18.子淡の回想①
天に雷雲がかかるようになったのは、麒煉が報せに訪れる、少し前からだった。
「章絢達が囚われた」
芙蓉宮の書房に駆け込んで来た麒煉は、その場に居た師君と子淡へ向かって勢い込んでそう言った。
「えっ!?」
子淡は一瞬、何を言われたのか分からず、脳が理解するのを拒否したように固まる。
そして、理解し出すと、直に顔色無しとなった。
「無事なのか?」
師君は冷静に麒煉へと問いかけた。
「今のところは。これが送られて来たので」
麒煉は腕に止まっている鷹を掲げて、師君と子淡に見せる。
力を使った者が消えれば、影も消え、絵に戻る。
鷹が消えることなくそこに在ることが、章絢が無事である何よりの証拠であった。
「どうするつもりじゃ?」
「国内が不穏な今、飛燦国に攻め入る気はありません。ですが、少し、飛燦国の動向を見たいと思います」
「そのような猶予があるのか?」
「一時は王女を輿入れさせて、同盟を結ぼうとしていたのです。それに、章絢の母親と飛燦国の王妃は従姉妹同士ですから、短慮にも打ち捨てるような真似はしないと思いますが、楽観は出来ないでしょう。そこで、万一に備えて、直に助け出せるように師君にかの国に潜んでいてもらいたいのです」
「良かろう」
「ありがとうございます。本当は私が行ければ良いのですが……」
麒煉は、章絢達が飛燦国へと旅立って行った翌日に、丹管を伴って都への帰路に着いた。
戻ってからも、軍の内部調査などで忙しくしていた時に、章絢に付けていた狗から報告と章絢が放った鷹が来たのだった。
「今、お主が都を離れるのは浅慮なことだ」
師君に咎められ、麒煉は苦笑する。
「はい、その通りです。子淡、すまない。章絢ばかり危険な目に遭わせてしまって」
「何を仰いますか! 臣が君を支えるのは当然のこと。章絢は己の職務を全うしているだけです。どうか、気になさらないで下さい」
顔色の悪いまま、気丈に振る舞う子淡の他人行儀な言葉に、麒煉は寂しそうに頷いた。
「臣、か……」
孤独な麒煉の呟きは、二人に届くことなく空に消えていった。
* * *
数日前の麒煉の言葉を思い出していた子淡は、頭を振って、洸へと視線を戻し、笑みを作る。
「さあ、続きを描きましょうか」と言って、子淡は再び手を動かし出した。
だが、彼女は心ここに在らずと言った様子で、溜め息ばかり吐いている。
見かねた洸は、遂に彼女の手から筆を奪った。
彼女は驚いた顔で洸の顔を見る。
「洸?」
「子淡大姐。一旦、お茶にしよう?」
洸の発案に、子淡は一つ息を吐いてから答える。
「……そうね。そうしましょう」
「今日は僕が入れるから、大姐はここに座って待っていて」
「ありがとう、洸」
彼女はお茶を入れる洸の様子に、昔の自分を重ね、遠い目をする。
入れ終わったお茶を持って、洸が彼女の傍まで来た。
「はい、どうぞ」
彼女は差し出されたお茶を受け取り、「ありがとう」と言って、口を付けた。
渋みの強いお茶に、噎せそうになり、懐かしさが込み上げて来て、笑みが零れた。
その様子を見ていた洸が、美味しく入れることが出来たと勘違いし、一気に口に入れた。
「ごほっ。げほっ、げほっ」
洸は、直ぐさま吐き出して、咳き込んだ。
「洸、大丈夫?」
「大姐、こんなに苦いお茶をよく飲めたね」
洸は、涙目になりながら尋ねた。
「くすくす。折角、洸が入れてくれたんだもの。その気持ちが嬉しくて、とても美味しく感じたのよ」
「僕、もっと美味しく入れることが出来るように頑張るよ!」
赤い顔をしてそう言った洸に温かい気持ちになった。
「洸、ありがとう。私も昔はお茶を入れるのが下手で、麒煉大哥によく文句を言われたわ」
「そうなの?」
「ええ。懐かしいわ……」
「ねぇ、大姐。昔の話をもっと聞かせて?」
「えっ? でも……」
子淡は少し困ったような顔になる。
「お願い! 大姐のことをもっともっと知りたいんだ! それに天子様や章絢大哥たちのことも。……駄目かな?」
洸は上目遣いで、子淡に懇願した。
その熱意に負けた子淡は、一つ息を吐き、頷く。
「そう、ね。聞いてもらおうかしら、昔の私達の話を……−−」
* * *
子淡は二十年程前、下級武官だった父と下級武官の娘だった母との間に、次女として生まれた。
父の両親は、父が子供の頃に他界していて、兄弟もなく、親戚も遠方に住んで居た。
その為、天涯孤独に近い状態であった。
父の亡くなった父、即ち子淡の父方の祖父と母方の祖父は、同じ武官仲間で、年が近いこともあり、とても仲が良かった。
その縁で、母の両親は莫逆の友の忘れ形見である父の後見人となった。
父に残された物は、慎ましい住処と細やかな金品、それと幾許かの武具だけだった。
その武具を手に、後見人である母の父に教えを請い、自身の父と同じ武官となった。
身寄りが無く孤独だった父を、母は後見人の両親と同様に温かい陽だまりのように包み込んだ。
そんな二人はいつしか恋人となり、父が正規の武官となって一年後に結婚し夫婦になった。
裕福ではなかったが、優しい父と穏やかな母、明るい姉に可愛い弟と子淡はとても幸せに暮らしていた。
ところが、子淡が九歳の時に、政争に巻き込まれた父は命を落とした。
その数日後、流行病で姉が倒れ、次いで母も倒れた。
母からの報せを受けた祖父母は、子淡と弟を引き取りに来た。
しかし、二人の看病をする者がいなくなると、子淡は大人達を説き伏せ、母と姉の元に残った。
心配した祖父母が時々見舞いに訪れたが、「移ると困るから、治るまで来なくて良い」と母が言った為、それ以降は家の中まで来ることがなくなり、玄関先に食料や生活必需品だけが届けられるようになった。
数週間後、看病の甲斐もなく二人は息を引き取った。
二人の遺体は、流行病が広がらないようにする為、子淡が呼んだ医者によって直に火葬された。
子淡はその様子をただ呆然と眺めていた。
知らせを受けた祖父母がやって来た時に、初めて涙を流した。
今まで住んでいた家を引き払って、自分のことを引き取ると祖父母は言った。
幸せな思い出が詰まった家から離れるのは辛かったが、今度は家に残りたいと言うことは出来なかった。
そんな時だった、父の上司だったという人が死者と弔いたいと訪れた。
それが師君だった。
冷静になって考えると、確かに上司ではあるが、この時既に太師だった師君は、物凄く、雲の上と言える程上の上司である。
話を聞いた師君が、この家を買い取ろうと言い出した。
祖父母は躊躇ったが、いずれ彼女が大きくなったら、買い戻すことも出来るだろうと言われ、その好意に感謝し、譲ることに決めた。
そもそも、ただの下級武官であった祖父が太師に逆らえる筈もない。
さらに、師君は言った。
「儂は、仕事が忙しく、方々へ行くことも多くて管理するのが難しい。彼女が良ければ、管理をお願いしたい」と。
それから、子淡は度々この家を訪れ、荒れないように必死に管理をした。
彼女は、この家に訪れたり、外出したりする際には男装するように祖父母に言われていた。
それだけでなく、政争が続き、治安は益々悪くなっていたため、弟と一緒に祖父に剣術も習っていた。
子供の子淡は、家が失われなくて良かったと、純粋に喜んでいたが、祖父母は違った。
なぜ、雲上人である李太師があの家を訪れて、一介の下級武官の娘である子淡に気を配ったのか?
何か、良からぬことが起こるのではないか?
とても不安に思っていた。
少しでも自衛出来るように、危険に巻き込まれないように、そんな愛情から、祖父は子女である子淡にも剣術を教えた。
両親の血なのか、子淡も弟もとても筋が良かった。
数週間で、ただの破落戸程度なら伸せられるくらいになった。
祖父母は知らなかったが、管理というのは半分建前で、子淡はこの家で師君から絵を教わっていた。
買い取ってくれた翌日、子淡がこの家を訪れると、師君が待っていた。
「この絵はお主が描いたのか?」
師君は、墨で描かれた梅の絵を指差した。
それは、子淡が梅の花が好きだった母の為に描いた物だった。
師君の問いに、子淡は首肯する。
「ふむ。やはり微かだが、この絵からも『造』の力を感じる。前に小鳥がこの家から飛び出して来たが、それもお主が描いたもので間違いないか?」
「!」
確信していて、ただ確認する為だけに訊いた様子の師君に、子淡は目を見開いた。
「やはり、そうか」
師君はそう言って、子淡に微笑んだ。
師君が子淡の存在に気付いたのは、本当に偶然であった。
あれは、子淡の母と姉が亡くなる、一週間程前のこと。
師君は天啓を得たかのように、ふと思い立って、龍居の荒廃具合を探りに、滅多に訪れることのない、下級役人達が暮らす下層の住居区までやって来ていた。
その日も、子淡は日に日にやつれていく母と姉に心を痛めながら、懸命に看病していた。
二人に少しでも元気になってもらい一心で、とにかく必死だった。
特に、外で遊ぶのが大好きで明るかった姉が、外どころか布団の上から一切動くことも出来ないくらいに衰えている。
それでも、妹の子淡を心配し慰め、必死に笑みを作ろうとするそんな優しい姉の姿を見ているのが辛かった。
かといって、離れて暮らすのはそれ以上に嫌だった。
看病の合間に字の練習をしていた子淡は、ふと思い立っていつも見ていた小鳥の絵を、描いてみた。
描きながら、前に姉が小鳥と戯れていた時の様子を思い浮かべ、口元が緩んだ。
貴重な紙や筆、墨などは、子淡のことを気遣った祖父母が、看病ばかりだと気が滅入るだろうと慮り、文字の練習でもすると良いと言って、差し入れてくれた物だった。
生まれて初めて描いたその絵を姉に見せると、彼女は笑って、「今にも飛び立っていなくなってしまいそうね」と言った。
子淡は姉に褒められ、嬉しくて舞い上がった。
そしてその指先が絵に触れた途端、小鳥が紙から浮き出し舞い上がった。
びっくりした二人を尻目に、小鳥はそのまま外へと飛び立って行った。
その小鳥が飛んで行った時に、偶々、師君が家の前を通り掛ったのだ。
「あれは……」
この時の子淡の絵はまだ拙く、本物と見紛う程ではなかった。
直に影だと気付いた師君は、小鳥を捕獲し、子淡の家を窺うようになった。
造士ならば保護しなければならない。
師君は直に、この家のことを調べた。
そうして、師君は両親を亡くした子淡の許に、折好く現れることが出来たのだった。
「何も心配することはない。お主は、天帝から素晴らしい力を授かった。ただ、それだけのことだ。だが、このことは誰にも話してはならん。ご家族にも、だ。誰か一人にでも話したらそこから話が漏れる恐れが増してしまう。そうすると、お主の力を悪いことに使おうとする者がそれを聞きつけて、お主を攫いにくるかもしれぬ。危険を減らす為にも、決して話したり、人前で力を使ったりしてはならんぞ。よいな?」
子淡は、凄んで話す師君に向かって、コクコクと首が取れそうなくらい必死になって頭を上下に動かした。
「宜しい。ではな、この力を上手く使えるように、儂が今後、お主を指導していこう。毎日は無理じゃが、ここに来られる日は辰の刻(七時から九時)にお主に鳥を飛ばそう。その日は、巳の刻(九時から十一時)にここに来なさい」
「はい!」
子淡は目を輝かせて、元気一杯に答えた。
師君もつられて笑顔になる。
こうして子淡は、師君の弟子となった。
※ 莫逆の友……互いに逆らうことがない意気投合した、非常に親しい友人。