20.子淡の回想③
二年の間に随分と成長し、造士としての力も安定してきていた子淡は、一月程前に画院の中にある師君の部屋の一画を専用に分け与えられた。
この頃は、そこで陛下からの仕事をすることも増えて来ていた。
この日もそこで陛下の肖像画を描いていた。
廊下からバタバタと足音がしたと思ったら、バタンといきなり扉が開き、子淡は驚いてそちらを見る。
「子淡! この絵の影を描いてはくれないか?」
ズカズカと麒煉が子淡の傍までやって来て、そう言った。
子淡は詰めていた息を吐き、差し出された肖像画へと目を向ける。
「こちらは?」
「美人だろう? 飛燦国の王女だよ」
「何故そのような方の影を?」
「実はな、この方は流行病で亡くなったそうだ」
「えっ!?」
「俺に色々と縁談が来ているのは、きっと噂で知っているだろう?」
「はい」
「俺はこの方の絵を一目見た瞬間に心を奪われたんだ。だが、その思いも報われることはなくなった。……せめて、偽物でもいいから実体化した彼女に会いたいと思ってしまったんだ……。駄目か?」
「そうですか……」
子淡は、初めて見る麒煉の憂い顔に憐憫の情が湧いた。
彼に笑顔になってもらいたくて、おちゃらけるように、「分かりました。師哥の願いを叶えて差し上げましょう」と言って、筆を持った。
この頃には李待詔に匹敵する程の腕前になっていた子淡が描いた王女は、絵とは思えない程、実在の人物と遜色がなかった。
王女の美しさをそのまま写し出した影に麒煉は見惚れ、傍らの子淡の存在さえ忘れた様子であった。
子淡は静かにその場を去り、麒煉と王女の影を二人きりにした。
廊下で控えていた子淡の耳に、麒煉の啜り泣く声が聞こえて来る。
「師哥……」
流行病で亡くなったという王女。
子淡は流行病で亡くなった、母と姉のことを思った。
そして、今の麒煉はその自分と同じような気持ちでいるのだろうかと考えて、胸が痛んだ。
半時程が経ち、麒煉が室から出て来た。
「子淡、ありがとう。もう大丈夫だ。絵に戻してくれ」
そう言った麒煉の顔からは憂いが消え、前を向いている様子が窺えた。
子淡はホッと息を吐き、「分かりました」と言って、紙の中へと影を戻した。
「この飛燦国から届いた肖像画は、画院の倉庫にしまっておくよ。画家達がいつでも見て学べるように」
「はい」
麒煉の言葉に、子淡はただ頷いた。
「子淡が描いた絵はどうする? 自分で持っているか?」
「いえ。良ければ、肖像画と一緒に仕舞っていただけないでしょうか?」
「そうか。では、二枚とも持っていくよ」
「はい」
麒煉は二枚の絵を持って、倉庫の方へと歩いて行った。
その足取りは、来た時とは違いしゃんとしたものとなっていた。
それから暫く、麒煉は画院へと足を運ぶことはなかった。
噂では、冠礼(成人)と同時に婚礼を挙げる為、準備に追われているという。
子淡は、陰ながら麒煉の婚礼をお祝いしていた。
そんなある日、画院へと歩を進めていた子淡は後ろから迫り来る不穏な気配を感じ、駆け出した。
ところが、直に追い付かれて、路地へと引きずり込まれた。
力強い手で押さえ込まれ、振り払おうとしても引き剥がすことが出来なかった。
子淡は助けを求めるように叫ぼうとしたが、それに気付いた相手に口を塞がれ、猿轡を噛まされる。
そして、あっという間に手足も縄で拘束されてしまった。
恐怖に支配された子淡の目からは、次から次へと涙が溢れてくる。
「へへ。泣き顔も可愛いね。こりゃ、公子が喜ぶぜ」
そう言って子淡の顔を覗き込んで来た相手の顔は、子淡には涙でぼやけてよく見えなかったが、顔中が髭で覆われていて、薄汚い獣のように見えていた。
「うー、んー、んー」
子淡は必死に足掻いた。
薄汚い獣はその様子を嫌らしい顔で眺め、舌舐めずりをする。
「こりゃあ、生きがいい。公子に渡す前に少し躾が必要だな」
獣が子淡の顔へと手を伸ばそうとしたその時、「ゴン」と鈍い音が辺りに響いた。
そして、獣の手は子淡の顔に触れる前に、ダランと落ち、身体が傾いで子淡から離れた。
子淡は一瞬何が起きたか分からず、目をぱちくりとさせる。
「大丈夫か?」
そう言った、声の主が子淡の拘束を解いていく。
拘束が解かれた子淡は聞き慣れた声の主に抱き付き、声を上げて泣き出した。
「子淡。もう大丈夫だ。怖かったな」
「うわーん。師哥。うー……」
縋り付いて泣きじゃくる子淡を宥めるように、章絢はその身体を包み込み、背中を摩った。
少しすると、子淡の泣き声を聞きつけた人々が集まって来た。
章絢は子淡を抱いたまま、彼らに状況を説明し、転がって白目を剥いている獣を託す。
そして、子淡を横抱きにした章絢は子淡の家へと歩を進めた。
章絢に包まれて安心した子淡は、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。
さっきよりも少し重みを感じた章絢は、腕の中の子淡へと顔を向ける。
「子淡……」
涙が乾き、安らかに眠る子淡の姿に、章絢の心は波立った。
言い様のない感情を持て余した章絢は、更に強く子淡を抱き込み、歩を進めた。
子淡は、家に着いて寝台に下ろされた時に目を覚ました。
「んー?」
「子淡。目が覚めたか?」
「師哥?」
子淡は何度か目を瞬いた。
「……! 私……」
ハッとした子淡に章絢は優しく微笑む。
「何も心配するな。ゆっくり休め」
「でも、画院へ……」
「はぁ。分かった。画院の方には俺から伝えておく。だから、休んでくれ」
章絢の必死な懇願に負けた子淡は、こくりと頷いた。
「それから、これから出掛ける時は俺が護衛をする。絶対に一人で出掛けるな」
「えっ!? 流石にそれは……。皇子に護衛してもらうなんて、おかしいです」
「いや、もうすぐ俺は皇子じゃなくなる。そう陛下と約束した。だから、問題ない」
「でも、今はまだ皇子ですよね?」
「子淡。頼む。俺にお前を守らせてくれ。お前に何かあったら、生きてはいけない。本当に無事で良かった……」
章絢はそう言って子淡を抱き締めた。
先程、自分から抱き付いた時は、恐慌状態だったこともあり平気だったのだろう。
すっかり平静を取り戻していた子淡は、急な章絢の行為で頭が真っ白になり、再び落ち着きを失った。
鼓動が跳ね、ドクドクと激しく脈打ち、頭が茹だって働かなくなる。
「子淡。毎朝、こちらに顔を出すから、俺が来るまで絶対に外出しないでくれ。良いね?」
章絢の命令と言える程の強い口調に、子淡はただただ首を縦に振った。
「それじゃあ、ゆっくり休むんだよ」
章絢はすっかり解れていた子淡の髪を指で梳き、頬を撫でてからその場を後にした。
真っ赤な顔をした子淡は、暫くその場で惚けていた。
翌朝、早速、章絢は子淡の許を訪れた。
「おはよう。今日は出掛けるかい?」
「はい。昨日は、行けなかったから……」
「そうか」
子淡は章絢と並んで、画院へと向かう。
「あの、ありがとうございます」
「気にするな。好きでしていることだ」
「はい……」
章絢の甘やかすような優しい声に、子淡は胸がむず痒くなった。
二人が画院に着くと、後ろから声を掛けられた。
「子淡! 昨日はどうしたんだ? 急に来られなくなったと聞いたが……」
振り返ると、心配そうな顔をした麒煉が立っていた。
子淡は笑顔を向けて挨拶する。
「ご無沙汰しております。昨日は急用が出来て来られませんでした。待っておられたのですか?」
「ああ。頼みたいことがあって、な……。その者は?」
麒煉は子淡と一緒にいた章絢をジロジロと不躾に眺める。
その視線に、章絢は不快そうに眉を寄せた。
子淡は二人の様子に困惑する。
「あの。お二人は初めてお会いされたのでしょうか?」
「えっ?」
子淡の問いに麒煉も困惑する。
「ああ」
章絢は素っ気なく答えた。
「そうですか……」
子淡はどうしたものかと途方に暮れる。
「それで、子淡。この者は?」
麒煉がもう一度同じ問いをする。
子淡はどうとでもなれと、半ば自棄っぱちに口を開けようとした。
だが、その前に章絢がぶっきらぼうに、「彩だ」と、言った。
「えっ?」
麒煉と子淡の間の抜けた声が重なった。
「だから、俺の名は『李彩』だ」
章絢の少し怒ったような声音に子淡はビクッとした。
「まさか……」と、呟いた麒煉は目を見開いて、章絢をじっと見た。
「第二皇子か? 何故、子淡と一緒にいる?」
「殿下に御説明しないといけませんか?」
章絢は挑発的な態度でそう言った。
麒煉の装いを見て、彼が誰かを章絢は直に察していた。
逆に章絢の装いは、街でも解け込めるように一般的な青年のものだった為、名を聞くまでは、麒煉は彼が誰かを悟ることが出来なかった。
麒煉は、章絢の態度に一瞬ムッとしたが、息を吐いてそれを流す。
「いや。それには及ばぬ」
二人の険悪な様子に、子淡は一人でオロオロしていた。
「子淡。俺は一旦、芙蓉宮に戻る。昼にまた来るから、一人で勝手に帰るなよ。それでは殿下、御前失礼いたします」
章絢は一息にそう言って、あっという間に去って行った。
その後ろ姿を、悲痛な顔をして麒煉は見送った。
「師哥……」
「ああ、子淡。すまない。気まずい思いをさせてしまったな」
「いえ。……中へ入りますか?」
「そうだな。中で話そう」
二人は画院の子淡の部屋へと歩を進めた。
「どうぞ」
部屋に着き、子淡はお茶を淹れて、麒煉へと差し出した。
「子淡のお茶も久しぶりだな」
麒煉はそう言って、香りを楽しみ、口に含む。
「こちらの方も随分と腕を上げたものだ」
麒煉の褒め言葉に、子淡は喜色満面になる。
お茶を飲み干し、茶杯を卓に置いた麒煉は、一息吐いて話し出した。
「実はな、冠礼の儀式の中で、天帝への拝謁というものがある。それに子淡も参加してもらいたい」
「えっ!? 私が、ですか?」
「ああ。造士には立ち会う権利がある。表向きは師君の付き添いと言うことになると思うが、そこで子淡には龍の目を描き入れてもらいたい」
「龍の目?」
「ああ。天帝をお迎えする処を天迎宮というのだが、そこには目玉のない二体の龍の絵がある。伝承では、龍に目玉を描き入れるとたちまち天へ昇ると言う」
「えっ!?」
「誰が目を入れても天に昇るわけではない。今までも多くの造士や天子達がその目を描き入れてきた。だが、誰一人として昇らせることは出来なかった。もちろん師君や陛下も試されている」
「それなら、私もきっと出来ないでしょう」
「そのような気弱なことを言わないでくれ。折角の機会なのだ、もっと強気に挑んでもらいたい」
「分かりました」
「後の詳しいことは師君から聞いてくれ。まだ、後三ヶ月あるからな。それまでに色々と準備すると良い」
「はい」
「それじゃあ、また茶を飲みに来るよ」
「お待ちしております」
麒煉は子淡に笑顔で手を振り、その場を後にした。




