17.風雲急を告げる
在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。
(白居易 詩 「長恨歌」の一節)
章絢達一行は、飛燦国の王城を一路目指し、周囲を警戒しながら黙々と進んでいた。
道中、捕虜の男が護送中に自害しやしないかと、章絢はずっとヒヤヒヤし、神経を張りつめて疲弊著しい状態だった。
出発の時、もちろん男は猿轡をし、拘束されていた。
それでも、荷馬車の中から麒煉を問い質したい様子で、ずっと視線を向けているようだった。
麒煉はその視線に応えるように言った。
「お前は王女の行方を知って、どうするつもりだ? その後を追うつもりでいるのならば、教えることは出来ない。どちらにしろ、お前を飛燦国王に引き渡す。王女のことはその時に、そこの李侍中から王へと話すことになるだろう。早まった真似は止めておけ」
まさか、そんなことを言うとは思っていなかったため、章絢はとても驚いた。
そして、麒煉のことを少し恨めしく思った。
もう一つ、緊張を強いられている理由があった。
飛燦国に入ってから、異様な程に静かなのだ。
荷馬車があるため、出来るだけ整備された街道を通っているので、瞳国の官吏の制服を着て、立派な馬に乗り、堅牢そうな荷車を囲んでいる章絢達は間違いなく目立っている。
だが、特に話し掛けられることも、行く手を阻まれることも、ましてや攻撃されることもない。
どちらかと言うと、腫れ物に触るような様子だ。
物を買う時や、道を尋ねた時の反応がより顕著で、見るからにそのように感じられた。
襲われないに越したことは無いが、あまりに何事もなく王城へと近づいているものだから、逆に不安になってくる。
麒煉からは、出発前に、狗から報告があったと教えられた。
姜別駕の逃げた私兵達は、案の定、飛燦国へと向かった。
しかも、見張りがいる正規の砦西の国境関からではなく、岩場だらけで、切り立った崖のある山の方から。
最初は、山中の村にあった隧道を目指したようだが、それが見当たらず、仕方なく、その崖を登って行ったようだった。
無茶をするものである。
一歩間違えば、奈落の底へと真っ逆さまになる道だ。
だが、悪運が強いのか、誰一人欠けることなく、飛燦国の辺境の村へと辿り着いたという。
どうやら、その辺境の村には鍛冶場があり、そこで暮らす者達は瞳国の言語を話していたそうだ。
十中八九、それは居なくなった砦西の山中の村に住んでいた者達だろう。
そして、その村は村というよりは砦と呼ぶに相応しい様子であったという。
これは、益々、飛燦国に瞳国が戦を仕掛けられるという話が、現実味を帯びて来た。
そういうことがあって、麒煉からは十分に注意するよう言われていただけに、この静けさが異様に恐ろしく感じられた。
−−嵐の前の静けさとならなければ良いが……。
もちろん、麒煉の方から、飛燦国王へは先触れの書簡を送ってある。
それを王が確認したことは、書簡に施した仕掛けで麒煉は把握していた。
そのことも麒煉から章絢は聞いている。
−−まぁ、下手に歓迎されるのも怖いから、静観されている方がマシかもな。
心の中で独り言ち、章絢は息を吐いた。
日が暮れて来た頃、なんとか野営が出来そうな林に来ることが出来、夕飯の準備に取りかかった。
章絢達は、荷や捕虜が奪われることを警戒して、なるべく宿を取ることはせず、野営するようにしていた。
食事の時になっても、眉間に皺を寄せて厳つい顔で黙り込んでいた章絢に、昇月は声を掛けた。
「暗いぞ、章絢。あまり考え込んでもどうなるものでもないだろう? もう少し、気を楽にしろよ」
「はぁー。そうなんだけどな……。俺も麒煉に比べたら楽観的な方だけど、お前はその上を行くよな。その性格が羨ましいよ」
「そうだろう? 『禍福は糾える縄の如し』だ。いちいち気にしていたら身が持たないぞ。なるようになるさ」
そう言って昇月は、章絢の背中を叩いた。
「うわっ。相変わらずガサツだな」
章絢は苦笑し、背中を摩った。
「まぁ、国王に会わないことには何も始まらないな」
「いよいよ明日か……」
王城はもう目前に迫っていた。
明日の昼頃には辿り着くだろう。
「はぁー。もう少しゆっくりしたかったぜ。折角、飛燦国の美人達とお近付きになれる機会だったっていうのによ。野営ばっかりだし……」
「お前が未だに結婚出来ない理由がよくわかる台詞だわ」
「お前だって似たようなものだろう? そんなお前が、子淡みたいな美人と結婚出来たんだ。俺だって出来る筈だ」
「いやー。お前は無理だろ? 剣しか取り柄が無いからな」
「おいおい。酷いな。やっぱり、子淡は相当な物好きだな。こんなヤツを選ぶんだから」
「聞き捨てならないな。子淡のことを悪く言うのは許せない」
章絢はそう言って、昇月の鼻を摘む。
「やめへくれ。わるかっはっへ(訳:やめてくれ。わるかったって)」
昇月は涙目になりながら、なんとか謝罪した。
「二度と子淡を悪く言うなよ」
そう言って、章絢は手を離した。
赤くなった鼻を摩りながら、昇月が言う。
「ああ。痛かった。この馬鹿力め。鼻が潰れるかと思った。俺の男前の鼻が変形したらどうしてくれる」
「はっ。俺のお陰で、少しは見られる顔になったんじゃないか?」
「なんだと!」
章絢と昇月は、その後も低俗な罵り合いを続けた。
章絢はいつの間にか、強張りが解けていた。
それを見ていた他の官吏達も、肩の力が抜け、二人に感謝したが、間に入って二人を止めることは誰もしなかった。
捕虜の男だけが冷たい目でその様子を見ていた。
男と目が合い、我に返った章絢は、真面目な顔に戻って、昇月に訊く。
「ところで、青都はどんな様子だ?」
五年程前、今回の弓州、砦西であったようなことが青都でもあった。
その時は、県令や県丞、県尉など多くの上層部の官吏達が飛燦国と繋がっていた為、青都自体が飛燦国の支配下に置かれていたと言っても過言ではなかった。
中央からの進軍による摘発が後一歩でも遅ければ、青都は飛燦国に占拠されていたかもしれない。
そんな危険な状態だった。
庁舎を壊滅させてしまう程の激しい戦闘の末、県尉は戦死、県令や県丞達は処刑され、事件は一応の決着を見た。
荒廃していた青都の県政を、郭県令を筆頭とした優秀な官吏達が立て直し、軍部の方は昇月が中心となって取り締まった。
年若く、そこまで身分の高くない昇月が県尉に就いているのも、その時の戦功が群を抜いて素晴らしかったからだった。
戦闘を知っている者達は、この時はまだ平の武官だった昇月が県尉になったことに、不満を持つことは決して無い。
陰で昇月は、「冴え渡る瞬朱の狂月」という二つ名で呼ばれていた。
意味は、「一瞬で辺り一面を真っ赤な血の海に変える冷酷な狂った月」である。
「今はもう、飛燦国に関わっている者は、官吏達の中には居ない。郭県令が滅茶苦茶厳しいからな」
「よくお前みたいな軽いヤツと上手くいっているよな」
「酷い言われようだな。俺だってやるときはやる男だぞ」
昇月が胸を張って、得意気にそう言った。
「ぷっ」
子供っぽい昇月に、思わず章絢は吹き出した。
それに重なって、小さな笑い声があちこちから聞こえて来る。
「お前。部下達にも笑われているぞ」
章絢に突っ込まれた昇月は、部下達に向かって拳を上げる。
「お前等!」
そんな昇月に一瞬怯んだ様子を見せた部下達だったが、全く恐がりもせず、一人が章絢に告げ口する。
「も、申し訳ありません。郭県令は朱県尉を弄って楽しんでおられるご様子ですので、ご心配には及びません」
「なるほどな」
そう言って、章絢はニヤニヤと昇月を見た。
居たたまれなくなった昇月は、話題を変える。
「そう言えば、お前、まだ笛は吹いているのか?」
「ああ。子淡が自分の代わりに持って行って欲しいと言われたから、今も持っているぞ」
「おっ! それは良い。久しぶりに聴きたいな。皆にも聴かせてやってくれよ。お前の笛は天下一品だからな」
「そこまで言うなら、吹こう」
そう言って、章絢は懐に入れていた袋から笛を取り出し、愛おしそうにひと撫でした後、口にあてた。
章絢が奏でたのは、国を思う気持ちが込められた郷愁誘う曲だった。
その夜は、丸に近い月が綺麗に輝いて見えるほど、空気が澄み渡っていた。
笛の音は、そんな月まで届くように響き渡る。
先程まで全く表情の無かった捕虜の男も、流石にこれには涙を流して聞き入っているようだった。
長い年月を経て帰って来た故郷に、何かを思ったのかもしれないし、ずっと追っていた王女のことを考えたのかもしれない。
ただ、その涙の理由は、本人にさえも分からなかった。
−−翌日、遂に一行は王城へと辿り着いた。
ここでもすんなりと城内へ通され、拍子抜けする。
「気を抜くなよ」
そう言って、表情を凛々しくした章絢に、皆が頷く。
「はっ!」
そうして、謁見の間と思われる場所へ案内された一行は、手土産を眼前に並べ、その後ろに並んで跪き、緊張した面持ちで国王の訪れを今か今かと待っていた。
* * *
−−数日後の瞳国首都、龍居。
ここ最近、瞳国周辺では雷雨が続いている。
民の間で、「天子様が何かして、天帝の怒りを買ったのでは?」、「いやいや、天子様を陥れようとした者がいて、それで天帝の怒りを買ったのだ」とか、そのような噂話が真しやかに囁かれていた。
洸は、天にいる二匹の龍が雷雲を呼び、渦巻く様子を眺める。
これは一体どうことだろうかと、子淡に尋ねようと、彼女に視点を向けた。
視線の先の子淡は、書房の窓から天を眺めて必死に祈っている。
「章絢。どうか無事でいて……」
影が差し儚く映る彼女の横顔が、洸にはここ数日で随分と痩けてしまったように感じられた。
「子淡大姐……」
洸の心配そうな呟きが耳に入り、ハッとした彼女が「ごめんなさい、洸。どうかした?」と尋ねた。
洸は、先程の疑問を彼女に問いかけた。
「子淡大姐。僕には空にいる二体の龍がこの雷雨を招いているように見えるんだけど、気のせいかな?」
「まあ、やっぱり洸にも見えるのね! あれが、前に麒煉大哥が話していた、龍よ。天迎宮にいる龍と同じでしょう?」
「うん。……やっぱり龍達は怒っているのかな?」
「そう、ねぇ……」
顔を曇らせた子淡は、天の龍達を眺めながら、数日前に麒煉から報せがもたらされた時のことを思い返した。
※ 「因禍爲福、成敗之轉、譬若糾墨(禍に因りて福を為す、成敗の転ずること、たとえば糾える縄の如し)」……幸福と不幸は表裏一体で、代わる代わる来るものだから、それに一喜一憂しても仕方が無いということのたとえ。