11.君子は義に喩り、小人は利に喩る
飛燦国を目指す一行は、予定通りの行程で砦西へと辿り着いた。
皇帝の身分を隠し、右丞相、李賢斗として使節団の責任者となっている麒煉は、部下達に命じた。
「この度の飛燦国への遣いのついでに、街道の状況を視察してくるよう陛下より仰せつかっている。視察は李侍中、馬武官と私でしてくるので、残りの者は先に役所へ向かってくれ」
「はっ!」
麒煉、章絢、丹管の三人は、土砂崩れがあった場所へと急いだ。
「おい。これは……」
「ああ。狗からの報告は受けていたが……」
「工事が殆ど進んでいないな。それに、人足や資材がなんだか少ない気がするが?」
「ああ。送った筈のものが見当たらない」
工事の様子を見ていた三人に、近くの茂みから声が掛かった。
−−陛下。
麒煉は声のする茂みに近づき声を掛ける。
「動いたか?」
−−はい。どうやら予想通り荷馬車が入れ替えられたようです。
「そうか……。入れ替えられた元の荷馬車の場所は分かっているか?」
−−はい。金繁商会の方へ運ばれました。
「飛燦国の商品を扱っている商会だな。分かった。引き続き監視してくれ」
−−はっ!
茂みから気配が消え、章絢と丹管の許に戻った麒煉は、狗からの報告を二人に伝える。
それを聞いた章絢と丹管は、眉を顰め、溜め息を零した。
「やはり、姜別駕と飛燦国は繋がっていたか」
「厄介ですね。姜別駕は都の武官とも懇意にしていることが、これではっきりしました。私兵もお持ちのようですし、武力で来られたら、義がこちらにあっても押さえ込むのは大変です」
麒煉は、丹管の言葉に頷く。
「そうだな。州司馬と県尉が姜別駕の手の者でなく、忠臣であれば少しは楽になるかもしれないが……」
「趙州牧は陛下の忠臣ですから、州司馬の方は大丈夫だとは思いますが、県尉の方が心配ですね」
趙州牧の人となりや評判を常々聞かされていた丹管は、会ったことがない彼のことを疑うことなく、そう言った。
「張県令の働きに期待したいが……」
章絢も希望的観測を口にする。
「そうだな。先ずは張県令と会って、急ぎ、県の内部調査だな。飛燦国に荷が運ばれる前に解決しなければ……。悪いが、章絢は先に張県令と話してくれ、俺は弓州の庁舎に行って、趙州牧と黄御史と話してから、そちらに行く。馬武官は、一緒に来てくれ」
「はっ!」
* * *
——一方その頃、首都、龍居では。
「子淡。居るかのう?」
白い髪と髭を長く伸ばした、七十半ばの男性が、自慢の髭を撫でながら子淡の書房を訪れた。
「まあ! 師君! ようこそお出で下さいました。どうぞこちらへ」
子淡は目を丸くした後、満面の笑みを浮かべて師君を招いた。
洸はその横で、固まったように、身動きしなかった。
「お主が洸か?」
「は、はい!」
師君に声を掛けられた洸は、その瞬間、金縛りが解けたかのように、跳ねて立ち上がった。
「はて? どこかで会うたことがある気がするんじゃが……。どこだったかのう?」
緊張気味の洸の顔をじっと見つめて、師君が言った。
それに、子淡が苦笑しながら答える。
「師君。洸はここに来るまで、砦西から出たことはありませんよ」
「そうか……。ここ十数年は砦西には行っておらんから、勘違いじゃったか」
「どなたか他の方と、間違えておられるのでは?」
子淡の言葉に、師君はポンと一つ手を叩いて、目を見開いた。
「おお! そうじゃ! あやつに似ておるのじゃ。十年ほど前に儂のもとから旅立っていった弟子の張泰潔に」
「泰潔大哥?」
子淡は中々思い出せず、首を捻る。
「子淡は殆ど一緒に過ごすことはなかったから、覚えておらんかもしれんのう」
「それで、泰潔大哥は、今は?」
師君は首を横へと振った。
「音信不通で、全く連絡がつかん。消息不明じゃ」
「そんな……」
「もしかしたら、儂の力が及ばない他国にいるのではないかと、思ってはいるのだが……」
「そうですか……。もし他国にいるのだとしても、元気でいて下されば良いですね」
「そうじゃな。……して、洸の力はどれ程なんじゃ? 早速、見せてもらおうかのう」
洸は師君の言葉に応え、子淡に教えられて練習していた亀の絵を描いた。
描き上げられた亀は紙から抜け出し、のろのろと机の上を歩く。
師君が顔を近づけて、亀を観察していると、驚いた亀が頭と手足を甲羅に引っ込めた。
「絵に戻すことは出来るか?」
「はい」
師君の言葉に、洸は頷き、亀に紙をあてた。
その瞬間、亀は紙に吸い込まれるようにして消えていく。
紙には、頭と手足を引っ込めたままの亀の絵があった。
「もう一度出せるか?」
「はい」
洸が紙に触れ念じると、コロンと甲羅に入ったままの亀が転がり出て来た。
「はは」
師君は笑いながら、指で亀を突く。
「うむ。完璧じゃ。本物と変わらぬ。では、最後にもう一度、紙に戻すのじゃ」
「はい」
また、洸が紙を亀にあてると、紙の中に絵となって、入って行った。
「ほほほ。これは、凄いのう。もう既に、子淡の力を超えておる。子淡、最早お主の手には負えぬであろう?」
「はい、師君。来て下さって、本当に助かりました」
子淡は、ホッと息を吐く。
「洸。お主は、力の制御も絵の基本もしっかりと身についておる。二月程で、ここまでになるとは、末恐ろしいのう」
「本当ですか!? 子淡大姐のお陰です!」
師君の過大評価に洸は驚愕し、目を輝かせて子淡を見る。
「そうか。子淡も成長したのう」
「いえ。師君の教えをそのまま洸に伝えただけですから……」
二人の言葉に、子淡はこそばゆくなり、言葉尻も声が小さくなった。
「謙虚じゃのう。それは、美徳ではあるが、過ぎれば卑屈に感じられるから、気をつけねば。お主はもっと自信を持つべきじゃ、な」
「はい……」
「それから、洸は画力の方もずば抜けておる。儂を越すのも直であろう」
「えっ!?」
「だが、これだけは忘れてはならぬ。決して、自惚れてはいかん。己の力を過信して、驕る。それはとても愚かなことじゃ。超えたとは言え、子淡はお主の師だ。それは生涯変わらぬ。師を蔑ろにするようなことなく、敬うことを忘れぬように。だが、師も人間じゃ、道を踏み外すこともないとは言い切れぬ。そんな時は、道を正すのも弟子の役目。それらを忘れず、研鑽を積むことじゃ」
「はい。師の師は、師も同じ。今の教えを忘れず、天を目指します!」
「ほう! 天を目指すのか! それは大きく出たな! ほっほっほっほ。そなたの将来が楽しみじゃ。まだまだ、長生きせねばのう」
「ええ、師君。洸ならばきっと、龍を昇天させることが出来ましょう」
それから、師君は、芙蓉宮に滞在して二人を指導しながら、画院の方へ顔を出したり、浩藍の手伝いをしたりと忙しく過ごしていた。
* * *
章絢と分かれ、弓州の庁舎に着いた麒煉と丹管は、趙州牧に面会を求めた。
右丞相の印綬を見せた麒煉は、直に趙州牧の部屋へと通された。
趙州牧にも印綬を見せて、麒煉は言った。
「久しぶりだな、侶明。元気にしていたか?」
「ええ。李丞相もお元気そうで、ようございました。今日は突然のご来訪、如何されましたか?」
麒煉の印綬を見た侶明は、その意図に従って返事をした。
「急に来て済まないな。だが、浩藍から訪ねるかもしれないとの書状は届いていたのではないか?」
「ええ。飛燦国へ向かう途中で、寄ることがあるかもしれないとは、書いてございました」
侶明と浩藍は、叔父と甥の関係である。
侶明は、浩藍の父である兵部尚書、趙路晶の弟として、軍の方にも多少は顔が利く。
「そうか。この者は、近衛武官の馬丹管だ。聞いてはいたであろう? 会うのは初めてか?」
「ええ。弓州牧の趙侶明と申す」
「はっ。馬丹管です。お見知り置きを」
二人の自己紹介が済むと、麒煉は直に本題に入った。
「侶明。早速で悪いが、少々急いでいてな。州軍を借り受けたいのだが、国や侶明に忠実な者だけを借りたい」
「ほお。遂に尻尾を掴まれましたか?」
「ああ。餌を撒いたら、食い付いて来たわ」
侶明は、麒煉の言葉に、目を細める。
「そうですか。ご安心下さい。州司馬は、曲がったことが嫌いな少々融通の利かぬ固い男故、その部下達も義や忠に篤い者達ばかりです。まぁ、要は例の者と州司馬とは水と油ということで、例の者はこちらで浮いております。ただ、清廉潔白な州司馬と合わない一部の者達を上手いこと使って、裏でこそこそしているようですが……。私もなかなか尻尾を掴めなくて、手を拱いていたんですよ」
「そうであろうな。黄御史も手子摺っているようだからな。ところで、黄御史はここにいるのか?」
「ええ。ヤツにずっと張り付いているようですよ」
「今はどこにいる?」
「ヤツは街へ視察に行くと言っておりましたので、金商(金繁商会の略)あたりにおりましょう」
「ほお。ヤツは金商と親しいのか?」
「ええ。昵懇の仲だとか」
「そうか」
侶明の言葉を受けて、数瞬、黙考した後、麒煉は決断した。
「これは良い機会だ。早速、金商に乗り込むか。侶明、州司馬のところまで案内してくれ。あと、信のおける者に砦西にいる章絢のところまで使いを頼みたい」
「畏まりました」
三人は、直に動いた。
※ 「子曰、君子喩於義、小人喩於利」……先生(孔子)がおっしゃることには、「学徳ある立派な人は人の行うべき正しい道に敏感で、教養がなく心の正しくない者は利益に敏感である」[論語]
右丞相……尚書省(全ての官府の中心。法案などの最終決定機関)の長官。
本作では、左丞相は皇帝である麒煉が兼ねていて、右丞相も麒煉の隠れ蓑の身分なため、次官の左丞と右丞が主な業務を執り行っている設定です。
州司馬……州軍の最高責任者。
県尉……県の軍事、警察行政の最高責任者。
御史……御史台の官吏。
兵部尚書……兵部省(国の軍政、国防を司る機関)の長官。