15.往く者は諫むべからず、来る者は猶お追うべし
−−数日後。
姜別駕、飛燦国の密偵、私兵を捕縛し、一件落着と言いたい所であったが、麒煉達は、事件の残務処理に追われていて、とても飛燦国へと旅立てる状況ではなかった。
「クソッ! 軍部の不満は今まで、皇后が押さえてくれていたが、亡くなってからは後手に回っていた。そのツケがこれか」
「今まで、どれほど武皇后に助けられていたか思い知らされたな。惜しい人を亡くした」
弓州牧の執務室で報告書を読んでいた麒煉と章絢は、遣る瀬無い感情を持て余していた。
捕縛した私兵達を尋問して分かったことだが、甘い汁を吸う為に姜別駕に擦り寄っていた者は三分の二ほどで、残りは、国に不満を抱いている武官や、その身内の者達だった。
「武皇后は、皇后でありながら、その身分をひけらかすことなく、誰にでも気安く、武芸にも秀でておられたから、武官達に人気でありましたな」
「ああ。目が行き届いて、機転も利く、替えの利かぬ人財だったと、今更ながらに思い知らされたよ」
章絢と侶明に武皇后を惜しまれ、麒煉も改めて彼女の存在の大きさを知り、その穴が簡単に埋まるものではないことを痛感した。
「だが、だからといって、姜別駕という男に、国を良い方へ導くだけの能力、命を懸けるだけの価値があったと思うか? どう見ても、上辺だけの利己主義者ではないか。それが悪いわけではないが、上に立つ者の器ではないだろう? ヤツを守って死んでいった者達が浮かばれまい」
「旗印など何でも良かったのでしょう。自分たちの不平不満さえ解消されれば」
麒煉の見解に、侶明は肩を竦めて答えた。
「もしかしたら、自分たちの目的の為に、姜別駕さえも利用しようとしていたのかもしれないが、な」
章絢は、思案顔でそう言った。
「そう、かもしれないな。人の欲とはなんと浅ましいものなのか……」
二人の言葉に麒煉は、憂いを帯びた表情になる。
「麒煉。お前は、この国を価値あるものにしなければならない。そして、お前自身も守られる価値のある人間でなければならない。それが、この国の頂点に立つ、お前の使命だ」
「俺の使命はなんて重い……」
真剣な眼差しを向けて発せられた章絢の言葉に、麒煉は益々苦悩する。
章絢は、麒煉の肩にそっと手を置き言った。
「そうだな。だが、その重荷を共に背負う。それが俺の使命だ。お前は独りじゃない」と。
「それは何とも心強いな」
麒煉の表情に少しだけ明るさが戻る。
「微力ながら、私も少しなら背負えますぞ」
「侶明……」
「さっ、弱音を吐くのはそれ位にして、仕事をして下さい」
「やっぱり、侶明は厳しいな」
侶明の激励に麒煉は笑みを浮かべた。
「ところで、飛燦国の密偵は吐いたのか?」
捕縛した翌日、再び麒煉が訪れた時も、拷問に耐え、男は決して口を開かなかった。
「いえ。黙秘を続けております。食事も拒否しておりますので、このままでは餓死するでしょう」
「そこまでして、ヤツは何を隠している?」
「王女を捜索していただけなら、そこまでするか?」
侶明の返答を聞き、麒煉と章絢は再びあれこれと思いを巡らす。
「そもそも、あの絵の王女と洸の母親が同一人物だとすると、洸は飛燦国王の孫ということになるのか」
「そうなるな」
「もしかして、彼奴が父親とか?」
「それなら必死に捜す理由も分かるな。隠している理由も」
「もし父親だったら、死なせると洸に申し訳が立たないな。亡くなった王女にも」
「ああ。ヤツに洸のことを話してみるか?」
「そうだな……」
麒煉と章絢は男のいる牢へと向かった。
二人が来ることを聞いていた孫州司馬によって、男は尋問部屋へと移されていた。
「早速だが、お前がなぜ黙秘しているのか知りたい。お前が王女を捜していたのは分かっている。それ以外で何を隠している? それは、お前が死んでまで隠さなければならないことなのか?」
麒煉からの問いに男が反応することは無かった。
「もしかして、お前は王女の恋人だったのか?」
章絢の言葉に、男は俯けていた顔を少しだけ上げた。
「ここからは俺の推測だが、お前と王女は恋人だったが、身分違いで結婚を許されなかった。そのため、二人は駆け落ちしてこの国に来た。ところが、どういうわけはお前と王女は逸れた。いや、もしや追っ手に見つかり、離れ離れになったのか? まぁ、そんなわけで表立って探すことは出来ず、姜別駕を隠れ蓑に彼女の行方を捜していた。どうだ?」
「フッ。随分と俗な考え方をする」
「違うのか?」
「いや。半分程は当たっている。……王女が今どうしているのか、お前は知っているのか?」
「ああ、知っている。と言ったら?」
「そうか……」
男はそう言って、暫し黙考した後、自嘲するように語り出した。
「このまま黙って死ぬつもりだったが、最期に馬鹿な男がいたとお前達に語るのも悪くない」
麒煉と章絢は、ただ静かに男の話に耳を傾けていた。
「俺は飛燦国の高官の息子だ。王女とは従兄妹になる。俺はニマに惚れていた。将来は一緒になる筈だった。これは、王との間で取り決められていたことだった。だが、あの男がニマを攫った。あの忌々しい男が!」
話しているうちに、男の声が段々と荒々しくなっていく。
「俺は二人を追って、この国に入った。だが、暫くすると足取りが途絶え、この十年近く、ずっとこの国をあちこち探していた。再びこの地に戻り、やっと、やっと見つけたと思った。この腕で抱き締めた筈だった。だが、それは幻だったのだ。その姿は跡形もなく消えた。……お前に、この絶望が分かるか?」
男は俯き、その身体は小刻みに震えていた。
その姿は、全てを拒絶し、「いや、分かる筈が無い」と、言外に言っているようだった。
次から次へと目から溢れて流れ落ちる雫は、ただ静かに地面を濡らし、シミを作っていた。
麒煉と章絢は、男にかける言葉が無かった。
愛する者を長い年月ひたすら追い求め、やっと手に入れたと思った瞬間、それがその手から零れ落ちていく。
それは、筆舌に尽くし難い恐怖と悲嘆を男に与えたことだろう。
暫くして、男のすすり泣きが治まった頃、麒煉は言った。
「お前は、ここでは処罰しない。その身柄を飛燦国へと引き渡す。その時に、王女のことを教えてやろう。だから、せめてその時までは、生き延びることだ」
打ち拉がれている男に、王女が亡くなっていることを話し、追い討ちをかけるようなことは憚られた。
少しでも生きる因を残してやりたかった。
それが、如何に麒煉の独り善がりで、男の望まぬ行為であったとしても。
男はそれを聞いて、「そうか」とだけ言った。
もしかしたら、王女は既にこの世にはいないのかもしれないと思いながら。
その時、少し上向いた男の顔は憑き物が取れたかのように、すっきりしているように見えた。
それは、麒煉のただの願望であったかもしれないが……。
尋問部屋を後にした麒煉と章絢は、再び執務室に戻った。
「まさかあの男が、飛燦国の王女と従兄妹だったとは……」
「ああ。だが、あの口ぶりからして、洸の父親では無いだろう」
「父親は誰なんだろうな?」
「彼奴が言っていた、王女を攫ったとかいう男のような気がするが、今はこれ以上聞くのは止めておこう。もう少し心の整理をさせてやろう」
「お前は、甘いな。まぁ、王族に近い者に下手な対応も出来ないか」
章絢はそう言って、息を吐いた。
「それにしても、飛燦国への手土産は増えるし、官吏は姜別駕と繋がっていて捕縛されるしで、人手が全然足りないな」
「ああ。まぁ、連れて来た官吏は繋がっている確信があって、捕縛することになるのは分かっていたが、な。今、浩藍の方にも新たな人材の補充をお願いしている。だが、もう暫く飛燦国へ向けて出発は出来そうにないな」
章絢の言葉に、麒煉も頭を抱える。
そんな麒煉に、侶明は更に頭が痛くなるようなことを言う。
「新たな弓州の別駕も、早々にお決めになって下さいね。出来れば、有能な者を」
「それについては、考えがある」
麒煉の考えが気にならないわけではなかったが、今は聞いても教えてくれそうにないと察した侶明は、「左様ですか」と言うに止めた。
窓の外に目を遣った章絢は、日の昇り具合を見る。
「もうそろそろ、張県令が来る時間か?」
「そうだな」
麒煉も外に目を向け、相槌を打つ。
−−トントン。
「おっ! 噂をすれば影か?」
戸を叩く音を聞いた章絢がそう言った。
「失礼します。張県令がお越しです」
「入れ」
麒煉の返事を受けて、聲卓が入室する。
「ご無沙汰しております」
聲卓の挨拶を受けた麒煉は、彼に席を勧め、時間が惜しいとばかりに、直に本題へと入る。
「張県令。早速だが、そちらの方の後処理は進んでいるか?」
「はっ! 都から来られた、徐都事が大変優秀ですのでとても助かっております」
徐都事は、麒煉達と一緒に都から来た、尚書省の官吏であった。
一人荷馬車に残り、姜別駕の仲間達の行動を見張る役割を担っていた。
もちろん、狗も張り付いていたが、狗の証言は公的な証拠にはならない。
そのため、徐都事は彼らに寝返ったように見せかけて、ずっと監視し、証拠を集めていた。
砦西で鄭県尉が官吏達を拘束した後、章絢が聲卓に頼んだのは、彼のことだった。
彼の拘束を解き、仕事を手伝ってもらうようにお願いしていた。
「そうか。彼に県令は勤まるだろうか?」
「申し分無いかと思います」
「ならば、彼に砦西の県令を引き継いでもらいたい。そして、張県令には弓州の別駕になって欲しい。だが、彼には予定通り、飛燦国へ同行してもらうつもりだ。帰国するまではこのままの状態でいてもらう」
やんわりと言っているが、皇帝の命令に逆らえる筈も無い。
聲卓は謹んで承け、心配していたことを尋ねる。
「それは構いませんが、揚県丞は今後どうなりますか?」
「揚県丞には、御史台へ行ってもらおうと思う」
「御史台ですか?」
「ああ。似合いだとは思わぬか?」
「そうですね」
姜別駕の前では彼に都合のいい人物を演じ、その実、彼を糾弾出来るよう証拠を集めていた手腕は、色々な職場に潜り込んで調査する、監察官という職務にはもってこいであろう。
そう、麒煉も聲卓も考えた。
「新しい県丞は、先に派遣していた陳主事をと考えている。陳主事は息災であろうな?」
「はい。こちらに来られてから、山中の村の調査を、姜別駕に見つからないように、ひっそりとしていただいておりました」
「そうか」
「資材もそこにあるのか?」
「資材の方は、『貘の道』の方に隠してあります」
「ほう? そこへ案内してもらえるか? 陳主事とも話したいし、な」
「はっ!」
麒煉と章絢は直に席を立った。
聲卓は、慌てることなくその後に続く。
そんな三人の姿を、侶明は目を細めて見送った。
※ 往者不可諫、來者猶可追……過ぎ去ったことはどうしようもないが、これからのことはまだ間に合う。[論語]
都事も主事も役職の名前。主事よりも都事の方が役職は上。今でいうと、課長と係長位でしょうか?




