離は遠ざからないように、砦を中心に円弧を描くように森の中を足早に移動した。
着いた場所は砦よりも少し高い位置にあり、中の様子を窺うことが出来た。
「それで、章絢よ。どうやって砦を潰す?」
「そうですね……。李丞相の話では、砦の中の半数以上が瞳国からの移住者とのことです。出来る限り穏便に、制圧したいのですが……」
師君の問いを受けて、具体的な方法を未だ模索していた章絢は悩み始めた。
「王宮からの使者は、こちらには来ているのでしょうか?」
徐都事がそう尋ねた。
「どうでしょう?」
他の者達も思案する。
その様子を窺い、徐都事は自らの案を話す。
「ここから砦を窺うに、王が亡くなったことは未だ伝わっていないように思います。使者に扮してそれを伝え、一旦砦の者達も喪に服し、休むように命じてみてはどうでしょうか? 大人しく従うとは思いませんが、それで混乱を招くことが出来るかもしれません。その混乱に乗じて、砦へと潜り込み、砦にいる者達を不安で陥れ、飛燦国から瞳国へと戻るように唆しませんか? それと、鍛冶場などの機能は破壊します」
徐都事の案に頷きながらも、章絢は他の者達にも意見を聞く。
「何か他に良い案はあるか?」
何か言いたそうにしながらも、悩んだ様子の泰潔に、章絢は発言を促す。
「ん? 何だ? 遠慮せずに忌憚のない意見を聞かせてくれ。少数精鋭で事に当たらなければならないのだからな」
「それならば、その案の、砦へと行く使者の役目を私にさせてはもらえませんか?」
泰潔の言葉に章絢は、目を見開く。
「その理由を聞こうか?」
「はい! 私ならば、こちらにも顔馴染みがいるかもしれません。私が牢に入っていることは多くの官吏が知っています。その私が、この場に現れれば城で何かがあったことが直に分かります。王が亡くなったことも疑われることはないでしょう」
何とも判断し難く、章絢は唸る。
「うーむ。確かに、見ず知らずの我々が行くよりは怪しまれずにすむだろうか?」
「どうだろう? 牢に入っていた者がいきなり現れた方が怪しまれるかもしれないぞ?」
そう言った昇月の言にも悩んだ章絢は、師君に意見を求めた。
「師君はどう思われますか?」
「そうじゃのう。確かに、この中では泰潔が一番の適任だとは思うのう。何より飛燦国語もこの地の事情にも一番明るいであろうからのう」
「そうですね。私達では、直に疑われてしまいそうですね」
師君の発言を徐都事も首肯する。
「師君。他に何か良案はありませんか?」
「そうじゃのう。砦の様子がはっきりとは分からないから何とも言えないが、その案で上手くいけば、穏便にことが済みそうではあるのう。取り敢えず、それで進めてみてはどうかのう?」
師君からのすすめもあって、遂に章絢は腹を決めた。
強い眼差しで一同を見渡す。
皆はそれに応えるように、強く頷いた。
「それでは、この案を詰めて行くぞ」
「はっ!」
※ 「天性猶命」……人の生まれつきは天命のようなものである。[論衡]