19.子淡の回想②
師君から「造」の力の制御と絵を習うようになって一月程経った頃、この日は彼から鳥が来ず、子淡は弟の亘と一緒に珍しく家に居た舅父に剣を習っていた。
母の一番上の兄である清冴舅舅は、祖父を凌ぐ剣の使い手だった。
下級武官の子にしては異例な将軍にまで出世し、請われて高官の子息などにも指南している。
暫く経った頃、二人の青年が清冴を訪ねて来た。
清冴の弟で、子淡の母の二番目の兄である澄牙舅舅の息子、昇月とその時一緒にいたのが章絢であった。
「おっ! 君達が、昇月の従兄弟か?」
章絢は人懐っこい笑顔を浮かべて、子淡と亘に話し掛けた。
「……はい」
子淡と亘は初対面の章絢に人見知りをし、小さく返事をする。
そんなもじもじとした様子の二人を微笑ましい思いで見遣った章絢は、昇月の方に向き直り彼を揶揄う。
「昇月と全然似てないな。二人共素直で良い子だ」
「それはどういう意味だ?」
思わず昇月は半目になる。
清冴は昇月を宥めるように、彼の肩を叩いた。
そして、今度は反対の手を章絢の肩に手を置く。
「子淡、亘。この方は、皇帝陛下の第二皇子で在らせられる、彩皇子だ。粗相のないように」
清冴の言葉に、子淡と亘は驚愕し、互いの団栗眼を見合わせた。
この時まだ十七歳だった章絢は成人前であった為、字である「章絢」はまだ授かっておらず、親や師からは諱の「彩」で呼ばれていた。
それ以外の者からは、ただ「皇子」や「殿下」だった。
章絢は渋い顔になり、口を出す。
「師匠。止めて下さいよ。師匠の前では同じ弟子。出来れば、兄弟子として接して貰いたい」
「そうですか? 分かりました。ならば、子淡、亘、『師哥』とお呼びすると良い」
「はい」
清冴の提案に、子淡と亘は頷いた。
「師匠。お休みのところ、突然来てしまい申し訳ありません。宮でじっとしていることが出来ませんで、昇月を訪ねたところ、こちらに伺うと申しましたので無理を言って付いて参りました」
「そうでしたか。私は構いませんが、お一人での外出は看過出来ません。貴方様は一国の皇子です。もし、何かあったら……。必ず護衛と出歩いて下さい」
「師匠、残念ながら今の護衛達は信用出来ません。彼奴等は護衛ではなく監視です。私の周りで信の置ける者は師匠や昇月、花梨老娘とその家族、あとは師君くらいのものです」
「殿下……」
口元に冷たい笑みを浮かべる章絢に、清冴は苦い思いが胸に込み上げて来た。
章絢は皇后の子でありながら、第二皇子という微妙な立場であった。
既に劉貴妃の子である第一皇子の麒煉が立太子していたが、彼に何かあった場合は章絢にその御鉢が回ってくることになる。
その為、劉貴妃の陣営の者達、特に彼女の父である劉太傅には常に警戒されていた。
皇后である章絢の母は、煌羅国の王族であったが瞳国から離れていた為、地位は高くとも国内での味方は少ない。
劉太傅の力は絶大で、父である皇帝、劉章でさえも表立って皇后やその子である章絢を擁立することは出来なかった。
そんな皇后がその地位に在るのは、偏に面倒な外交問題を避ける為であった。
「俺は皇子、ましてやそれ以上のものなんて望んでいない。俺は自由になりたいだけだ。こんな籠の鳥みたいな生活は我慢ならない。皇太子がさっさと結婚して、跡継ぎを作ってくれることを願っているよ。そうすれば俺も伏魔殿から解放されるだろう?」
九歳の子淡には難しい話はよく分からなかったが、章絢の表情から、彼が皇子という高い地位に居ても決して幸せではないということが窺えた。
「あの。私にも何か御手伝い出来ますか?」
おずおずとそう言った子淡に、その場に居た全員が驚いた。
章絢は、まじまじと子淡を見つめる。
その熱い視線に子淡は茹で蛸のように真っ赤になり、思わず両手で頬を包み込んだ。
「可愛いな。子淡だったかな? ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
章絢は満面の笑みを子淡に向け、彼女の頭を撫でた。
それを見ていて羨ましく思ったのか、亘が挙手をして、「僕も御手伝いする!」と、そう宣言する。
「ぷっ」
昇月は思わず吹き出した。
「ハハハハ……」
清冴も釣られて笑い出す。
「何で笑うの?」
亘が頬を膨らませて拗ねる。
「悪い、悪い。お前があんまり可愛いことを言い出すから、つい」
昇月の言葉に、亘の機嫌が益々悪くなる。
「漢に可愛いは、言ったら駄目なんだぞ!」
子淡と亘のお陰でその場は一気にほんわかした空気になった。
緩んでしまった空気を直に引き締めて、練習を続けるのは難しいと判断した清冴は、息を吐く。
「折角、我が家にお越し下さったのですから、歓迎しますよ、殿下。子淡、亘、休憩にしよう。さぁ、殿下、こちらへどうぞ」
「ありがとう。稽古の邪魔をして悪いな」
申し訳なさそうに言う章絢に、子淡も亘も、首を左右に振って気にしないように伝える。
会客室で茶菓を御馳走になった章絢は、話が弾み一時程その場で過ごした。
常に気を張っている彼にとって、久方振りの心安らぐ穏やかな時間であった。
「また来ても良いだろうか?」
帰り際、章絢は遠慮勝ちにそう尋ねた。
それに清冴は、笑顔で答える。
「ええ。大したおもてなしは出来ませんが、いつでも歓迎いたしますよ」
子淡と亘もその隣で、首を上下に大きく振った。
「ありがとう」
章絢は泣きそうな顔で笑う。
「昇月。殿下を頼んだぞ」
「はい、師匠!」
清冴の信頼に応えるように昇月は元気よく返事をする。
昇月に護衛されながら、章絢は芙蓉宮へと帰って行った。
その後、章絢は清冴が留守の時でも、子淡や亘を訪ねて一人でふらーっとやって来るようになった。
それから更に数週間が経った頃、子淡は師君に連れられて画院へとやって来た。
「この者は儂の愛弟子で、『子淡』という。馬鹿なことは考えずに、兄姉として接してやって欲しい。よいな?」
「はっ!」
その場に居た画院の者達は、師君の牽制するような言い方に畏怖を感じ、神妙に頷いた。
それに満足げな顔をした師君は、一人の男を手招いた。
「子淡。この者はこの画院の長官で『李玄枝』という。恐れ多いことながら、陛下から『待詔』の位を授かっている。儂の息子じゃ」
「えっ! 師君の?」
子淡はまん丸な目を玄枝向けて、挨拶をする。
「あの、呉子淡といいます。よろしくお願いします」
子淡の挨拶に、目尻を下げた玄枝が自己紹介する。
「私は李玄枝です。不肖ながらこの画院の長を務めております。同じ師を持つ兄弟子として何でも尋ねて下さいね」
「はい。ありがとうございます!」
子淡は元気よくお礼を言った。
そんな時、入り口の方がざわざわし出した。
「師君!」
入り口から表れた一人の青年が、師君に向かって嬉しそうに呼び掛けた。
それに師君は、目を細めて答える。
「此れは、此れは、ようこそお越し下さいました、殿下」
「うむ」
傍まで来た青年は、子淡の方に目を向けた。
「その者は?」
「儂の愛弟子にございます」
「名は?」
「呉子淡と申します」
「ふーん」
青年は品定めするように、子淡をジロジロと見回した。
子淡は眉を寄せて、居心地悪そうに身じろぎする。
「少しこの者と話したい。すまぬが師君とこの者以外は、呼ぶまで席を外してくれ」
「……畏まりました」
護衛達は、渋々といった様子を隠すこともせず、退出した。
「彼奴等の無礼、どうか御許し下さい」
青年は師君と子淡に申し訳なさそうに頭を下げる。
「殿下。臣にそう簡単に頭を下げるものではありませぬぞ」
「いいえ、師君。私は師君のことを臣とは思っておりません。師君は私の師であります。師に対する非礼に頭を下げるのは当然のこと」
「うーむ。そう思って下さるのは大変名誉なことではありますが、ここには子淡も居ります。あまり軽はずみなことはなさらぬよう」
「分かった。だが、この子は『造士』だと聞いた。であれば、私の方こそこの子を敬わねばなりません」
「それはどなたから聞き及んだのでしょう?」
「陛下だ」
「左様に御座いますか。ですが、殿下、このことは国の機密。表立って子淡を上に見るようなことは御控え下さい」
「なれば、是非、同じ師を持つ兄弟子として『師哥』と呼んで、接してもらえたら嬉しく思う」
「ほほ。そうですな。子淡はどうじゃ?」
師君に話を振られた子淡は戸惑う。
「あの、この方は?」
「おお、そうじゃった。この方は、麟皇太子じゃ」
「えっ!」
子淡は師君から青年の正体を聞き、驚いて目を見開いた。
章絢同様、麒煉もこの時は十七歳で、成人前であった為、字の「麒煉」はまだ授かっていない。
「麟」は諱である。
「呉造士。師君から聞いているとは思うが、『造士』は天帝の愛し子。皇太子である私よりも遥かに尊い存在。だが、他の者達にはそれを知られてはならぬ。ならば、せめて師哥と思ってもらいたい」
「その、恐れ多いことながら、宜しいのでしょうか?」
前に章絢も似たようなことを言っていたなぁと思いながら、子淡は、怖怖と尋ねた。
「ああ、もちろん」
麒煉はそう言って、満面の笑みを浮かべた。
「私も『子淡』と呼んで良いだろうか?」
「はい!」
子淡も麒煉に笑顔で答えた。
それから子淡は度々画院を訪れて、師君以外からも絵の指導を受けるようになった。
素直で控えめな子淡は、皆から可愛がられ、メキメキと上達していった。
麒煉もそんな子淡を気に入り、度々画院を訪れては、弟のように可愛がっていた。
当時、子淡は男装していた為、麒煉は女の子だとは全く気付いていなかった。
そうして、歳月人を待たず、あっという間に二年の月日が流れた。
絵と剣を必死に学んでいた子淡は、十一歳になっていた。