10.疑心暗鬼を生ず
新婚さん甘々注意報発令中。
朝になり、身支度を終えた子淡に起こされた麒煉、章絢、聲卓の三人は、案の定、二日酔いになっていた。
重い頭を抱え、花梨老娘から出された薬湯を、三人は顔を顰めながらもなんとか飲み干す。
麒煉は、迎えに来た護衛に支えられながら、重い足取りで自分の宮まで帰って行った。
そして、章絢は、今日一日は家でゆっくりすると麒煉に言付けていた。
「張県令。部屋を用意してあるから、そちらでゆっくりと休んでから出発するといい」
聲卓はそんな章絢の言葉に甘え、客間で昼まで休ませてもらい、昼食をいただいてから、砦西へと旅立って行った。
午後から執務室へ赴いた麒煉は、早速、浩藍に昨夜のことを報告した。
話が進んで行くうちに、浩藍の眉間には皺が刻まれていく。
そして、麒煉の話が終わると、それまで黙って聞いていた浩藍は、遂に声を発した。
その声は、地を這うように低い。
「陛下。勝手に話を進めないで下さいと、何度も、何度も、口を酸っぱくして申し上げておりますよね?」
麒煉は、浩藍の口角が上がり笑みの形は作っていても、目が全く笑っていない笑顔に、怒気と威圧を感じ、恐怖で後退りしそうな身体に活を入れて、なんとか答える。
「そう、だった、かも?」
主君の何とも情けない返答に、浩藍は呆れて息を吐く。
「はぁ。いくら非公式の場だとは言え、言ってしまったことは取り返しがつきません。今回は何とかなりそうですし、何とかしますが、今後は、即断即決はお止め下さい」
「ああ」
「本当に分かっておられるのですか? あなたはいつも、いつも……」
浩藍の説教と愚痴は、その後一時程続いた。
その間、麒煉は嵐が過ぎるのを、ただただ身を縮こめて待っているだけであった。
それから数日後、麒煉は言葉通り、砦西へと向けて、資材と人員を送った。
だが、その後一月が経っても、聲卓からは、返礼どころか何一つ書簡が届かなかった。
これには流石の麒煉も、居ても立っても居られなくなってきていた。
そんな時だった。
画院の方から、新しい顔料を加工して、染料と釉薬にし、織物と陶器にした物が出来上がったとの報告が来た。
早速、麒煉は画院を訪れた。
「陛下。こちらが完成した新しい織物と陶器でございます。いかがでしょうか?」
「ほう。思っていた以上のものが出来たではないか。どちらも美しい。これは、権力者ならば誰しもが渇望するであろうよ。だが、そうなると別の心配が出て来たな……」
麒煉はこの美しい工芸品を求めて、戦が起きやしないかと危惧した。
−−ただの杞憂であれば良いが……。
「制作者達には褒美を取らせよ。あと、これまで以上に技術の流出を防ぐよう目を光らせ、警備を堅固にするように」
「はっ!」
執務室に戻った、麒煉は浩藍に尋ねた。
「浩藍。各国への派遣の準備は済んでいるか?」
「はっ。こちらに」
浩藍が麒煉へと書類を渡す。
「飛燦国へは俺も使者として同行する。あとの国はこれで良い。物品が揃い次第出発とする」
「はっ!」
麒煉が急がせた結果、それから一週間程で、飛燦国に持参する分だけは、織物と陶器を揃えることが出来た。
この日、麒煉と章絢は、執務室で飛燦国への旅程の最終確認をしていた。
「章絢。相変わらず、砦西の方からは何も音沙汰はないのか?」
「ああ。やはり、姜別駕の手の者が途中で握り潰しているのだろうか?」
「恐らくは。まさか、張県令がヤツの手の者だったということは、ないだろうな?」
「流石にそれは、考え過ぎだ。疑い出したら、切りがないぞ」
「分かっている。信頼関係を築くには、先ずは信用しなければいけないということは。だが、一度疑うと、全てが疑わしく思えてくる」
憂い顔の麒煉を、章絢は憐れむ。
「そうだな。信用し過ぎて、身を滅ぼすわけにはいかないから、慎重にもなるよな」
章絢の言葉に、麒煉は思わず弱音を吐く。
「皇帝としての立場が、とてつもなく重くて、足下が覚束なくなることがある。そんな時、お前がとても羨ましくなる」
「それは、隣の花が赤く見えているだけだ。お前の立場も、俺の立ち位置も天帝が定められたものだ。逆らうことは許されない。ならば、それを全うするしかないだろう?」
溜め息を零し、麒煉は淡く笑む。
「はぁ。そうだな。全て天帝の思し召しだと言って、逃げてしまおうか?」
「随分と弱気だな。だが、そんなことをしたら、それこそ天罰が下るだろうよ」
「だが、少しくらいなら許されるだろう? 天帝は懐の深い御方だからな」
「まぁ、子の言うことならば、少しの我が儘くらいはお許し下さるかもしれないな」
自分を思いやってくれる章絢の存在を、有り難く思い、麒煉は普段中々言葉に出来ない思いを口にする。
「フッ。少し吐き出したら、すっきりしたよ。お前がいてくれて良かった」
「殊勝なことだな。明日、雨が降らなければ良いが……」
「全くだ。先程、飛燦国へ持って行く分の織物と陶器は、揃った。明日は、朝一にここを立つ。飛燦国へ向かう序でに、砦西の件も片付けたい。かの国へ行く前に、この国の膿を出す。そのつもりでいてくれ」
「分かった。……晴れると良いな」
「ああ」
二人は窓の外を見遣った。
* * *
−−出発の前夜、章絢は愛しの妻、子淡と夫婦の時間を過ごしていた。
「子淡。また暫く、会えなくなるよ」
「章絢。寂しいけど、仕方が無いわ。どうか、麒煉大哥を助けてあげて」
「分かっているよ。子淡は麒煉に甘いよな」
「そうかしら? 恐れ多いけれど、私にとっては兄のように大切なお方だから」
「はぁ。複雑だな」
「くすっ。実際、義兄になったわけだしね。でも、愛しているのは章絢だけよ?」
「子淡! 俺もだ」
章絢はたまらず子淡を抱き締める。
そのまま、耳元で囁いた。
「まあ、兄のように弟のように思っているのは俺も同じというか実際そうだし、手助けはするけどね。それに、飛燦国に行けば、洸の出自も分かるかもしれない」
「そうなの?」
「ああ。洸には内緒だよ」
「ええ」
章絢は、腕を解き、「ところで、洸の修業はどう?」と、子淡に尋ねた。
「洸は私以上の才能があるわ」
「本当かい?」
「ええ。教えれば直に吸収して、教えたこと以上の力を発揮する。飲み込みも応用力も天才的だわ」
「それはスゴいな。俺がいない間、洸を子淡一人に任せるのは心配だな」
「実は私も少し不安になって、師君に手紙を出したの。そしたら、洸に会ってみたいから、近いうちに訪ねるとの返事が来たわ」
「そうか。それなら安心だな」
「くすっ。章絢は本当に私に過保護よね」
「それはそうさ。君が俺の全てだからね。君に何かあったら俺は生きてはいけないよ」
「それは私も同じだわ。危険なことはしないで」
「ああ。君も」
それが守ることの出来ない約束であることは、互いに分かっていた。
それでも、現実のものとなるように言霊を紡がずにはいられなかった。
「章絢。今度はこの笛を持って行って」
「それは……」
「前に言っていたでしょう。この笛は私のようだと。本当は私が一緒に付いて行きたい。でも、それは無理でしょう? だから、私の代わりにこの笛を連れて行って欲しいの」
「子淡……」
「お願いよ、章絢」
「はぁ。分かったよ。君には敵わないな」
子淡から笛を受け取った章絢は、それを口元に持って行き、奏で始めた。
有名な恋の歌に、子淡は笛の音に寄り添うように詩を乗せる。
二人の情熱的な愛の調べは雲を遏むほどであったが、なぜだか哀愁を帯びていて、切なく感じられた。
こうして、暫しの別れを惜しむ新婚さんの夜は更けていった——。
* * *
−−出発の朝、まるで天も味方しているかのように、空は青く澄み渡り、雲一つ見当たらなかった。
「それでは出発!」
「はっ!」
飛燦国への貢物を積んだ荷車には、三人の官吏が乗っていた。
更にそれを取り囲むように、五人が騎乗して荷馬車を守っている。
麒煉と章絢は、列の一番後ろにいた。
「章絢。朝早かったが、天女に別れの挨拶は出来たのか?」
麒煉が章絢に近づき、彼にだけ聞こえるように小声で話しかけた。
それに、章絢も小声で応える。
「ふん。それは、眠る前に済ませたさ」
「そうか」
「お前こそ、可愛い子供達に挨拶したのか?」
「はっ。するわけないだろう。あそこでは俺はずっと天迎宮に籠っていることになっているんだからな」
「おっと、そうだった」
「まあ、顔は見て来たがな」
健やかに眠る息子達の顔を思い浮かべて、麒煉は微笑む。
「出来る限り早く戻れるように努力はしよう。……それから、お前もこれを持っていろ」
麒煉はそう言って、一枚の絵を章絢に渡した。
「なんだ? ……これは……」
「洸が描いた天女、……母親の絵だ。飛燦国で役に立つかもしれないからな」
「そうだな。まだあるか?」
「ああ。洸には出発までに描けるだけ描いてもらった」
「ふーん」
「なんだ?」
「いや、なんでも」
「言いたいことがあるなら、はっきり言え!」
「沢山の天女の絵を懐に忍ばせているなんて、随分な好色だなと思っただけだ」
「おーまーえーな! これは下心で持っているものじゃない。分かっているくせに、よくもそんなことが言えるな! そんなことを考えるお前の方が余っ程、好色だろ。子淡に注意するように言っておかないとな」
「おいおい、冗談に決まっているだろ! 子淡には言うなよ!」
「お二人とも、ほどほどにして下さいよ。沿道から、変な目で見られているんですけど……」
そう言って、荷車の右側を守っていた武官の馬丹管が二人の話に割り込んだ。
「ゴホン。それは悪かった」
「悪いな」
いつの間にか声が大きくなっていたことに気付き、二人はばつが悪そうに謝った。
丹管は、そんな二人の態度に苦笑した。
「まだここは都だから良いですけど、馬上でただでさえ目立つんですから、気をつけて下さいよ」
その後は、元の隊列に戻り、蹄の音と荷車の車輪の音が街道に響いていた。
道行く人々は噂した。
「皇帝陛下の御進物が、他国へ運ばれていくよ」、「遂に献芹されるのか」と。
その言葉には、「皇帝陛下は他国に媚を売って、戦から逃れようとする腰抜けだ」との揶揄が含まれていた。
※ 雲を遏む……[意味] 空を流れ行く雲を止めるほど、楽曲や歌声が美しく、優れていること。
献芹……[意味] (つまらない野草のセリを献上する意から) 人に物を贈ることをへりくだっていう語。君主に忠義を尽くすことをへりくだっていう語。