16.不義にして富み且つ貴きは、我において浮雲の如し
州軍の訓練場で鍛錬していた丹管にも声を掛け、麒煉と章絢は、聲卓に案内され、貘の道へと向かった。
そこは、街道を挟んで、山側の迂回路の反対側であった。
「ここが、『貘の道』か」
「笹ばっかりだな」
「ああ。これは確かにものを隠しておくには最適かもな」
麒煉と章絢と丹管は、笹をかき分けながら進む聲卓の後に続いて、進んで行く。
途中、章絢が左の方へ行こうとして、聲卓が注意する。
「あっ! 李侍中。そちらに行ってはなりません!」
「ん?」
章絢は足を止め、聲卓に顔を向ける。
「食事中の大熊猫がおります」
「近くから気配は感じないが、随分先にいるんじゃないか? 離れているのに音だけでそれが分かるのか?」
「はい。半里程先だとは思いますが、大熊猫は主に笹を食べますので、余計に分かりやすいのです」
「大熊猫は、人間を食べたりはしないのか?」と、麒煉が尋ねる。
「どうでしょうか? そもそもこの場所に近付く者が居りませんから、わかりかねますが、笹が無ければ食べるかもしれませんね」
聲卓の言葉に、章絢は後退った。
「いずれ、大熊猫の生態調査もさせたいものだ」
麒煉は未知の生物について、とても興味を惹かれた。
「そうですね。生態が分からず、悪夢を払うと言われる貘と混同されて、この道で惑うものが多いこともあり、ここは『貘の道』と呼ばれるようになったとか」
「それはおかしくないか? 貘は邪気を払うのに、惑う道を『貘の道』というのはどうにも納得がいかない。むしろ安全な道こそをそう呼ぶべきだろう?」
「まあ、昔の人間が言ったことですので」
章絢の言い分に聲卓は肩を竦めて、そう言った。
「それにしても、これだけ笹ばかりだと確かに迷うな。方向が分からなくなるのも仕方ない。張県令はよく迷わずに進めるものだ」
麒煉は感心した様子で聲卓を褒める。
「ええ。僅かばかりですが、村の方向からは鉄の匂いがするのですよ。そして、街の方からは美味しいご飯の匂いがしますので、それを頼りに進んでおります。あとは、ここの地形なんかも頭には入っておりますので」
「ヘー。凄いですね」
聲卓の野生動物並みの凄まじい臭覚と有能さに驚き、丹管も感嘆の声を上げる。
話しながら進んで行くと、資材のある場所に辿り着いた。
「ああ、良かった。そのまま、手付かずで残っていたな」
都から送った時と殆ど変わらない資材の様子に、麒煉はホッと息を吐く。
それに、聲卓は微笑みを浮かべる。
「ええ。まぁ、武官達にひっそりと見張らせては居りましたので……。これでやっと、本格的に工事が進められます」
「良かった、良かった」
章絢は頷きながらそう言った。
「これはとりあえずこのままで、先に村まで案内してもらえるか?」
「はい」
麒煉からの指示に従い、聲卓は先へと進む。
三人は、切り立った崖の傍で立ち止まる。
「おっ、見えて来た。確かにこの道だと早いな」
崖の上から見渡すと、眼下に集落が見えた。
「前に来たことがおありですか?」
章絢の言葉が引っ掛かり、聲卓がそう尋ねた。
「おっと口が滑った。ハハ」
慌てて手で口を抑える仕草をした章絢を、麒煉が小突く。
「はぁ、実は土砂崩れを発見した時に、気になって、な。あっちの山側の方から迂回して、村に行ったんだよ」
「そうだったんですか。そんな気はしていましたが……」
前に村のことを話した時の章絢の反応に違和感を感じていた聲卓は、すんなりと納得した。
「この崖はどうやって下りるんだ?」
「そこの梯子を使って下ります」
章絢の問いに、聲卓が近くの梯子を指差し、答えた。
梯子は、中々頑丈そうな鉄の鎖で出来ていた。
「はは。ここに梯子を掛けた者は勇敢だな。それに、この鎖を鍛錬した者は素晴らしい技術者だ」
野晒しにされていても、殆ど錆びた様子の無い梯子を触り、章絢が言った。
「その技術者が飛燦国へと行ったのだとしたら、その損出は計り知れないな」
麒煉も顔を顰め、そう零した。
「そうですね……」
丹管も鎖を熱心に観察して、これを鍛錬した者の剣を振るってみたかったと、とても残念に思った。
崖は絶壁で、いくら頑丈な梯子が掛かっているとはいえ、足が竦むくらい、恐らく、百歩(約百五十六メートル)程の高さはあるように思われる。
いや、もしかしたらその倍はあるかもしれない。
常人ならば、これを使ってでも下りるのは躊躇してしまうだろう。
「確かにこれだけの高さがあれば、『貘の道』が沈むことは無いな」
麒煉が崖の下を覗き込みながら、そう言った。
「先に行かせていただきます」
聲卓がそう言って、下りだした。
その後を章絢、麒煉、丹管の順で付いて行く。
地面に下り、一歩進んだところで、章絢はしゃがみ込む。
「ふー、帰りは遠回りだがあちらから行きたいな」
「何? 怖じ気づいたか?」と、麒煉がニヤリと口角を上げ、揶揄って言う。
「元々高い所は得意じゃないんだよな」
章絢はそう言って、息を吐いた。
「さっ、もう少し歩きますよ」
二人を微笑ましそうに見遣った聲卓が、そう言って歩き出した。
「着いたー」
章絢が息を弾ませながら、そう発した。
少し離れたところで塀の造りを観察していた陳主事が、それに反応し、目を丸くする。
「おや。これは陛下に、李侍中。それと張県令ではありませんか。そちらの方は陛下の護衛ですかな?」
陳主事に気付いた四人が近づいて来てから、声を掛けた。
「馬武官だ。ああ、それと、ここでは俺のことは李丞相と呼んでくれ」
麒煉の言葉に、陳主事は頭を垂れる。
「畏まりました」
「ところで、陳主事。調査は済んだのか?」
「はい。ここは、元々鉄の採掘の為に出来た村でしてな。今はもう採れなくなりましたが、それでも鍛冶の技術の方は受け継がれていたようです。鍛冶場の方も村外れにありました。ただ、出て行く時に打ち壊して行ったようで、潰れておりましたがね」
陳主事は興奮気味に話し、最後の方は落胆を声に滲ませていた。
そして、再び気を取り直したように話を続ける。
「あとは、竹細工や薪なんかを売って暮らしていたようですな。それから、証拠は残っておりませんが、潰された鍛冶場の様子から、矢尻を作っていた様子が窺えました」
「それがこの国で流通していないところを見ると、飛燦国へ流れて行った可能性があるな」
「はい」
陳主事は沈痛な面持ちで頷いた。
麒煉は頭を抱え、溜め息を零す。
「はぁ。何とも頭の痛いことだ。その鍛冶場はもう利用出来そうには無いのか?」
「そうですね。あれを修復するよりも新しく建設する方が効率的でしょう」
「ならば、この村はこのまま沈めても問題はなさそうか?」
「ええ。これと言って隠されているものはありませんでした。去る時に全て持ち去ったのでしょうな。読み取れる者は全て記録いたしましたし、新たな資源などもございませんでしたので、いつ沈めても問題ありません」
「そうか」
「それにしても、人が居なくなると寂れるのも早いな」
前に来たとき以上に、村が荒廃している様子を見て、章絢は哀愁を漂わせる。
ちなみに、この村を調査していた陳主事達は、現状を損なわないように村外れの森の中で野営していた。
「この村が、二百年も昔に鉄で栄えていたのが幻のようだな」
麒煉も遠くを見るような目をした。
二人の様子を見ていた聲卓もそれに同意する。
「そうですね。全ては泡沫夢幻と言ったところでしょうか?」
「ああ。実際にここは水の中に沈んでしまう。泡や沫のごとく消え去る、夢と幻の村と言って良いだろうな」
麒煉の呟きは、突如起こった旋風に掻き消された。
砂が巻き上がった為に、咄嗟に目を閉じた五人は、風が弱まって、目を開けた瞬間に嘗ての村の賑わいを見た気がして、目を擦る。
だが、次の瞬きの後には、再び寂れた村が映った。
現実に意識を戻した麒煉は、咳払いし、命じる。
「それでは、調査の報告書を提出して、工事に取りかかってくれ。それから、陳主事にはゆくゆく砦西の県丞の任に就いてもらいたい。暫くはこちらと平行して、張県令、揚県丞から仕事の引き継ぎをしてくれ」
陳主事は、思わぬ昇進に一瞬驚いた後、承諾した。
「承りました。ということは、姜別駕は捕まりましたかな?」
「ああ。張県令を始め、砦西や弓州の官吏達の働きのお陰だ。それと黄御史だな。暫くは残党探しや、余罪の調査、飛燦国へどれだけのものが流出しているかも聞き出さなければいけないから、直に処刑は出来ないが……。お前達も、残党には注意してくれ」
「はっ!」
陳主事は麒煉の注告に神妙に頷き、続けて呟くように言った。
「姜別駕の得たものは、浮雲でありましたか……」と。
−−数日後。
砦西に行っていた章絢が弓州牧の執務室に戻ってくると、麒煉が待ちきれないとばかりに、話し出した。
「章絢。一緒に飛燦国へ行ってもらう者達が到着した。紹介する」
そのメンバーに目を向けた章絢は、瞠目した。
「おっ!? 昇月じゃないか!」
章絢に向かって、軽く手を上げ、昇月が応える。
「よっ! 章絢。元気だったか?」
「お前、今、青都にいるんじゃなかったか?」
「ああ。趙中書令から書簡が来て、暫く飛燦国に行くお前さん達の護衛を頼みたいっていう話だったから、三人程部下を連れて来た。こいつらは、俺には劣るが中々の武官だぞ」
「それは頼もしい。よろしく頼む」
朱昇月は子淡の従兄妹に当たり、章絢とは同じ剣術の師についていた同士である。
現在は、青都の県尉となっていた。
「あと、徐都事、砦西の文官二名にも今回同行してもらう。詳しい説明は、三人と合流してからしよう。早速で悪いが、明日の朝の出立とさせてくれ、今日はこちらの宿舎で休み、疲れをとるように。以上」
「はっ!」
麒煉の命に従い、四人は退室する。
その時、昇月は章絢に向かって、片目を瞑って目配せした。
それに、章絢は苦笑を返す。
「昇月のヤツは、相変わらずだな」
「ああ」
執務室に二人になったところで、章絢が切り出した。
「麒煉。やはり今のこの状態で、お前が国を離れるのはよくない。飛燦国へは俺が責任もって行ってくるから、いくつか書を貸してはくれまいか」
まだ、官吏達の中に姜別駕、飛燦国と繋がっている者が残っている可能性がある。
そんな中、安全とは言い難い敵地とも言える場所へ皇帝を連れて行くわけにはいかないと、今更ながらに章絢は考えた。
「うーむ」
麒煉は、目を閉じ暫し黙考する。
「はぁ。飛燦国の内部を直に見てみたかったんだがな。仕方ない。章絢。頼んだぞ」
「はっ!」
「せめて、馬武官を連れて行ってもらいたいが、あの者は私から離れはしないだろうな……」
「そうだな。馬武官はお前の護衛だからな。それ以上に、主君であるお前から離れることを厭うだろうな。まぁ、昇月も居るしこっちは大丈夫だ。お前は、国内のことに心血を注いでくれ」
「分かった。そうしよう。では、これを持って行くが良い」
そう言って、麒煉は懐から出した書と絵を数枚、章絢に渡した。
−−翌日。
章絢達、使節団一行は、麒煉、侶明、聲卓、丹管らに見送られて、国境を越え飛燦国の王城へと向けて旅立って行った。
※ 「不義而富且貴、於我如浮雲」……人の道から外れた不正な手段で得た地位や財産は、私から見れば浮雲のように頼りなく儚いものである。[論語]